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風巻隆「風を歩く」からNo. 288

風巻 隆「風を歩く」から vol.1 LP「円盤」〜小杉武久さん 

電話が鳴る。「すとれんじふるうつの小黒です。こんどさあ、ニューヨークから小杉武久が来るんだよ。カザマキくんとのデュオでどうかって話をしておいたから、2月19日なんだけど、スケジュール空けといて。そんでさあ、また録音するからレコード作ればいいじゃん、2枚目の…。」1983年のはじめ、その前年に鶴巻温泉の「すとれんじふるうつ」での向井千恵さんとのライヴから自主製作のLP「風を歩く」を作ったボクは、2年半住んでいた吉祥寺のアパートが火事になったことに背中を押されて、ひと夏をツアーで全国を回り、その頃は井の頭に居を移して、週末は路上でよくソロで演奏をしていた。

小杉さんは現代音楽の鬼才などと呼ばれ、もう何年もニューヨークに住み、ジョン・ケージ、デイヴィッド・テュードアらとともにマース・カニングハムのダンスカンパニーの仕事をしている知る人ぞ知るミュージシャン。ボクも何度かステージを観たことはあるけれど、デュオで演奏するなんて思いもよらない特別な人だ。小田急線・鶴巻温泉にあった「すとれんじふるうつ」を小杉さんはとても気に入っていて、音具の鈴木昭男さんとのライブなどでは狭い店に超満員のお客さんが集まり、熱気の溢れる会場に、どこまでも自由で、伸びやかな音が広がっていた。

気さくなマスターのオーちゃん、しっかりもののママさんのピピちゃん、二人の娘で小学生のもきちゃん、犬のホッペ。録音をしてくれる加藤さん、写真を撮ってくれる木川くん、カウンターの中の耕平くんや、渋谷くん、みやさんは店の常連で、コンサートのときはスタッフになる。「すとれんじふるうつ」のアットホームな雰囲気と、集まったお客さんたちの暖かい視線はミュージシャンを熱くさせ、いい演奏を引き出していく不思議な力を持っていた。

この店だから実現できた小杉さんとのデュオだったが、この日も、多くのお客さんが詰めかけてくれていた。リハーサルのとき、「今日はこんなもの持ってきたんですよ。」と、小杉さんが、ヴァイオリンのケースからリコーダーを取り出して吹きはじめる。息と一緒にうなるような声も吹き込めていくと、日本の能か、アジアの呪術的な民族音楽のような響きがしてくる。おそらく、ボクのタイコとの相性を考えて用意してくれたものなのだろう。ただ、こちらはほんどやることは一つ、タイコを肩から下げて、肘で音をコントロールしながら叩いていく。この頃は、まだタイコに和太鼓の牛の革のヘッドをつけていたので、笛とタイコは、どこかお囃子のような響きを作り出していた。

「さー来い、お前が出て来い」と言わんばかりにヴァイオリンが鳴る。ボクは韓国のドラを口にくわえ、中国のドラを使ってメロディアスなアプローチを始めると、二人は、スピード感を共有しながら演奏を駆け抜けていく。ボクの音楽の根っこにあるのが、ジャズやヨーロッパの即興音楽ではなく、沖縄・八重山の民謡や、インド音楽やアジアの民俗音楽だということを、小杉さんはわかっていたのだろう。ボクのタイコの音が、ジャズではなく、東洋的なグルーヴを作り出していることに即座に反応する小杉さんの音楽の、懐の深さにボクは感じいっていた。

そのときの演奏は、LP『円盤』として風狂舎で自主制作することになる。レコードを作りたいという話を小杉さんにしたとき、「それは円盤ですか?」と聞かれたのがタイトルの由来。当時はカセットレーベルが全盛期で、お手軽に自分達の演奏を作品として流通させていた。ただ音質ではLPには劣るので、LPを作るのなら、「すとれんじ」の人達と一緒に作るのならまあいいでしょうということだった。当時まだ獄中にいた、東アジア反日武装戦線の荒井まり子さんにジャケットのイラストをお願いすると、小杉さんのイメージに似た絵を鉛筆で描いてくれた。

『円盤』を作った翌年、1984年の春から夏にかけて、ボクは、ニューヨークのイーストヴィレッジ、ファーストアベニューにある小杉さんのアパートを、ツアーの留守を預かる形で間借りして3ヶ月程音楽活動をすることになる。アスター・プレイスというイーストヴィレッジの地下鉄の駅の近くの広場で毎夜のように路上で演奏し、小銭を集めてはコリアンのグロッサリーで、おかずの量り売りを買う毎日。ピザはトッピングなしのプレーンという貧乏暮しだったけれど、思いのほか音楽活動ができ、ボクはニューヨーク・デビューを成功させることができた。

まだ20代の、東京から来た、肩から提げたタイコを叩く無名の打楽器奏者が、ニューヨークで注目されたのは、<コスギと演奏した男>でもあったからとわかったのは、随分あとになってのことだった。2018年、小杉武久さんは80歳の生涯を閉じることになる。LP『円盤』は今では、中古レコードのレアアイテムとして法外な値段で取引され、制作者のあずかり知らない場所で、どうやら海賊版が出回っているらしい。

考えてみれば小杉さんもボクも、その音楽キャリアの初期に、野外の移ろいゆく時間の中で自由に音を解き放っていく企画を行ってきた。小杉さんで言うとそれは、海岸で日がな一日音を奏でるという「ピクニック」というイベントであったり、さまざまな場所で環境に対して音で働きかける「タージマハール旅行団」の活動だったりする。

ボクはと言えば、チラシで呼びかけた参加者と一緒にいくつかの野外のイベントを行っていて、1981年瀬戸内海・男木島で行ったオールナイトで演奏しながら島を巡る「百鬼夜行」、1982年夕方の新宿中央公園から早朝の皇居前広場まで音を出しながら歩いていく「東京 百鬼夜行」、1983年横須賀・猿島という無人島で、日がな一日自由気ままに音を出す「廃墟のシマへ」といった、いわゆる「音楽」の範疇に入らないイベントを行っていた。

おそらく、それぞれ別の時間であったにせよ、小杉さんもボクも、東京芸大で小泉文夫先生の薫陶を受けたことによって「音楽のあり方」への疑問を生み、新しい「音楽のあり方」への可能性へと思考を向かわせたのだろう。そうした、音楽をとりまく制度への異議申し立てから音楽のキャリアを始めたということでは、小杉さんとボクは、少しだけ似たところがあるのかもしれない。

LP「円盤」のジャケット裏には、「即狂のおと」というマニュフェストが書かれている。「即狂」という造語は、当時ボクが即興の代わりに使用していた言葉で、1981年の秋に、「MMDをブッつぶせ」という野外パフォーマンスを、渋谷駅の国道246上の歩道橋で行ったときから使っていた言葉だ。音楽の一ジャンルとしての「即興演奏」ではなく、誰もが根源的なところで持っている「生への衝動」を、自らの表現で解き放つもの…と、その頃はそんな風に考えていた。今ある自分を捨てて、気づかない自分を生かすこと、未知の可能性を今にかけること…。

もちろん今となって考えれば、そうした「異議申し立て」もまた、音楽とは何か、即興というものは何かということを考え、即興という方法を自分のものにするために行った、さまざまな「即興を探す旅」の中の一つの現れだったのだろう。小杉さんと出会ったことがきっかけとなり、ボクはニューヨークへ行くことになり、ニューヨークという風通しのいい場所で、さまざまな出会いを通して、ボクはボクの音楽活動を一歩一歩進めていくことになる。その頃は、「新しい音楽(New Music)」という潮流がニューヨークにはあって、ボクもそこへ入っていくことになる。

風巻隆

Kazamaki Takashi Percussion 80~90年代にかけて、ニューヨーク・ダウンタウンの実験的な音楽シーンとリンクして、ヨーロッパ、エストニアのミュージシャン達と幅広い音楽活動を行ってきた即興のパカッショニスト。革の音がする肩掛けのタイコ、胴長のブリキのバケツなどを駆使し、独創的、革新的な演奏スタイルを模索している。東京の即興シーンでも独自の立ち位置を持ち、長年文章で音楽や即興への考察を深めてきた異色のミュージシャン。2022年オフノートから、新作ソロCD「ただ音を叩いている/PERCUSSIO」をリリースする。

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