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R.I.P. 坂本龍一No. 301

R.I.P. 坂本龍一 『千のナイフ』以前の思想 by 金野Onnyk吉晃(コントリビューター)

text by Yoshiaki Onnyk Kinno 金野 Onnyk 吉晃

以下に記載するのは、1975年に、当時23歳の坂本龍一が積極的に関わっていた「環螺旋体」という集団のアピール用チラシの一部である。
この集団に参加したのは小島録音(ALM RECORDS)、半夏舎(間章主宰)、ダークデザインインスティテュート(竹田賢一主宰)、学習団(竹田賢一・坂本龍一主宰)である。
筆者が写したこのテクストは『同時代音楽2-2』(1980)という雑誌の表紙に「資料=環螺旋体ビラ 一九七五年初夏」とあり、本来のビラではない。
全体としては長文なので、坂本龍一の関わった文を、竹田賢一氏の許可のもと再録する。
一読、学生運動の影響が色濃く、過剰に理知的な文章だが、その若き左翼、坂本はその後どんなアーティストに変貌したか、それを読者諸氏がいかに評価するか。まさにその資料としてここに提供したい。
なお、「学習団」の理念は多分に、コーネリアス・カーデューと彼の組織した「スクラッチ・オーケストラ」を参考にしていると思われる。カーデューとスクラッチ・オーケストラについてはマイケル・ナイマン著『実験音楽 ケージとその後』(1974、邦訳あり)を参照の事。
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<環螺旋体>設営アピール
我々は決して部分や局面においてではなく、音楽にまつわる関係、場、存在形態、構造の呪縛や抑圧を新たなる地平へ向けて解放するために、具体的に行為し、行動する有機的な運動体であり、集団である。我々はその機能を、まず、さまざまなレベル、場における関係を晒し、鍛えることとして把握する。我々は我々自身の運動主体内の分業的敵対を問い、解体し、止揚する運動を持続しながら、同時に我々をとりまくさまざまな人々、他のグループ、演奏者、作曲者、プロモーター、レコード会社etc、彼等と我々の関係の運動化へ向けて行動する。さらに未知の人々との具体的で有機的な関係・場を共有し共に働きかけるために行為する。我々は特定のメンバーから出発するが、それは我々の集団を限定するものではなく、さらに未知と具体へ向けて運動し、さらに開き剥き出しにするために我々自身の関係への闘いを深め、何物も回避せず着実に歩んでいくためのひとつの関係の磁場ととらえることから出立する。そして我々は、自ら生産関係・階級制を問い新たなる関係への闘いを形成し展開していこうとする運動主体である各領域、各階層の人々、個人、集団と共に、運動することを目指していく。また、我々のこのような運動が、領域的な限定を越えて各戦線で形成されることを望む。
我々はこれまで個別に、ミュージシャンとして、レコード制作者として、評論家として、作曲家として、コンサート・プロデューサーとして、あるいは聴衆として、それぞれの場所で音楽と関わってきたが、この関わりの中から我々の活動=生産が、商品という形態をとることによってのみ流通することができるというような状況を拒否し、我々の活動=生産が商品として資本家を肥やすことなしに人々のもとに届くための、生産・流通機構を含んだ運動を展開していく。我々の当面のエネルギー源は、音楽の受容者・生産者という二元的な疎外に関わるときの、我々の二律背反性の能動化すなわち、引力と斥力である。
我々は、資本家が自らを肥やし保全するために人々を利用し、抑圧する、その具体的なプログラムを知り、また、資本家の専制下にある人々の欲望の所在と形態を学ぶことで、我々の戦略・戦術を相互学習・相互批判によって形成し、鍛えあげていく運動を展開していくことを、ここにアピールする。
起草:間章、小島幸雄、竹田賢一、坂本龍一、須藤力

“学習団”から友人諸君へ!!
何のために、誰のために“音楽”を生産するのか。“新しさ”と“革命性”が相反する“シニフィアンの専制”による組織する側の“受けての受動性”(それはあらかじめ管理された商品による擬似創造を含む)体制を解体する戦略を学ぶこと。組織されつつ規範を逸脱する人民の欲望に学び、階級制をもった交通ルートを設営することにより、人民自身の財産としていくこと。無意識的に或いは故意に忘れ去られた過去の財産、民族の財産を発見し、拡張することで人民自身の財産とすること。それと同時に資本の側からのそれらに対する収奪を阻止し、粉砕すること。ある音楽が人民自身の財産となるか否かの判定として、さしあたりその音楽のエリート性が基準となる。現行において難易度・新しさは階級性(社会性)と切り離しては考えられない。江戸時代において文楽を修業できた者の階級性を問う視座は、未だにある有効性を持っていると思われる。ある音楽を階級性・民族性ときり離して聴く聴き方(シニフィアンの専制)をマス・メディア・教育等を通して24時間的に流通させている体系を粉砕していくと同時に、我々の聴き方を人民の欲望の側から学びとること。その学習過程の相互批判(人民の中での)の材料として“音楽”をrealizationすること。このように我々は“音楽”に過剰な幻想を押しこめることをやめなければならないし、又それは静的な“小宇宙”などではなく常に批判検討に晒されることにより、いつでも誰でも変更できるsystemを担っていかなければならない。そこでは“作品、作者”という類のブルジョアジーの生産した機能は消滅しているだろうし、とりもなおさず我々自身(音楽スペシャリスト)を揚棄していく作業過程でなければならない。これらの作業の下部構造としてまず人民内部での階級分断に対して賃金平等、私的所有の廃棄を我々内部で模倣的に先取り実践していくことが必要である。

金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。「第五列」の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

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