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R.I.P. ペーター・ブロッツマンNo. 303

ペーター・ブロッツマン追悼 by 一噌幸弘

text by Yukihiro Isso 一噌幸弘

ぺーター・ブロッツマンについて

1「ファンとして
高校生の頃の私は、ペーター・ブロッツマンのレコードを聴いてそのアグレッシブな演奏に強烈に衝撃を受けました。
初期のフリージャズの形式は、オーネット・コールマン、アルバート・アイラー、後期コルトレーン等、の演奏形式は主に「主題のテーマはありますが、即興パートは、コード進行もリズムもモードも何の制約もない自由な即興演奏になり最後にまた主題のテーマが出てきて終わる形式」のスタイルが主流でした。(セシル・テイラーはそうでもありませんでしたが)
私が初めて出会ったフリージャズはそういった形式とは異なるヨーロッパ系のフリージャズから聴いていました。
ペーター・ブロッツマン、デレク・ベイリー、エヴァン・パーカー、アレキサンダー・フォン・シュリペンバッハ他色々聴いておりました。
そして、ブロッツマン他のヨーロッパ・フリージャズの演奏家達は、主題テーマのメロディが全く存在しない完全即興演奏の形式が主流でした。
ジャズ音楽の形式は、テーマ〜アドリブ〜テーマ、つまりABAという形式になりがちですが、主題テーマすらないヨーロッパ系のブロッツマンの演奏に衝撃を受けました。
当時の私は、能楽を始めとして西洋クラシック音楽、ジャズ、ロック、フラメンコ、インド音楽等、さまざまな音楽を聴いていましたが、ブロッツマンの強烈なサキソフォンにファンとして心を打たれたものでした。
私はFMPレーベルのレコードをたくさん聴いていました。主題テーマのあるフリージャズは、その後に聴いたオーネット・コールマン、アルバート・アイラー等でした。なんとブロッツマンは絵画も素晴らしくジャケットデザインも魅力的でのちに本人が描いたものと知り、たいへん驚いたものです。

2「実際に初めて共演した時のこと」
ブロッツマンとの最初の出会いは、能楽と並行しながらさまざまなジャンルの音楽活動をしていた時に、今治のジャズフェスティバルに出演者として呼ばれたときでした。メンバーはビル・ラズウェル、アントン・フィアー、坂田明、仙波清彦そしてペーター・ブロッツマンと私、一噌幸弘。
・(※IMABARI MEETING 1991 LIVE~瀬戸内海音楽祭 VOL.1 (1991 …でCDになっています。)
ブロッツマンと一緒に共演した時は、完全な即興演奏だけしかしない、何の決め事もない演奏だけを徹底的に貫く潔ぎよい姿勢は、「素晴らしい」という感想を持ちました。
コンサートではレコードで私が思っていた印象通りのスタイルでした。テーマ等を演奏してからの即興は過去の形式と考えていたようでした。具体的には、当時メンバーの一人がテーマのある楽曲を持ってきた事に対して、「コルトレーンが亡くなってもう何年も経つのに、まだそんなことをやっているのか。」とブロッツマンが言い、自身のスタイルに彼が徹していたことを覚えています。
ブロッツマンは、強烈でノイジーな迫力のあるサキソフォン、クラリネット、あと私が驚いたのはタロガトウというハンガリーの民族楽器を用いていました。
その時のライヴで私と坂田さんがどちらとも言わず<りんご追分>のモチーフを取り出して即興演奏し、それに応える形でブロッツマンが強烈なソロを展開したことが印象に残っています。
その後スタジオに入って「東京ミーティング」というCDをレコーディングしました。
3・「TOKYOミーティング、レコーディングの話」
レコーディングの時はブロッツマン、ジンジャー・ベイカー、アフリカンハープのスーソーフダイ、近藤等則、坂田明、ビル・ラズウェル。
スタジオでの録音で、スーソーフダイさんの歌が印象的でした。
あらかじめリズム隊に合わせて演奏するテイクと他は全員でフリーだったように記憶しています。(今思いだせないところです。)
その後これが終わったらまた演奏しましょうという話で盛り上がりました。
・「VIER TIEREについて」
(※『VIER TIERE』Clockwise 1994 という一噌幸弘、ペーター・ブロッツマン、川端民生、古澤良治郎と繰り広げる、1993年新宿ピットインでのライヴ音源。)
新宿ピットインのライヴです。
最初の演奏の出だしは「ヒャリ、ヒュイ、ヒョラ」切って吹く狂言アシライ的なフレーズで始まって、ブロッツマンも私の即興アシライに答えての展開で始まりました。お互いにアグレッシヴに吹く部分があったり対話的なフレーズになったり、私とブロッツマンは従来のジャズ的なフレーズを一切吹いておりません。
また私がこのライヴで吹いている能管は400年ぐらい前の古管の古獅子田と言う能管です。他に田楽笛も演奏しております。
今だから話せますが、実は私が川端さんのエレキベースを借りて弾いている場面があります。
もうこのライヴのメンバーで生きているのはブロッツマンも亡くなった今、私だけになり寂しいです。


4「ブロッツマンの音楽性について」
ブロッツマンのフレージング・スタイルは、迫力のあるノイジーなフリークトーンのアグレッシブさで、圧倒されます。ブロッツマンならではのビブラート、つまり日本の笛や尺八の首振りユリのようなビブラートに似た表現をしますが、(日本の笛や尺八は縦に振りますが)ブロッツマンは横に振るユリとその奏法による連打音が特徴的です。
従来のジャズ・サクソフォン奏者とは一線を画す奏法です。そしてビバップ・フレーズ、ブルーノート・スケールは吹いているイメージがありません。ブロッツマンならではの旋回し上に行ったり下にゆく巻き返しフレーズは素晴らしかった思い出があります。また、エキゾチックな民族的フレーズも魅力的でした。特にタロガトウを用いて演奏するときに、より民族的エキゾチズムを漂わせているのが素晴らしく感じました。
アグレッシヴな演奏をしていると思ったら静かな部分で素晴らしく美しい旋律を奏でたりするときもありました。
音階の概念というものがない能管のようなプレイ・スタイルに私は思え、それらの演奏法はサキソフォン、クラリネットの可能性を広げたと思います。
先にもお話しした通り、ブロッツマンは完全即興のプレイヤーですが、私が知る限り、ブロッツマンの決められたフレーズ部分がある演奏は『マシン・ガン』(Bro, 1968)というアルバムがあります。
このアルバムにはあらかじめ決められた旋律が出てきます。
私がマシン・ガンを聴いたのはたくさんのブロッツマンのCDを聴きともに演奏をした、だいぶあとの頃で「これが出世作なんだ。」と知りました。
いつのコンサートか忘れましたが、ブロッツマンが演奏しながら私に近づいてきて対話をして欲しいかの如く語りかけるようなフレーズを私のそばで吹いた時がありました。長年フリー・インプロビゼーションだけを極めた演奏者ならではの大きな存在感をその時感じたのを覚えています。
また、法政大学のホールで私が角笛を吹いて掛け合いバトルをした時の事も思い出に残っています。
セシルテーラーの追悼インタビューの時にもお話ししたかと思いますが、ブロッツマンの演奏にも私は室町以前の日本音楽、音階という概念がない時代の音楽、(散楽、田楽、猿楽)を連想してしまいます。
このような極めて突出したフリー・インプロビゼーション、、、(ジャズという言い方をおそらくブロッツマンは好まないように思います。)偉大な巨匠だと思います。

5 終わりに
このところ一緒に演奏する機会がなくご無沙汰しておりましたが、共演することがもうないのかと思うと寂しい限りです。
ブロッツマンの一瞬に命をかけるような即興演奏が生演奏ではもう聞けないのは大変残念です。
「自分にはアップしかない」と本人は語っており、私なりの解釈として、過去を振り返らずその時出した音が全てで導火線に火がつくが如くどこまでも前進していくような演奏で聴衆を魅了する素晴らし演奏家でした。
二度とこのような偉大なアーティストは出てこないように思います。一緒に演奏が出来たことを最高に嬉しく思います。最高の思い出です。
無理な事を考えてしまいますが、またブロッツマンさんが生き返ってきてあのアグレッシブで美しい演奏と共演したいです。
ペーター・ブロッツマンさんのご冥福をお祈りいたします。


一噌幸弘 Yukihiro Isso

東京都練馬区出身。安土桃山時代より続く能楽一噌流笛方、故一噌幸政の長男として9歳の時に「鞍馬天狗」で初舞台。以後、「道成寺」「翁」等数々の大曲を披く。能楽師として能楽古典の第一線で活躍する一方、篠笛、自ら考案した田楽笛、リコーダー、角笛など和洋各種の笛のもつ可能性をひろげるべく演奏・作曲活動を行う。1991年より能楽、自作曲、そしてクラシックの古典まで様々な楽曲をレパートリーに、自身の新しい解釈によるコンサート「ヲヒヤリ」を主宰するなど、能楽堂をはじめとする伝統的建造物や数々のホールにおいて、能楽古典や自作曲、西洋クラシック、ジャズ、即興等を、村治佳織、セシル・テイラーをはじめとする内外の様々な音楽家、交響楽団と競演し、他に類をみない和洋融合の音曲世界を創造している。最新CDは『返シドメ』(Arcangelo, 2021)。
重要無形文化財総合指定保持者/国立能楽堂講師前任
https://issoyukihiro.com/

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