断章『オト・コトバ・ウタ』(2)
text: Yoshiaki Onnyk Kinno 金野Onnyk吉晃
前回に続き三島の日記をまた引用する。
・・・言葉の咒術的機能の衰退は、祝辞や悼辞などの文章の形式的な空疎ばかりを目立たせることになった。しかしこの逆な結果として、願わしい真実を求める万人の平均的嗜好には変りがないままに、それが祭典や祝賀の領域からはみ出して、本来「ぶざまな裸の真実」を直視すべき領域までを侵蝕することになった。そしてここまで来れば、彼らの求めているものは明らかな虚偽である。
生活上の形式蔑視の精神や、事実尊重の精神は、民衆の空想力や想像力を事実の領域へ解放することになり、万人向けの妥当な民主的意見には、政治的意見を含めて、「願わしい真実」の影ばかりが揺曳することになる。万人が裸の真実を好まず、目の前に醜い真実と美しい虚偽をつきつけられれば、必ず美しい虚偽のほうを選ぶという発見は、政治家の第一資格とも言うべきで、理想主義的な政治学はみんなこの発見に基づいている。
さて、文学者の遣り口はいささかこれとちがって、ぶざまな裸の真実を美しい言葉で語って、それに「願わしい真実」と同等の資格を獲得させることであるが、又、文学者だけが、単なる美しい虚偽と願わしい真実との、微妙なニュアンスの相違を見分ける職能を持っている。この職能が、一部の連中の間で民衆的感覚などと呼ばれているところのものである。・・・
(『裸体と衣装~日記』(1958~59)より)
「彼ら」とは、民衆、万人、SNS依存者である。そのコンテンツを、オピニオンを作るのは、政治家、ポピュリスト、ユーチューバー、インフルエンサーだ。彼らはアーティストではない。
アーティストとは、日常の役には立たない物事をつくる存在だ。つまり技術者に対して科学者の立場。イラストレーターに対して画家。家畜に対して野獣、ペットに対して野良の動物。農産物に対して野生の植物。飲料水ではなく海と水蒸気と地下水。原発ではなく常温核融合(これ冗談だろうか?)。
とりあえず、言葉を音楽に、文学者を音楽家に置換してみたい。
ここでは、醜い、ぶざまな、裸の、願わしい、美しい、と言った修飾語が、真実と虚偽のそれぞれに恣意的に貼付けられている。あるいは空想力、想像力が、「万人向けの妥当な民主的意見、政治的意見」すなわち虚偽へと移行していくのである。
作家とは、醜くも、麗しくも虚偽を作る者だ。いかなる表現も事実と等価にはならない。画餅にて飽食。
もし、語る言葉が現実になるならそれは咒術師の技だ。人は魔術を、魔術師を、魔法の話を欲する。
そう、ラスプーチンを、グルジェフを、クロワゼットを。ユリ・ゲラーを。彼のレコードをかけるとスプーンはいつもより良く曲がった。アントン・ラヴェイを。彼のオルガン演奏は実に美しい。「悪魔の音楽は恐ろしげではなく甘美だ。人の心に忍び込みやすいように」と彼は言う
ユダヤ人魔術師「スヴェンガーリ」は架空の人物ではない。ヒトラーが恐れ、スターリンが信用したヴォリフ・メッシングがその人だ。
彼はまた、ブルガーコフの小説「巨匠とマルガリータ」にもヴォランドと名前を変えて登場する。ベルリオーズとストラヴィンスキーも。ギル・エヴァンスも?
表現と真実の等価、そう思わせるのが作家の手腕であり、読者は喜んで騙されるか、騙されていることを信じない。読者は虚偽を信じる。作家とは堕落した咒術師なのだ。
虚偽の向こうに蜃気楼のような真実が在る。あるいは真実は、方角のようなものだ。北とは、北極星の在る方角だが、北そのものへ到達する事は出来ない。
ここで急いで付言しておく。真実と現実と事実は違う。
俳優は虚偽つまり演技をつうじて、その役柄という見せかけの実在を感じさせる。勿論彼もその瞬間は自らがその役柄である事を疑わない。しかし誰もが、俳優がその役と同一ではない事を知っている。俳優とは堕落したシャーマンなのだ。
ここにある、丸くて中心に穴の開いた平らで小さな白銅の塊を五十円硬貨として使うのは何故か。その理由を問わず信じる。いや自らを欺かなければニンゲンになれないのだ。ニンゲンだけが魔術を信じる。その魔術の名を「シャカイ」といい、また「アート」という。
音楽はどうか。
音楽は再現芸術ではない。音以外の媒介物を持たない。つまり言語や画面や実体などを介在させない。或る意味はじめから抽象なのだ。それは我々を欺かない。
モダーンミュージックの店長、PSFレーベルの主宰者だった故生悦住(いけえずみ)氏は言った。「音は嘘をつけない」と。
ハーバート・リードは自著『芸術の意味』(滝口修造訳、1949)の冒頭、「すべての芸術は音楽の状態に憧れる。」というショーペンハウアーの言葉を引く(彼はこれをキルケゴールの言だと書いているが、どっちでもいい)。
またリードはこうも言う。
音楽のみが、純粋な抽象として享受者(聴衆)に訴えかける。音楽は形式だけで完成する。しかしまた、このような諸形式はわれわれの美感を満足させる、
その後ですぐ「芸術は美と何の関係もない、というほかはない。」とも語るのである。この意見は同書の中で繰り返し現れる。
これにはショーペンハウアーの言葉以上に反発する人が多いだろう。「芸術に美が無くてどこにあるのだ」と。しかし、私は安堵した。
では自然(宇宙、天空、地形からミクロな世界まで)や人物や機能的な機械類の姿に美はないか。勿論そこに美を見いだすからこそ、自然を模倣し、活写し、撮影して切り取る。それをヒトはゲージュツという。
つまり美は芸術とイコールではなく、主体的判断力である。
セザンヌは自然に憧れ、それを描こうとして己の感覚を信じ、それ故に眼に見えるものを突き抜けてしまった。彼の描く幾何学的な身体、そして破墨山水のような風景。
つまり美を見いだす力=芸術は感官と認識と嗜好と思惑によって齎されるといってもいい。
音楽史ではセザンヌに匹敵する存在は誰か。シェーンベルクを措いてあるだろうか。
人類の絵画は抽象画から出発した。しかし近代画家は具象から抽象へジャンプした。それは作曲家ならば調性から脱却するときだ。音楽家はみな一度はセザンヌになる。無調にして調和。しかしそれはパッセージだ。やさしい、そして「愚鈍なサヨク」のための半音階嬉遊曲とフーガ=遁走論。こーだ。
三島が「(文学は)ぶざまな裸の真実を美しい言葉で語って、それに『願わしい真実』と同等の資格を獲得させること」といい、「(文学者は)美しい虚偽と願わしい真実との、微妙なニュアンスの相違を見分ける」と言い切る。
これは、音楽的行為というものが、野生のオトを巧みに綴り合わせ、空虚な希望を、ウタ、オンガクにすることに匹敵しないか。
希望とは「希なる望み」である。空虚だ。それは殆ど実在しない。実在を感じたとすればそれは幻想か狂気である。
オンガクカは文学者同様、確信犯としてこの世でふるまっている。あるいは、自分がまさに確信した信念や方法が、虚飾であることを忘れる。
動物も嘘をつく。しかし人は自分に嘘をつく事ができ、それを忘れることができる唯一の動物だ。
ヒトは言葉を綴る事で内面を描き出しているつもりだ。つまり内面とは、ココロの内部の有り様などではなく、言葉で構築された記号連鎖なのだ。内部と思っているものは、メディアに記録された(紙に書かれたでもいいし、画面にならんだ文字でもいいが)テクストである。それはある種の傾向や、使用頻度の高い文字、言葉を含んでいる。
しかし、オトを綴って音楽を演奏し、それによって内面を描いていると思う者はいない。歌を歌ってそれが自分の内面を代弁しているというのであれば、これは言葉の連鎖と同じである。シニフェ/シニフィアンの戯れに過ぎない。
そしてオト、音楽にはそれがない。コードを並べても、複雑なパッセージを奏でても意思表示にはならないのだ。
「芸術は美と何の関係もない、というほかはない。」
あるいは、人は内面というレベルがあると信じる。しかしそれはドーナツの穴だ。人は自らを演じる事で、また表現することで、内面という虚偽を育てる。そこに真実が、自己の居場所が在るかのように。内面的とは虚偽的であり、その意味において真実なのだ。
あるいは内面という壁を作るために現実界に穴を掘りだす。音を聴く、これは感覚的な現実だが、それを音楽と信じるのは、まさに内面である。
(続く)
三島由紀夫, ショーペンハウアー, オト・コトバ・ウタ, 『裸体と衣装~日記』