ニューヨーク:変容する「ジャズ」のいま 第13回 蓮見令麻〜手探りでたぐり寄せた、その糸で織ったもの
本誌にコラム『変容する「ジャズ」のいま』を寄稿し始めてから約1年が過ぎた。このシリーズでは、ニューヨークの音楽的共同体の中に身を置く中で見えてきた、「ジャズ」に魅せられた音楽家達の織りなす無数の物語を私なりに丁寧に拾いあげて文章を書いてきた。音を通して浮かびあがる生活、人知れぬ思想と行動、終わりのない探求、人間と人間の繋がり、社会との繋がり、そういったものに焦点を当ててみて初めて、音楽は立体的な形となり浮かび上がってきた様に私には感じられた。
ジャズにおけるある種の全体主義的とも言える視点からはあまりスポットライトを当てられることのない音楽を対象としてこのコラムを書いてきたのにはふたつの理由がある。ひとつは、私なりの音楽的全体主義に対するささやかな反抗である。そしてもうひとつは、【tangible】な、つまり触れられる距離にある実体的なリアリティを伴って初めて対象の創造性及び芸術性と自身が精神的に結合するという個人的な過程なしには音楽に関する文章が書けなかったということにある。
今回、僭越ながら私自身の音楽について書く機会を頂き、どんなことを書くべきかしばらく考えていた。自分自身のことについて書くとなると、個人的な内容になってしまうのではということを私は一旦危惧したのだが、「個人的体験」というテーマとしてはこれまでも一貫しているわけだから、他者について書く場合と同じスタンスで自分の物語についても書いてみようと思う。これはひとつの短い小説の様なものと思って読んでもらうぐらいが、もしかすると丁度いいのかもしれない。
In the Beginning
ニューヨークの大学で音楽を学んでいた当時、私はハードバップに傾倒していた。ジャズ・メッセンジャーズに心酔し、好きなピアニストはと聞かれればウィントン・ケリー、ボビー・ティモンズ、ソニー・クラークの名前をまずあげていたと思う。ジャズについての知識は本当に基本程度しかなかった。その頃から私には気に入ったものばかり何度も聴く癖があって、ジャズ史に関する知識を広げるスピードはとても遅かったと思う。
今思うととんでもないことなのだけど、ジャズ・メッセンジャーズに属していたピアニストであるという予備知識だけを持って、当時私はジョン・ヒックスに師事していた。よく日の差し込むジョンの自宅の居間で、トミー・フラナガンの写真が飾られたアップライトピアノでレッスンを受けていた。「さあ何か弾いてみて」と言われ曲を弾く私に、ジョンは真後ろにあるソファに深く腰掛けて煙草をふかしながら一言二言小さなアドバイスをくれた。たまに気が向くと曲を演奏してくれることもあって、そんな時は私がソファに行儀よく座り、その贅沢な演奏に耳を傾けたものだった。独特のフレーズと流れる様な細やかなタッチ、熱を持ったエレガンス。ビバップの背景を持ちながらも独自の言葉で演奏する素晴らしいピアニストだった。ジョンにレッスンを受け始めてからわずか1年あまり、彼は64歳の若さで帰らぬ人となってしまった。その後になってファラオ・サンダースやベティ・カーターとの素晴らしい共演の数々について私は知ることとなった。
その後しばらくの間はジョージ・ケイブルスに師事し、スタンダードな演奏の仕方やゴスペルの曲なんかを教えてもらった。ジョージに弾き方を教えてもらった「I wish I knew (How it feels to be free)」は今でも大好きな曲だ。一度私はジョージにこう質問をしたことがある。「ジャズはブラック・ミュージックだと思いますか?」という問いだった。いつも明るく優しいジョージは、愉快そうに笑った後に少し真剣な顔をして、「私はジャズをブラック・ミュージックとは呼ばないけれど、この音楽は「black experience(黒人の経験)」から生まれたものだよ。」と答えた。
The First Meeting
大学を卒業してからの数年間、私は毎晩のようにジャムセッションに顔を出す様になっていた。それなりに顔見知りも出来たりはしたのだけど、そのマチズモをまとった世界観に私はどうしても違和感を感じずに居られなかった。誇示し、牽制するばかりの音楽とそれを取り巻く雰囲気には辟易し、自分の居るべき場所はそこではないという感覚は日に日に増すばかりだった。八方塞がりとも言える状況だったその頃、転機が訪れる。のちに私の夫となるギタリスト、トッド・ニューフェルドとその親友のベーシスト、トーマス・モーガンとの出会いだ。2人は当時、菊地雅章氏のTPT(トッド・プー・トーマス)というトリオの活動を行っていた。TPTがトリオとして公共の場で演奏したのは2012年の東京ブルーノート公演のみとなってしまったが、その間何年も3人はプーさんのロフトでの実験的録音を重ねていた。アルバムは未だに発表されていない。
丁度同じ頃、タイショーン・ソーリーの『公案』(482 Music, 2009)が発表されたばかりだった。このアルバムは、ソーリー、ニューフェルド、モーガンのトリオ録音だ。当時私はタイショーン・ソーリーの音楽について何も知らなかったのだが、ふと手にした「New York City Jazz Record」誌に載っていたソーリーのインタビュー記事を読んで興味が湧き、そのアルバムを手にした。家で初めてアルバムを聴いた時の衝撃は今でもはっきりと覚えている。瞑想的とも言えるくらいに一点に深く集中し、同時に無限の拡がりのようなものを感じさせる音。水面にひとつ小石を投げ入れた時のような、静寂が促す有機的な波状の動き。こんな風に「ジャズ」を弾くこともできるという発見に、私は自分の曇った視界が一気にクリアになったようにさえ感じた。
その衝撃的なリスニング体験の後、『公案』に参加しているミュージシャンが当時知り合ったばかりのトッドとトーマスの2人だったことを知って2人の演奏に大きな興味を抱き、少しずつ彼らと話をするようになり、音楽の時間を共有し始めることになった。それはまさに禅問答のようなもので、「ジャズ」という言葉を使えば、「君はどういう意味でその言葉を使ってるの?」と問われ、「即興」と言えば、「君の理解する『即興』とは何だろうか?」と問われるという具合だった。そういった対話の数々は、音楽とそれに繋がる思考や言葉に対する私自身の姿勢を根本的なところから覆してくれた。
Mary and Alice
この自然な流れの中で、私は即興演奏への試みを始めることとなった。構成のない完全即興をどのように演奏するかというところに焦点を置いてはいたものの、同時にこの頃に私の中にあった大きなテーマである、スピリチュアル、ブルース、女性性、という3つの点から、メアリー・ルー・ウィリアムスとアリス・コルトレーンの音楽をテーマにした演奏活動も行った。メアリー・ルーと言えば、ブギウギからスピリチュアルからフリーまで、あらゆるスタイルで演奏をしてきた名手で、私は特に彼女の弾くブルースにすっかり魅せられていた。一方でアリス・コルトレーンに関しては、『Journey in Satchidananda』(Impulse, 1971)を聞いてからというもの(確かこれは、ファラオ・サンダースの『Live!』(Theresa, 1982)と『Thembi』(Impulse!, 1971)からの流れだったと思う)片っ端からアルバムを聴き漁った。今考えてみれば私はサックス奏者ではローランド・カーク、ファラオ・サンダースとアルバート・アイラーばかりを聞いていて(後にそこにサム・リヴァースやフランク・ロウなんかが加わってくる)あの魂を揺さぶるようなサックスの音色にも深く共鳴するものを感じていた。
At the Loft
2011年の秋、私はヴィレッジ・ヴァンガードでプーさんの演奏を初めて目にした。それは奇しくも、その2ヶ月後に亡くなったポール・モチアンのヴァンガードでの最期の演奏だった。その夜私はヴァンガードの入り口を入って右手の一番後ろ、壁際の席に腰掛けてポール・モチアン、グレッグ・オズビー、菊地雅章のインタープレイに耳を傾けた。ヴァンガードは本当に音がよく鳴るので、ステージから一番遠く離れたその席からもよく聴こえた。ここで聴いたプーさんの演奏を私は忘れることができない。今までに聴いたことのない異質なピアノ、ステージにほとばしる緊張感、どこまでも洗練されたサウンドとその場の空気が沸騰するかと思えるくらいの静かな熱量。その夜にヴァンガードで過ごした時間は深く衝撃的な体験となって私の心の奥深くに今も刻まれている。
このヴァンガード公演から少し経って、当時は数日おきにプーさんのところに出入りしていたトッドに連れられて、私もそのロフトを度々訪れるようになっていた。その場所ではいつも、まるで時間の流れが止まってしまっているかのように感じられた。ほぼ例外なく、プーさんは自身で録音したソロピアノ演奏をスピーカーから大音量で流していた。その深く瞑想を誘う圧倒的な音の世界の中では、言葉を発するのもはばかられるような気がして、しばらくの間は私は黙って2人の会話を聞くことが多かった。ましてや音楽について直接質問するなんていうことはできるはずもなく、ただただその場の空気から滲みだす「音楽」に身を浸すばかりだった。
その時期私は、『Tethered Moon』(King Records, Paddle Wheel, 1992)をよく聴いていた。鬼気迫るピアノの音は、余計なことを一切語ることがないにもかかわらず、恐ろしいほどの説得力を持っていた。なぜだかわからないけれど、このアルバムだけは、聞けば聞くほどにそのあまりにも美しく饒舌な世界観に自分が深く引きずり込まれていくような気がして、頻繁に聴くことをやめざるをえなかった。ごくたまに、すごく特別な日にかけてみると、「You’re My Everything」の冒頭のピアノの音を聴いた瞬間にまたその世界が強烈な親密さを持って耳に飛び込み、その度に息が止まる思いがする。ジャズの背景を持ち、即興演奏のピアノを弾く者のひとりとして、プーさんのピアノはあまりにも偉大だった。人は、美しすぎるものを前にすると手を触れることもできなくなることが時としてあると思うが、私はこの理由でプーさんの音楽を今はほとんど聴かない。もちろん聴きたいのは山々なのだが、聞けば影響を受けてしまうだろうし、それを彼は全く喜ばないだろうと思うからだ。プーさんの話していたことの中でひとつ印象に残っているのは、ポール・ブレイについて「あいつは本当にすごいピアニストだ。なんてったって、ポールが弾くとピアノの音が【浮遊】するんだ。」と言っていたことだ。
ポール・ブレイのアルバムも随分と沢山聴いた。中でも、『Ballads』(ECM, 1971)には感銘を受けて、このアルバムに収録された曲を全部書いたのがアネット・ピーコックだと知ってからは、ブレイとピーコック関連の作品を貪るように聴いた。ブレイは「聴く」演奏をする。音が無数に浮遊する中に浮かびあがる「間(ま)」、実際には音を出していないその間にも彼は演奏しているのだ。無音の状態、スペース、空間があるからこそ、有音の部分が最大限に生かされるということは大きな発見だった。
The Controversy
私の最初のアルバム、『UTAZATA』(Ruweh, 2015)は、雅楽や今様などの日本の伝統音楽をモチーフにしたフリー・インプロヴィゼーションというコンセプトアルバムという形を取ることになった。このコンセプトでアルバムを制作するに至ったのは、同じ頃にアジア系アメリカ人の音楽家達、ヴィジェイ・アイヤーやジェン・シューのやっていたことに共感したという部分が大きかったと思う。ヴィジェイ・アイヤーは、彼自身のルーツであるインドの音楽をモチーフにした新しい「ジャズ」を開拓し、アメリカのジャズ批評がいかに白人男性の視点に偏っているかということについて言及した。ジェン・シューは、スティーヴ・コールマンのバンドのボーカリストとして類まれなる才能を発揮しながら、長い期間に亘ってアジア各国に滞在して語学と現地の音楽を学び、それを「ジャズ」という媒体に融合させるという大胆な試みをしていた。
あるいは純粋主義的な人達は、これまでに「ジャズ」を定義してきたものを大幅に逸脱する要素を持った音楽が「ジャズ」であると言われることに強い反発を覚えるかもしれない。なぜ民族音楽を取り入れる必要があるのか?ルーツへの回帰はただのロマンチシズムであるか?私は今のところ、次のように考えている。「ジャズ」という言葉が何かを定義するとすれば、それは【表現の個人性の追求】であり、【社会を反映する表現の集合体】である。そういった観点からすれば、個人性を追求した結果に人種や民族性という部分と向き合うことになるのは自然なことであり、多様性に対する寛容が大きなテーマとなっているアメリカ社会において「ジャズ」の中に多様性が生まれることもまた当然のことなのだと思う。それでもなお、音楽を愛し、音楽に執着する我々は「ジャズ」とはこうでなければならない、という論争を繰り返してきた。その論争そのものは、ある視点からは馬鹿らしくさえ感じられる一方で、別の視点からは、「情熱の裏返し」すなわち愛すべきものであると私は感じている。この二重の視点を持って私はアルバムに「歌沙汰」というタイトルをつけたのだ。
ニューヨークの「ジャズ」の世界に身を浸して、肌で感じた現実、「アジア人にジャズが弾けるか」また別の場合には「女にジャズが弾けるか」という潜在的な問いと正面から向き合うことは、避けて通れない道だった。アメリカのジャズ・シーンは想像以上に保守的だ。もちろん、先にあげた問いそのものがポリティカリー・インコレクトな問いであるわけで、これについて公の場で話す度胸のある人はほとんど居ない。だが、最近でもイーサン・アイヴァーソンとロバート・グラスパーの対話が話題になった様に、音楽界における先入観や固定観念は未だに根強く存在していて、何かの拍子に言葉や行動の端々から相手の本音が見えてきてしまうという場面には一度や二度と言わず遭遇してきた。この経験を通して初めて、私は自分がアメリカ人ではないこと、そして「black experience(黒人の経験)」に根を張る音楽を弾こうとしていることと客観的に向き合うことになる。
表現とは一体なんだろうか?スタンダードやブルースを弾く時、果たして自分は表現に対して正直になれているだろうか?そう考えた時に、アメリカ人が培ってきた音楽の内側に「アメリカ的経験」を持たない私が「本当の意味で」入り込むことは到底できないと思った。少なくともそれは私の表現における目的ではないという結論に達したのだった。では、自分の経験と直接的に繋がる日本の音楽とは何かという疑問から、武満徹の『秋庭歌一具』や桃山晴衣の音楽に出会うことになる。思えばこの頃から、ポスト・ジャンルという感覚を意識し始めたと思う。「ジャズ」という言葉を使う時、どうしてもそのラベルに入りきれない可能性のある何かを無意識に除外してしまう可能性があること、本来「ジャズ」と呼ばれる音楽の性質そのものが、そういった言葉による締め付けとは矛盾するものであるということを理解し始めていた。その無意識的な除外という行為に対して批判的なスタンスを持つのであれば、音楽と言葉の関係についてできる限りセンシティブでありたいと考えた。
Voices, Colors and Dances
1枚目のアルバムをリリースした年からは、とにかくセシル・テイラーをよく聴いた。最初に聴いたのは『Unit Structures』(Blue Note, 1966)だったと思う。それから手当たり次第に色んなアルバムを聴いていくうちに、例のごとくしばらくの間、セシル・テイラーの色に私の頭の中は染まっていった。何よりも私はテイラーの演奏の自由さに魅せられていた。何にも属さず、何にも囚われず、圧倒的な自由の中にあくまでも創造的な秩序という息を吹き込んでいく。この頃には、様々なミュージシャン達とフリーのセッションやライブをやるようになっていた。完全即興の演奏というのは、自由であるからこそ難しく、どこかで上手く統制をとっていかなければその自由があだとなってしまうということに気づき始めていた。と同時に、オーディエンスとの間に溝を感じることもあった。例えばインプロヴィゼーションに慣れている観客は問題なく聴けるものであっても、たまたまその場に居合わせた観客で普段そういう音楽を聞かない人達は難解でとっつきにくいと感じているのでは、という疑問があった。この時から、インプロヴィゼーションとコンポジションの対比、そしてインプロヴィゼーションとボイスの融合についてよく考えるようになっていた。この頃大きな影響を与えられた音楽に、アーサー・ラッセルの名もあげておきたい。70年代から80年代にかけてニューヨークのダウンタウン・シーンで活躍したシンガー、チェロ奏者だ。彼の名盤『World of Echo』(Upside, 1986)は大好きなアルバムで、彼の歌の素晴らしさに、メロディとボイスの音楽における存在感の強さを再確認することになった。もうひとつ、付け加えておきたいのは、サミュエル・ベケットの文章から受けた影響だ。この人の書く文章はもう音楽そのものなのだ。初めてベケットの詩集を声に出して読んだ時、ページをめくってもめくっても止まらない素晴らしいグルーヴに、私は感動のあまり泣いてしまったぐらいだ。
Undercurrent
そんな道のりを経て、今年1月にリリースしたのが『Billows of Blue』(Ruweh, 2017)だ。インプロヴィゼーションを主体としてはいるものの、ある程度の構成を持たせた曲も取り入れた上で「歌」をのせる試みをしたのがこのアルバムだ。ベースにマサ・カマグチ、ドラムにランディ・ピーターソンという文句のつけようのない素晴らしいリズム・セクションを迎えた。マサ・カマグチはポール・モチアンとも共演しているベーシスト、ランディ・ピーターソンはジョー・マネリと長年の間共演してきたベテランの即興演奏家である。ピアノトリオとしてのサウンドのイメージには、チャーリー・ヘイデン、ポール・モチアン、ジェリ・アレンの『Etudes』(Soul Note, 1988)があった。ジェリ・アレンのこのアルバムでの演奏が私はすごく好きで、ピアノ演奏という点でかなり参考にしてきたアルバムのひとつだ。そうは言っても、私の演奏は無調性の部分も多くあって、きっと一筋縄に納得できるようなものでは到底ないと自分では思っている。私自身にも理解できないものなのだから。ただ、自分に正直に演奏をしているということだけは言えるかもしれない。そして何よりも、これまで十年あまりの月日を手探りで歩いてきた中で出会った人々と音楽の数々、その物語のすべてを如実に反映したものになっているはずだ。