ニューヨーク:変容する「ジャズ」のいま 第27回 アルージュ・アフタブ:堤防が崩れぬように歌を聴く
今のアパートに住み始めて8年くらいが経つ。小さなストリートにぽつぽつと立ち並ぶ家に住む近所の人々のことはなんとなく分かるようになったし、息子を産んでからは、何かと私に話しかけてくれるようになった。彼女達が人懐っこい笑顔を一杯に浮かべて「You doing okay?」と聞いてくる度に、私はそのふくよかな腕の中に飛び込みたくなる気持ちを呑み込みながら、「Yeah, I’m doing alright.」と、できるだけのカジュアルさと礼儀正しさを身体全体から漂わせながら答える。向かいの家に住む彼女達は、私のことをきっと気にかけてくれている。完全に他人ではないけれど、友人でもない。例えば、実家のリビングにある柔らかいソファのように、押し付けがましいことは何もなく、ただ座る場所を空けていてくれる。そんな彼女達のことを、きっと私はいつか懐かしく思うだろう。
9月初めのニューヨークは、やけに暑い真夏のようなかんかん照りになったり、ドラマチックな突然の雷雨に何日も続けてつきまとわれたり、急に肌寒くなって一日中暗い空模様になったり、とにかく忙しい。同じ頃に、レイバーデイという休日があるのだが、その週末にはカリブ系移民の人々が年に一度盛大に盛り上がってブルックリンの南側を練り歩くパレードが行われる。警官が大勢出動してパトロールに当たる中、色とりどりの羽がついたコスチュームとそれぞれの国の国旗のバンダナを巻いた若者達による1年に1度のそのお祭り騒ぎが終わると、夏はやっと重い腰を上げて私達のもとを去り、秋の空気が漂い始める。
その日は、親しくしているミュージシャンの友人に誘われて、ルーレットで行われていたResonant Bodies Festivalというコンテンポラリー・ヴォーカルミュージックのイベントを見に行った。ずっとライヴで見たいと思っていたヴォーカリストのアルージュ・アフタブが出演するというので行くことに決めたのだ。しかも、共演者はピアニストのヴィジェイ・アイヤー、そして私自身も6月に共演して感銘を受けた多楽器奏者のシャザード・イズマイリーの2人だ。
早めに着いた会場に、まだ友人の姿は無かった。ステージ全体をよく見渡すことのできる2階席に座って私は開場を待った。アルージュ・アフタブは第二部で演奏するようだったので、私はそのまま予備知識もなく第一部のステージを見ることにした。そのステージは大いに盛り上がったのだが、結果的に言うと私自身は狐につままれたような複雑な気持ちになってしまった。その内容は、ステファニー・ブライスという世界的に有名なオペラ歌手が、「ドラッグクイーンのオペラ歌手」という別人格になり繰り広げる生演奏バンドつきの現代風喜劇オペラのようなもので、いかにもニューヨークらしい内容だった。それなりに興味深い内容だな、と思いながら軽い気持ちで見ていたのだが、ステージが終盤に近づくにつれてどんどん盛り上がっていく観客と自分の熱量のギャップに私は戸惑いを覚え始めた。そんな中、ステージの締めくくりにそのオペラ歌手が歌い始めたのはクイーンの「We Are The Champions」だった。もちろん私も聞いたことはあるけれど、個人的には特に馴染みがある曲ではない。その曲があの有名なサビに差し掛かってクライマックスを迎えると、観客のほとんどが立ち上がって一緒に熱唱し始めたのだ。上手く説明できないのだけれど、私はその瞬間、マイノリティであることの薄ら寒さのようなものを感じていた。会場全体が熱く大合唱する中で、私は椅子に深く腰掛けたままで透明人間になった気がしていた。
間もなくして、第二部が幕を開け、先程とはまったく違う静謐な雰囲気が会場を包む。ヴィジェイ・アイヤーはピアノとシンセサイザー、シャザード・イズマイリーはエレキベースとシンセサイザーという楽器編成で、2人の間にアルージュ・アフタブが立ち、静かに歌い始めた。パキスタンのラホールで生まれ育った彼女は、スーフィズムの詩人ルーミーや、パキスタンを代表する女性歌手、アビダ・パルヴィーンなどから影響を受け、神秘主義の詩をベースにした世界観とインディー・ロック的なアプローチを組み合わせた独自の楽曲で注目を浴びている。さきほどまで会場を包み込んでいた熱狂的な拍手と、大勢の歌声、そして暴力的なほどの単純明快さが嘘のように、アルージュの魔術的な歌声が辺り一面に染み渡っていく。シャザードとヴィジェイの控えめな演奏は、静かなグルーヴで浮遊しつつも確実な方向性を持って舵を切っていた。私はその演奏を見ながら、底知れぬ安堵を覚えていた。アルージュは、英語ではない言語を使って歌っている。大袈裟な見せ方もなく、特に楽曲について説明することもなく、淡々と。彼女の振る舞いには、外側から内側を見つめる者特有の、まるで周りに薄い膜を張ったような、確固とした冷静さが漂っていた。
演奏が終わり、私は友人とともにアルージュに挨拶をしに行った。ハイチ系フランス人の友人とアジア人の私を前に、彼女は「有色人種がほとんどいない会場ね。」というようなことを言った。特に深い意味はない、ただの感想なのだろうけど、それを聞いて私はさきほどの居心地の悪さの正体を理解したように思った。
表現の自由が暴力で脅かされるようなことが実際に起きてしまう時代だからこそ、ある集団に属さないことを選ぶ者、属すことができない者、属すことを許されない者、属しているように見せかける者、そんな私達すべてが、人を愛し、歌をうたい、言葉を持ち、生きようと呼吸を震わせ続けていること、その事実を代弁する表現者が私達にはどうしても必要だ。そうでなければ、どこかで、必ず堤防は決壊してしまうだろう。
Arooj Aftab, Vijay Iyer, Shahzad Ismaily Trio – Suroor – Joe’s Pub (4.28.19)