From the Editor’s Desk #11 「ケイコ・ジョーンズという生き方」
text by Kenny Inaoka 稲岡邦彌
ケイコ・ジョーンズさんが昨年9月26日 、マンハッタンの自宅で脳卒中のため亡くなっていたことを知った。逝去を報じたのは2022年12月14日付けのネット版JazzTimesだった。遺族(継子のエルヴィン・ネイサン・ジョーンズ)から14日未明に届いた公式声明は以下の通りだったという。
伝説のドラマー、故エルヴィン・ジョーンズの家族は、彼の未亡人、奥谷けい子ジョーンズの逝去を報告することを悲しく思っています。極めて私的な人物であった彼女は、2022年9月26日、長年夫と共有していたマンハッタンのアパートで息を引き取りました。85歳でした。彼女の脳卒中による死は、継子のエルヴィン・ネイサン・ジョーンズと、エルヴィンとケイコ・ジョーンズの長年の友人だったドラマーのアルヴィン・クイーンによって確認されました。
JazzTimes 誌の記事に言う。
“1937年4月8日、長崎で履物商の娘として生まれる。自身、クラシック・ピアノを学ぶ一方、アメリカのジャズを愛する父の影響を受ける。1966年、同じような感性を持つ日本のジャズ・ファンと共に、アート・ブレイキー、トニー・ウィリアムス、エルヴィン・ジョーンズをヘッドライナーに迎えたツアーの企画に協力した。エルヴィンとけい子はこのツアーで出会い、恋に落ちた。1967年初頭、彼女は彼と一緒にニューヨークに戻り、ジョン・コルトレーンとの伝説的な5年間を含むサイドマン時代から、バンドリーダーとしてのキャリアを開花させた。”
“女性や英語を第二言語とする人物を冷遇する風潮の中で、叱責と無礼に耐えながら、エルヴィンの復活を支えたけい子の不屈の精神と献身を、多くの友人やミュージシャンは今でも高く評価している。1971年に結婚し、2004年にエルヴィンが心臓発作で急死するまで、彼のビジネス・パートナー、ツアー・マネージャー、ドラム・テクニシャン、また、人生のパートナーとして二人は固い絆で結ばれた。”
記事中の “1966年、同じような感性を持つ日本のジャズ・ファンと共に、アート・ブレイキー、トニー・ウィリアムス、エルヴィン・ジョーンズをヘッドライナーに迎えたツアーの企画に協力した”とあるのは日本ですでに定説となっている経緯、あるいは僕が当時の関係者から聞いた事実と少々異なる。
当時の関係者の証言によると、“1966年11月3日、東京大手町産経ホールで幕を開けた『ザ・センショーナル・ドラム・バトル』の出演者の一人がバス・ドラの中に隠し持っていたドラッグが発覚。麻取(麻薬取締官)の尋問を受けた3人のドラマーのうちエルヴィン・ジョーンズがそのドラムは俺のものだと名乗り出て現行犯逮捕。” 事実は、エルヴィンが将来性のある若いトニー・ウィリアムスの罪を自ら被った。不憫に思った当時の関係者が嘆願書を書いてエルヴィンを釈放させ、当時長崎でジャズ喫茶を経営していたけい子さんを呼び寄せ、エルヴィンの面倒を見させた。翌年1月、強制送還されたエルヴィンの再起を図るためけい子さんが翌月NYにエルヴィンを追った。
僕がけい子さんと知り合ったのは、1978年4月のエルヴィン・ジョーンズ・ジャズ・マシーン来日時。招聘元はTCPの亀川衞さんで逮捕時の招聘元JBCの現場責任者、10年かけてエルヴィンの再入国を実現させた。ジャズ・マシーンを読売ホールでライヴ収録し、アルバム Vol.1とVol.2をリリースした。ジャケットはエルヴィンのシリアスな表情と捉えた菅原光博の写真だったが、けい子さんには「ジョージー(彼女は現場ではエルヴィンと呼んでいたが、オフでは親しみを込めてジョージーと呼んでいた)はこんなに怖くない、優しい人よ」と言われた。この時、当時専属だった辛島文雄 (p) のためにエルヴィンとベースのアンディ・マクラウドに参加してもらいトリオ・アルバム『Moonflower』を録音した。これが機縁となって辛島は1980年から6年間にわたってエルヴィンのバンドのメンバーに抜擢され世界を楽旅、大きな飛躍を遂げることになる。
「ジャズ・マシーン」来日の翌年1979年6月、けい子さんからNY録音の提案があり、ルディ・ヴァン・ゲルダー・スタジオでダイレクト・カッティングならと返してみたところエルヴィンの申し入れならとルディに受け入れてもらうことができ驚いた。前乗りしたところ、けい子さんから菊地雅章(Poo)さんと自宅に招待された。Pooさんはエルヴィンのバンドのメンバーだったこともあり、1972年にはルディのスタジオで『Hollow Out』というトリオ・アルバムも制作している。自宅はセントラルパーク・ウエストのマンション。忘れられないのはディナーに魚のあら炊きを出されたこと。エルヴィンの健康のためにはこれが一番ということだった。ルディからは録音機材を写し込んだ写真は撮らないように、とのお達しがあった。彼がバックヤードに消えた隙にカッティングマシンにカメラを向けたところけい子さんから「No!」の怒声が飛んだ。「ケニー、ケニーの過ちはエルヴィンの過ちになるのよ。エルヴィンに傷を付けないで」と嗜められた。僕は自分の軽はずみを恥入るばかりだった。
けい子さんには渡米間も無く、サド・ジョーンズとメル・ルイス双頭のサド=メル・バンド(サド・ジョーンズ=メル・ルイス・オーケストラ)の来日騒動という武勇談があるのだが、こちらは伝聞なのでここでは書かない。一行を引き連れて羽田に着いたものの公演先も宿泊先も白紙だったという業界人なら卒倒するような椿事。これもエルヴィンの次兄のサドをサポートしようとの一心だった可能性もあるし、その後、菊地雅章や川崎燎、辛島文雄ら日本人ミュージシャンをエルヴィンのバンドに取り立てた実績は無視できない。エルヴィンのバンドで演奏できることはジャズ・ミュージシャンにとって無二の貴重な体験になるからだ。
けい子さんはドラムの位置を変えたり、ライヴが始まる前にステージに登場してエルヴィンの偉大さを語ったり、スタジオでドラム用のマイクに触れたり(けい子さんが
目を話した隙にエンジニアの及川さんがスッとマイクの位置を元に戻していた)関係者の顰蹙を買う行動を取ることもあった。しかし、それもこれもエルヴィンを思えばこそだったのだろう。あの大きなエルヴィンがけい子さんにはとても素直だった。全幅の信頼を置いていた。エルヴィンはけい子さんのために <Keiko’s Birthday Song>を作曲、一度ならず録音しており、けい子さんも <Shinjitu>をエルヴィンに捧げている。ブルーノート盤には2度カップルで登場、仲睦まじいところを見せている。
エルヴィンは親友のルディのスタジオで心臓発作に倒れた。考えようによっては本望だったかも知れない。エルヴィンの死を信じられないけい子さんはエルヴィン亡き後も二人分の食事を作り続けていたという。