JazzTokyo

Jazz and Far Beyond

閲覧回数 8,423 回

From the Editor’s Desk 稲岡邦彌No. 307

From the Editor’s Desk #17 追悼 悠雅彦

text by Kenny Inaoka 稲岡邦彌

これほど早く悠雅彦さんを追悼することになるとは...。10月14日「老衰」で他界。享年85。アルツハイマー症を罹患、外出がままならなくなり、体力、筋力が低下、全身が衰弱していった。健脚を誇り、自宅と最寄り駅間の20数分を徒歩で往復が健康維持の秘訣のひとつだった。加えてマクロビオテック、努めて外食を避けていた。1990年前後だったが、大腸癌が再発、腸が破裂して余命3ヶ月の宣告。奥様から秘かに連絡が入り鯉沼利成さんを誘って別れの挨拶に出向いた。しばらくして、抗がん剤治療を嫌って病院を脱出、独力で自己免疫力の強化に努め寛解。30年経って、冗談まじりに癌克服本を書いてひと儲けしませんか、と誘ったこともあった。書名は、「余命30年」。
悠さんと知り合ったのは72年、スイングジャーナルの編集長(当時)児山紀芳さんの紹介だった。四谷左門町のお宅に原稿をいただきに伺った。原稿を見て驚いた。ひと文字の修正に400字詰め原稿用紙のひとマスをカッターで切り抜き裏からセロハンテープで貼り付けてあった。悠さんの几帳面な性格はその後もいろんな場面で体験することになる。
悠さんは音楽評論が基本だったが、コンサートの司会、ラジオのDJ、果ては自主レーベルの主宰、晩年は web-journal JazzTokyoの創刊と主幹を務めたが、すべて評論活動の一環だった。現実を知らなければ生きた評論は書けない、が自論だった。最大の業績は「WhyNot」レーベルの主宰と「JazzTokyo」の創刊だと思うが、何れにも筆者が機会を共有できたことは秘かな誇りである。「WhyNot」レーベルの設立は1975年のシカゴAACM10周年記念フェスがきっかけだった。旧トリオレコードが仕掛けたDelmark原盤による「シカゴAACMシリーズ」はシーンで大きな反響を生んだ。記念フェスを現地で体験した我々は、AACMで独自に育まれてきた豊穣な音楽に眩暈を覚え、世界に発信すべきミッションに身震いした。帰路、NYプリンス・ストリートのArtist Houseを訪ねた我々はオーネット・コールマンから激励の言葉をかけられ、勇気百倍を得た。「WhyNot」レーベルの誕生である。ムーハル・リチャード・エイブラムスの初ソロ、チコ・フリーマンとAIR(ヘンリー・スレッギル、フレッド・ホプキンス、スティーヴ・マッコール)は彼らにとってデビューであった。邦人では、藤原清登と辛島文雄のデビュー・レコーディング。その後の彼らの活躍ぶりが悠さんの慧眼ぶりを際立たせている。
2004年6月の「Jazz Tokyo」の創刊。これは、澎湃として起こりつつあったインディ・ムーヴメントのサポートを第一義とした。ジャンルを越境し、「Jazz and Far Beyond」を標榜した。新人や隠れた才能にも暖かい目を向け、惜しみないエールを送った。文化庁や各種音楽賞の選考委員として彼らが栄誉を掴む手助けをしたことは受賞本人にも知る術はない。来年6月の20周年を目前に生を終えた無念は計り知れないだろう。
11月25日(土)午後2時から渋谷・公園通りクラシックスで悠雅彦さんの追悼コンサートが予定されているが出演を希望するミュージシャンは優に定員を超えていた。他の仕事とぶつかり出演を断念せざるを得ないミュージシャンも少なからずいた。”ジャズ界の良心” と謳われた悠雅彦さんを音楽とともに皆で追悼したい。スピリットは我々がしっかり継承するつもりだ。

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください