# 72 ヘイトスピーチとヘイトクライムをめぐって
text by Masahiko Yuh 悠雅彦
photos by Kazue Yokoi 横井一江
前哨戦としてのトランプ狂騒曲が終わった数日後、ドイツへ渡って28年という高瀬アキが帰国し、わがJAZZTOKYO副編集長・横井一江のエスコートで恒例の帰国演奏会を新宿ピットインで催した。今年のパートナーとして、高瀬はアルト・サックス奏者の坂田明を指名した。連日のトランプ騒動でうんざりしていた耳に、いささかドイツ化したかと思わせるような上品さを印象づけながらも、しかしシャープな斬れ味を失わない高瀬アキのピアノと、第三者の闖入を撥ねつけて許さず、円熟に向かいながらも勢いの衰えを見せない坂田明のアルトとクラリネットとの熱闘のシャワーを浴びて、トランプ騒動はもとより、ごく最近新聞を賑わせた数々の忌まわしい事件を脳裏から追いやって、ほんのいっときではあるが忘れることができた。つかの間の幸せなひとときではあった。
それにしても、ごく最近に限ってもこの国はおかしい。ほんのちょっと思い浮かべただけでも、互いに面識もない相手に対してSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などを通して脅迫や嫌がらせを執拗に繰り返したりするサイバー・ストーカーの横行、相模原市の障害者施設で「障害者などいなくなればいい」との勝手な思い込みから何の罪もない障害者を殺傷した事件、下校中の小学生がポケモンGOを使いながら運転していた36歳の会社員の車にはねられて死亡した一件、あるいは原発事故に遭ってやむなく福島から横浜に自主避難していた中学生が、避難先の小中学校で想像を超えるいじめに遭っていたことを告白した手記等々、大げさではなく理解を超える出来事が数え切れない。たとえば、福島から横浜に避難したくだんの少年一家の場合、もし彼が今回公になった手記を、現中学1年の彼が代理人となった弁護士を通して公表することに同意しなかったら、避難して以来名前に黴菌の菌をつけて呼ばれるようになったこととか、加害者である同級生から総額で150万円に上るという遊興費を含むさまざまな出費を強いられていたことなど、通常では考えにくいいじめの全貌は間違いなく闇に葬られていたに違いない。現在はフリースクールに通っているという現在の心境を、「いままでなんかいも死のうとおもった。でも、しんさいでいっぱい死んだから、つらいけどぼくはいきるときめた」(朝日新聞11月16日)という潔さで現在の心境を素直に書き表した言葉の底に光る少年の強い意志の一端を、私は垣間見たような気がして思わずジンときた。
少年の親は横浜市の教育委員にも相談していた。教師はむろん教育委員も被害の状況をおおむね把握していながら何らの手を打つこともなく、いじめを放置に等しいままにして少年を救うことができなかった彼ら大人の罪はすこぶる重い。いじめに回った少年たちの罪は軽くないが、いま彼らを責めたってことが解決するわけではなし、問題の本質からもずれてしまいかねない。川崎の多摩川河川敷で中学生が殺害された事件(いまだに花束が絶えないとか)のほとぼりが覚めやらぬ去る8月、今度は埼玉の河川敷で東松山の16歳の少年が遺体で見つかった。この事件もで逮捕された少年たちを今さら責めたって少年の命がよみがえるわけではない。余りの命の軽さにむしろ唖然とさせられたが、昨今いじめに端を発したこの種の事件が頻発することに、教師はむろん教育委員や親が口をつぐんでいるように見えるのが腑に落ちないし、首を捻らざるを得ない。何とももどかしいかぎりだ。
こうした事件が次から次へと起こるせいか、たとえば1ヶ月ほどしか経っていないのに、新たに起こる事件に押されて闇の彼方に葬られそうな事柄もある。たとえば、沖縄での「土人」発言。米軍ヘリパット建設現場で、建設に反対して抗議活動をしている住民に向かって、主に本土から派遣された機動隊員がまるでへまをしでかした新人隊員をののしるように叫んだ言葉だ。1人の隊員が「どこつかんどるんじゃ、ぼけ、土人が!」と吐き捨てると、もう1人が「黙れ、こら、シナ人」と見下して叫んでいる様子を報じた動画サイトで明らかになった。これはヘイトスピーチではないのか。ヘイトスピーチでなかったら何か。しかも罵った2人はいずれも公務中の派遣警察官だ。「発言は許されない」と菅官房長官が言ったところで終わっていたら、あとは警察庁が何らかのけじめを付けてお開きになっていたかもしれない。ところが、事はこれで終わらなかった。「表現が不適切だとしても、大阪府警の警官が命令に従い、職務を遂行していたのがわかりました。出張ご苦労様」とつぶやいた人がいたのだ。何と大阪府知事の松井一郎氏だった。いくら自身のツイッターとはいえ、こんな書き込みしかできない人が大阪府知事? この呟きを読んだ人が知事に向かって「黙れ、こら、ぼけ」と言ったとしても非難される筋合いはまったくない。沖縄の翁長雄志知事が「強い憤りを感じる」と言ったのは当然ではないか。報道によれば、翁長知事は県庁で県警本部長に抗議したというが当然だ。本部長が「深くお詫びする」と頭を下げたのもこれまた当然だろう。
それにしても、「土人」だの、「シナ人」だの、といった呼称がいまだに生きていることにも驚いた(元東京都知事が中国人をシナ人と呼称するのは知っていたけれど)。東京沖縄県人会の事務局長、島袋徹さんは「日本のために米軍基地は必要で、沖縄が我慢すべきだと思う人もいる。それに通底している」(朝日新聞朝刊10月21日)とコメントした。同紙上には沖縄出身の松島泰勝・龍谷大教授の次のような指摘が載っている。同氏によれば、1903年に大阪であった博覧会場周辺で沖縄の人らが見せ物として展示された「人類館事件」(注)が思い出されたという。すると100年以上前から沖縄に対する本土の意識はまったく変わっていないということだ。だからこそ彼は言うのだ。すなわち、「根底にある差別意識は変わっていない。こうしたヘイトスピーチが生まれる土壌が本土側にはずっとある」と。琉球の人間が日本人より文化的に劣っていることを示す蔑視的呼称が「土人」であり、他民族を蔑視の対象として侮蔑する呼称が「シナ人」なのだ。本土の為政者たちにとってヘリパッド建設に反対する現地の住民はいわば叛乱者であり、その本土から派遣された機動隊員がその叛乱者である住民を土人やシナ人呼ばわりする、という構図なのである。沖縄は最初から日本本土から差別された地域であり存在だということを、私は今回あらためて再確認した。こんな理不尽が罷り通っていたら、もし沖縄独立運動が起こった場合、少なくとも私は沖縄側に立って応援する決心をするだろう。沖縄の米軍基地は日本のために必要なのであって、沖縄のためではない。このことを日本本土の人々はさらに真摯に再考すべきである。いわんや辺野古の美しい海の景観と豊かな自然を破壊してまで新基地を作って米軍に提供し、国土面積のたった0・6パーセントに在日米軍施設の74パーセントが集中する沖縄に過重な負担を押し付ける愚は、いくら多数決の結果とはいえ繰り返されるべきではなかろう。沖縄の全基地を本土が引き取る運動が提唱されていると聞くが、それにしても普天間飛行場の移設問題が起こったとき、本土への移設がどうして検討されなかったのかを改めて問い直したい。
(注)大阪博覧会事件ともいう。天王寺で開かれた第5回内国勧業博覧会。沖縄を含む世界32ヶ国の人々が民族衣装で登場。沖縄と清国が反発して抗議した。
繰り返すが、松井大阪府知事がヘリパッド建設に反対する住民に侮蔑発言をした機動隊隊員を「ご苦労様」とねぎらった発言は、潔く撤回すべきだ。それはなぜか。隊員の口から出た「ボケ」「土人」「シナ人」が第三者を見下した差別発言であり、これをねぎらった知事の呟きは明らかなヘイトスピーチ、控えめにいってもヘイトスピーチに限りなく近い侮蔑呼称であるからにほかならない。我が国では去る5月、特定の民族や人種への差別を煽動する「ヘイトスピーチ」を規制する法案が国会で可決された(ただし罰則は設けていない)。その先駆となったのが、ヘイトスピーチの一掃を目指して今年はじめに大阪で成立した条例。
「特定の人種や民族に属する個人や集団を社会から排除することや、憎悪、差別意識をあおる目的で行われる表現活動」とした定義から考えて、知事の発言はこの条例にそぐわないではないか。
また、多くの在日コリアンが暮らす川崎市で、在日コリアンの排斥を主張してヘイトスピーチを繰り返している団体が予定していた外国人排斥のデモを不許可とする決定を、川崎市が下したのは今年の5月末のこと。この問題で厄介なのは、周知のように行動の正当化を主張するとき、主催団体は決まって「表現の自由」を持ち出すことだ。人権を著しく侵害する行動をしておきながら、みずからの行動の正当性を主張するために錦の御旗のごとく掲げる「表現の自由」だが、しかし自由な表現を標榜しながらその一方で在日外国人の存在を根底から否定して日本から追い出そうとする主張のどこに、自由な表現として尊重できる正当性があるだろうかと考えてみて欲しい。とりあえず、まだ1歩を踏み出したに過ぎないが、大阪、川崎、高松、東京などで、ヘイトスピーチを認めない決定が出た。まさに日本の良心が「点を面に広げる」(朝日新聞)運動の第1歩を刻んだことになる。この好機を無為にしてはならない。
一方で、暗雲が広がった動きもある。先の東京都知事選挙。「在日特権を許さない市民の会」(在特会)の前会長・桜井誠氏は選挙カーの上からマイクを通して「在日朝鮮人は日本から出て行け」と連呼し、外国人への生活保護支給の廃止などを訴えた。これに対する抗議がエスカレートすると、選挙妨害だと逆襲される恐れがあって差別的言動にストップがかけられないジレンマを抱えた抗議者たちにとって、痛し痒しの状況があったことも否定できない。
「ポリティカル・コレクトネス」(PC)という言葉がある。先に綴ってきた差別や、依然として社会のあちこちで跋扈する偏見や独断に対抗したり、過度の動向をを防ごうとする一環で、極端に流れない中立的な表現を用いることを指す言葉だ。オバマ米大統領の行動様式に象徴される行き方を思い浮かべてみると合点がいくだろうが、それを逆手にとったような発言や行動で全米でも稀有な単独行動主義者として逆の意味で注目すべき大統領になるだろうと予想されているのがトランプ氏。他国がどんな批判をしようが、自身が宣言したように米国第一主義のポリシーと信念で、他国をまったく当てにしない新戦略のもとに突き進むだろう。たとえば、彼が「イスラム教徒の入国禁止」を叫ぶと、英国ではトランプ氏の入国を禁止する請願運動がネット上で広がった。なぜかというと、彼のこうした独善的ともいえる発言が先進的なヨーロッパ人が嫌う「ヘイトスピーチ」として指弾された動きと考えられるからだ。しかし、米国ではトランプ氏の耳を覆うような他人の中傷や批判、とりわけ彼が主張する移民に対する入国制限や規制の強化でさえ当初ほど槍玉に挙がることもなく、一方で「ヘイトクライム」(憎悪犯罪)の増大を懸念する声が出始めた。実際、ヘイトクライムの報告は同時多発テロが起きた2001年以来の数だという。そのヘイトクライムでは黒人への憎悪が引き金となった事件が多数を占めている事実と合わせて考えると、白人至上主義の不気味な台頭が全米を不安に陥れる端緒となるかもしれないし、ヘイトクライムの最たる現象といっていい白人警察官による黒人射殺事件が後を絶たない米国では、人口約1割の黒人が死刑執行の数では全体の4割を占めるといわれる中で、「このペースが続けば、今世紀に生まれた黒人男児の3人に1人は収監される計算になるという」(立野純二)、想像を超える恐ろしい事態になりかねない。トランプ大統領登場はそんな動向を加速させることになるのだろうか。
注視したい動向がもうひとつある。トランプ氏の登場でグローバル化の流れが止まるのではないかという観測が強まりつつあることだ。周知のごとく、ヨーロッパの先進各国では移民の急増に対する一般国民の不安と反発が強まりつつあり、こうした世情を背景に移民の急増をストップし、自国の経済にもとの活力を取り戻そうと声高に主張する右派勢力が、勢いを加速させている。かくして大衆に強くアピールするポピュリズム、すなわち大衆迎合政治の到来に道を拓く時代が実現するのか。いよいよ国際政治、世界のトレンドの動き、とくに
トランプ大統領の誕生で「パックス・アメリカーナ」が終わりを迎えるのか。米国の力による平和のあとには何が世界をリードするのか。ここへ来て目を離せない”とき”がついに到来したと言っていいのかもしれない。(2016年11月24日記)