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悠々自適 悠雅彦No. 219

#70 食べある記 XV

ジャンルを超えて次々と出現するひときわ優れた能力を持つ新鋭

世代交替は世の常であるが、それにしても昨今、一際優れた能力を持つ新鋭がジャンルの別を問わず、枚挙に暇がないといってもいいくらい次から次へと出現するさまは壮観ですらある。

前回大きくクローズアップしたサックス奏者の上野耕平が新鋭としては一際抜きん出た存在であったことはもはや繰り返すまでもないが、しかし実は、彼に勝るとも劣らぬ才能を持ち、すでに大輪の花を咲かせつつある新鋭はほかにも何人かいる。たとえば神奈川フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者となった川瀬賢太郎。去る5月29日、恒例のコンポージアムの最後を飾る<武満徹作曲賞>の本選演奏会(東京オペラシティ)で、受賞作品(第1位・ミヒャエル・ゼルテンライク/イスラエル、第2位・茂木宏文、第3位・パス・ミョンフン/韓国と中村ありす)の4作品の初演(演奏は東京フィルハーモニー交響楽団)を実に精力的に、かつ颯爽と指揮してのけ、しかも作品の的を射たともいうべき的確なタクトさばきで耳の肥えた聴衆を驚かせた彼の手腕には私も目をみはった。本年度の作曲賞審査にあたった一柳慧がいの一番に名を挙げて賞賛した指摘を待つまでもなくスコアの読みといい、オケの掌握力といい、まさに出色の飛び抜けた存在感だった。川瀬はすでに本年度の出光音楽賞をはじめ、昨年度の渡邉暁雄音楽基金・音楽賞などすでに数々の受賞を果たして、32歳の若さながら今や日本のトップ・コンダクターの1人として注目と期待を一身に集めている。実際に、去る6月25日、名古屋フィルハーモニー管弦楽団を横浜みなとみらい大ホールに迎え、神奈川フィルとのジョイント演奏会で指揮したショスタコーヴィチの交響曲第7番(ハ長調 op60 “レニングラード”)の情熱が爆発するかのような、しかも知的に計算された構成感が素晴らしい彼の指揮に身を浸していると、今後彼がどんな指揮者に成長していくのか想像しただけでワクワクする。

この川瀬賢太郎に1歩先んじる形で脚光を浴び、今や世界に羽ばたく屈指のバンドネオン奏者としてファンの喝采を浴びているのが三浦一馬だ。師のネストル・マルコーニを迎え、<極上のタンゴ>と銘打ってデビュー10周年を飾ったコンサート(東京・有楽町朝日ホール)を6月14日と15日の2日にわたって聴いた。どんよりした空模様を吹き飛ばす素晴らしい品格豊かなコンサートだったが、チケットが発売と同時に両日とも完売したとの情報を得て人々がいかにこの貴公子に大きな期待を寄せているかが分かった。実は、彼は近年、タンゴ以外のカテゴリーとも意欲的に取り組んでいて、去る4月には新作「プレイズ・ガーシュウィン」を発表したばかり。私のつたない記憶ではバンドネオンというタンゴの楽器でジョージ・ガーシュウィンの楽曲集を発表したのは三浦が初ではないかと思うが、数年前に彼が「バンドネオンで映画音楽を」と音頭をとってニーノ・ロータの映画音楽にスポットを当てたコンサートを催したときから、ミュージカルの作品に挑戦する彼の破天荒ともいえる意欲のほどが具体化するかもしれないという予想が頭の片隅にはあったものの、こんなに早々とジョージ・ガーシュウィン作品集を実現してしまうとは、正直にいって驚いた。バンドネオンによるガーシュウィンやニーノ・ロータ作品集については機会を改めるとして、三浦一馬に寄せる人々の期待がうなぎ上りに高まっていることを如実に示したのがこの前売りチケットの即日完売ではなかったかと思う。
ステージではマルコーニと三浦がフロントに並び、その背後を石田泰尚(ヴァイオリン)、山田武彦(ピアノ)、黒木岩寿(コントラバス)、大坪純平(ギター)の4人が固める。この4者が全身全霊を込めた演奏でマルコーニと三浦をバックアップした。中でも神奈川フィルのソロ・コンサートマスター石田の健闘は特筆に値するほどの内容の濃さだったし、前半の最後を飾ったファン・カルロス・コビアンのモダンな名曲「酔いどれたち」で三浦とデュエットした黒木の、まさに艶(なまめ)かしさの極限を表現するアルコ・ベースの“泣き”が人々の脳髄を刺激した数分感もこの上なく印象的だった。両日とも第1部が<古典タンゴ>、後半の第2部が<モダンタンゴ>で、両方の時代でタンゴの歴史を歩んできたマルコーニらしい選曲がプログラムを飾ったが、「夜明け」や「ラ・クンパルシータ」にしてもタンゴの歴史を飾った曲として取り上げられており、安っぽい名曲パレードで済ませないところがマルコーニらしい。後半の中心を飾ったピアソラ作品にしても人々の拍手喝采を前提にした運び方とはまったく違うアンサンブルや曲の演出によって、あくまでも気品豊かなタンゴの誇らしさを反古にするようなことはなかった。さすがマルコーニ、だ。タンゴの歴史を1音に凝縮させるかのような深い余韻をたたえた演奏だが、しかし目を閉じて聴いているとマルコーニと三浦の区別がつかない。まるで2人は年齢差を超えた兄弟のようだった。「天使のミロンガ」や「ブエノスアイレスの夏」を聴いていると、ここではピアソラもタンゴの歴史の偉人となって、あくまでも気品豊かなタンゴの美しい情緒の象徴となって聴く者に優しく語りかけているかのようだった。ピアソラを聴きながら、ふと脳裏に甦ったのは、去る3月12日にアメリータ・バルタールを迎えて行われた小松亮太の<タンゴの歌>(東京オペラシティ)。そこに横溢するブエノスアイレスならではの下町らしい賑々しさや淫らでさえある港の人々の会話がいかにタンゴの生命力とつながり、下町の猥雑感がタンゴの人間的なエモーションの発露とも感情の爆発とも繋がっているかという妙味。それはタンゴの奥深さの現れでもあり、どちらのタンゴにもいわく言いがたいいとおしさがある。三浦一馬にとって小松亮太も師である。その2人が敬愛するピアソラの作品を対照的なタッチと表現手法で描いた面白さと同時に、タンゴの奥行きの深さを味わえた幸運を思うタンゴのコンサートだった。

上野耕平とともに私が現在秘かに注目している演奏家がいる。ヴィブラフォン奏者の會田瑞樹だ。もしかすると、サックスもヴィブラフォンもジャズの主要な楽器としてのステイタスを誇っていることの何かが私のどこかに潜んでいることと無関係ではないかもしれない。そんな予感が私の気持を後押ししたのだろうか。彼のコンサートを知らせるフライヤーを一瞥した次の瞬間、私は彼にメールを打って、演奏を聴かせてもらえないかと打診したのだ。彼が私の申し出を歓迎してくれたことはいうまでもない。
プログラムには、藤倉大の「minimina」に始まって渡辺俊哉、大家百子、湯浅譲二、後半の木下正道、福井とも子と続き、権代敦彦の「光のヴァイブレーション」まで全7曲が並ぶ。会場の近江楽堂は東京オペラシティの3階にある、100人も入ったら満席になるのではないか(実際は定員120人)と思われるほどの、教会の礼拝堂を彷彿させる小規模会場。前半を終えて分かったのは、海外で活動する藤倉大以外の作品提供者が列席していたこと。7作品のうち4つの作品(大家百子、木下正道、福井とも子、権代敦彦)が委嘱新作、つまりは世界初演作品ということになるが、會田自身が4編もの新作を委嘱したということじたい、彼の心意気の高さを示す以外の何ものでもないだろう。オープニングの藤倉作品から、空間を切り裂く硬質の斬れ味鋭いパッセージの空中乱舞が、聴く者を惹きつけて放さない。その集中力たるや聴いているこちらの神経にすら強く響いてくるほどで、次の瞬間発せられた音の、そこに込められた會田の純粋でひたむきな思いが聴く者の心を打つときの快感に、私は久しぶりに酔った。フォルテからピアニッシモにいたる彼の音の表情には繕いがいっさいない。彼がいったい何種類のマレットを用意しているかは知らないが、次から次へと繰り出すさまざまな種類のマレットが意味するのは、作曲家が注文する尋常ならざる音への會田の真摯なプレイヤーとしての答え以外の何ものでもないだろう。その上、ペダルを自在に操作することによって、彼のヴァイブ奏法の表現幅は幾重にも広がり、さらに硬軟さまざまなマレットを駆使した繊細かつシャープな表現力がキャンバスを切り裂くように運動するスリルを堪能した。大家百子の「Viva the Vibraphone」、木下正道の独奏曲のシリーズの一環という「海の手」、”ヴァイブラフォンを光源として”一瞬の休みもないヴァリエーションを會田の自在なヴァイブ奏法に委ねた権代敦彦作品など、どの作品でも會田の斬れ味鋭いヴィブラフォン奏法と演奏家としての独特のセンスが光った。
近江楽堂公演から約3週間後の5月25日、會田は一転して坂田誠山(尺八)、吉澤延隆(十七弦筝)、日比和子(笙)、国枝春恵(ピアノ)らと共演する異色のコンサート(渋谷区文化総合センター大和田・伝承ホール)を用意し、そこでも水野修孝や伊佐治直や往年の石井真木作品などに持前のシャープでぶれることのない演奏を披露した。次回は豊洲シビックセンター(10月28日)で、ゲスト演奏家を混じえたさらに意欲的なコンサートを行うことを発表している。この次回演奏会を含めて、今後はさらにもう一段高いレべルアップを目指したヴィブラフォン演奏の新しい世界の構築を果たして欲しいと強く希望する。

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6月に聴いたジャズ(系)・ヴォーカルの寸評を3つ。

ダイアン・シューアが来日し、ブルーノートとコットンクラブで公演した。サリン事件で中止に追いやられる直前の斑尾ジャズ祭で私がまだMCを担当していたとき、ダイアンが出演して熱唱したことを今も懐かしく思い出す。あの忌まわしい出来事が1994年だったから、私は22年ぶりにダイアンを聴いたことになる(28日)。さしたる衰えは少しも見せず、饒舌ながらも張りのあるヴォイスで、シナトラの「Nice ‘n’ Easy」、「Invitation」、「Georgia on My Mind」、あるいは「I’ ve Got You Under My Skin」、「The Second Time Around」、「Once in My Life」などを披露したが、個人的にはナット・キング・コールやダイナ・ワシントンらの歌で強く印象づけられた「The Blue Gardenia」が、しみじみと聴かせる彼女ならではの弾き語りによって久しぶりに甦った1曲だったし、彼女の健在ぶりが確かめられた懐かしい1曲でもあった。

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女性ジャズ・ヴォーカル全盛時代がいったいいつまで続くのだろう。男性ジャズ・ヴォーカルの貧困と沈滞を嘆いたって何の解決にもならない。その中にあって孤軍奮闘とも言うべき活動を健気に?持続している1人が丸山繁雄。今年の早春、彼の師でもあるジョン・ヘンドリックスとの共演した貴重な録音を含む新作CD『The One』を発表して意気軒昂ぶりを示す丸山繁雄酔狂座による、新作披露を兼ねたライヴ公演(25日、Jazz Spot ” J “)を聴いた。山口真文(ts)、米田正義(p)、武田桂二(b)、小松伸之(ds)らをバックに、「This Could Be the Start of Something Big」を皮切りに「チュニジアの夜」、「I Only Have Eyes for You」、ヘンドリックスが詞をつけた「Shiny Stockings」などを文字通り歌いまくった。65歳という歳を感じさせない声量豊かなヴォーカルは聴きごたえ充分。「カーニバルの朝」、「ウォーターメロン・マン」、「コルコヴァード」などを混じえてジャズ一辺倒に偏らぬ選曲には敬意を表するが、たとえば「How Long Has This Been Going on」や「Summertime」などのバラードの方がはるかによかったし、最後近くに粋な唱法で披露したハロルド・アーレンの「I’ ve Got the World on a String」などは丸山でなければできない選曲で感心させられた。男性ジャズ・ヴォーカルの孤塁を守ってまだまだ歌い続けてもらいたい。

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久しぶりに蜂谷真紀の「次ナルJAZZ問答」を聴く(28日、新宿ピットイン)。もちろん松島啓之(tp)を筆頭に類家心平(tp)、東保光(b)、本田珠也(ds)といういつもの面々。当夜は「ブルースの罠」で始まり、チャールス・ミンガスの「Tha Man Never Sleeps」、「スージーQ」など、いつもながらの蜂谷と仲間達のジャズ問答を面白く聴いた。この問答に身を委ねながら考える。彼女は、歌うこと、あるいは言葉を発してそれをリズム化することで、格闘するという表現形式でみずからを燃焼させ、言葉、抑揚、身体的表現といったすべてを瞬間的な判断とアイディアで駆使しながらイメージを形にしていく。その限りでは彼女は間違いなく詩人であり、ステージ役者であり、ヴォイス・サウンドと言葉を駆使する表現者といってよい。ステージ上で、蜂谷真紀が少女になったり、娼婦になったり、夢見るアーティストにもなれば、男にさえなるスリルが、松島、類家、東保、本田らとのやり取りの中で普段なら決してありえないような答えを生んでいく。ミンガスがこんなワークショップを見たら何と言うだろうか。

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もう余白があまりない、最後にクラシックの演奏会から。

♫  兵庫芸術文化センター管弦楽団
指揮:ダニエーレ・ルスティオーニ/ヴァイオリン:川久保賜紀
(兵庫県立芸術文化センター  KOBELCO 大ホール)

6月19日の日曜日、文化庁関連の公演調査で初めて西宮市にあるKOBELCO 大ホールを訪ねた。ホールはむろんのこと、兵庫芸術文化センター管弦楽団の演奏など、何もかもが初体験だった。2000人を収容するホールは木造り。壮観でありながら、どの席からもステージがよく見える。兵庫芸術文化センター管弦楽団(Performing Arts Center Orchestra =PAC)は2005年に発足した日本で最も新しいオーケストラのひとつで、佐渡裕を芸術監督に迎え、その佐渡が「10年経った今、ようやくいいオーケストラだといえるようになった」と自信を示すほどにまで大きな成長をとげた。ホールに入ってその圧倒されるような偉容に圧倒され、演奏直前に観客の大きな拍手の中を入場するオーケストラの楽員を眺めてびっくり。何とメンバーの半数近くが外国人。日本人と容貌が似ているアジアの演奏家は見落とした恐れがあるので、実際はもっと多いかもしれない。プログラムを見ると、オーディションを通過した若い演奏家が世界中から参集し、3年の在籍期間を経て巣立ち、別の若手と交替するというシステムが、このPACでは確立している、とある。さらにメンバーの中からオーディションでソリストを決めたり、リサイタルや室内楽の演奏者を選んだりと、他のオーケストラには見られない試みを軌道に乗せている。何より、これは劇場とオーケストラがひとつになってプラスの方向へと踏み出す態勢ができているからだろう。

この日の演目は①歌劇「泥棒かささぎ」序曲(ロッシーニ)、②ヴァイオリン協奏曲ニ長調op. 35(コルンゴルト)、③交響曲第8番ト長調 op. 88(ドヴォルザーク)。コンサートマスターは東京都交響楽団のソロ・コンサートマスターでもある四方恭子。外国籍のメンバーが多いせいか、ロッシーニの序曲からヨーロッパの優れたオーケストラがもつ洗練味が快感を生み、それが在京オーケストラにない豊かなソフィスティケーションを強く感じさせた。ダニエーレ・ルスティオーニはミラノ生まれで、30を過ぎたばかりの若い指揮者だが、溌剌としたタクトで手際よくまとめあげる高い能力を持っているようだ。その意味でドヴォルザークはめりはりの利いたテンポで、明るい色彩がキラキラ輝く演奏。PACのオーケストラとしての豊かな力量を示した好演でもあった。若き日のメニューインを思い起こさせるかのような川久保の優雅で伸びやかなコルンゴルトといい、全体に明るい色彩感を印象づけるPACの定期演奏会だった。

 

♫  山形交響楽団特別演奏会 さくらんぼコンサート2016東京公演
指揮:飯森範親/ヴァイオリン:イム・ジョン
(6月23日、東京オペラシティ・コンサートホール)

恒例のさくらんぼコンサート。5月15日に山形のテルサホール公演を調査したときのプログラムの1部を変更した東京公演。山形と東京でプログラムが違ったのは中ほどのコンチェルトのパート。山形ではウィーン・フィルの首席フルート奏者ワルター・アウアーがモーツァルトの2曲の協奏曲(ト長調とニ長調)を演奏したが、そのつややかな音色のフルートの魅力が頭から暫くは離れなかったくらいの素敵な演奏だった。一方、東京で聴衆を魅了したのは韓国のヴァイオリン奏者イム・ジョン。昨年、エリザベート王妃国際ヴァイオリン・コンクールで優勝した、今年21歳という期待の1人だが、目をつぶって聴いていたらきっと誰もが男性ヴァイオリニストと思うだろうと想像するほど、起伏に富んだ激しいパッションを叩きつけるように演奏する。演目はメンデルスゾーンの名曲(ホ短調op. 64)だが、いつも以上に新鮮に聴こえるほど情感の起伏を弓に乗せて広大な原野を失踪するかのようなたくましい演奏に注目した。

序は西村朗がベートーヴェンの8つの交響曲(9番は除く)の色々な旋律を引用して組み合わせたり、それらのモチーフを発展させたりして構成した作品。いずみシンフォニエッタ大阪の第9公演で、指揮者の飯森範親の委嘱で世に出た。メインはベートーヴェンの交響曲第5ハ短調op. 67。つまりは「運命」だが、オリジナル楽器で演奏したところがいわば聴きどころで、演奏そのものは山形と東京でそう差があったわけではないが、音響の差で東京公演の演奏に軍配があがったというところ。なるほど全力投球の熱演だったし、用意していたアンコール曲が演奏できないほど精力を使い果たした演奏だったということ。それにしても東北の仙台フィルの牙城を目指して奮闘する、山響の近年の充実ぶりは大いに注目されてよい。(2016年7月5日記)

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悠雅彦

悠 雅彦:1937年、神奈川県生まれ。早大文学部卒。ジャズ・シンガーを経てジャズ評論家に。現在、洗足学園音大講師。朝日新聞などに寄稿する他、「トーキン・ナップ・ジャズ」(ミュージックバード)のDJを務める。共著「ジャズCDの名鑑」(文春新書)、「モダン・ジャズの群像」「ぼくのジャズ・アメリカ」(共に音楽の友社)他。

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