#07 『マシン・ガン』から50年
text by Kazue Yokoi 横井一江
サックスの猛者ペーター・ブロッツマンが『マシン・ガン』を録音したのは1968年5月。その50周年を記念して今年5月23日から27日にかけて、ドイツのブレーメンで「50 Jahre Brötzmann Machine Gun」という催しが行われ、それに合わせるかのようにダウンビート誌に『マシン・ガン』50周年を取り上げた記事(→リンク)が掲載されていた。
生誕XX年、没後XX年、あるいはデビューXX年、結成XX年ということで、様々なイベントが行われたり、記事が書かれることは多いが、単なるアルバム、代表作ではあるがデビュー作ではないアルバムが制作されてXX年記念ということで、そのようなことが行われたのは記憶にない。それほどに『マシン・ガン』はヨーロッパのフリージャズにとって重要な作品だということなのか。
『マシン・ガン』が録音されたのは1968年。この年はまさに激動の年で、社会的な異議申し立てが大きなうねりとなって世界中を席巻し、その風潮は文化的なことにも及んだ。本当にいろいろなことが起こった年で、スチューデント・パワーが吹き荒れ、パリでは「五月革命」、アメリカでは公民権運動やベトナム戦争反対運動が盛り上がり、日本でも翌年にかけて全共闘運動が高まった。西ドイツでもキージンガー連立政権に対する反対運動が起こり、翌年社会民主党のブラント政権が誕生する。また、チェコスロヴァキアでは「プラハの春」が起こった。他方では、マーチン・ルーサー・キング牧師の暗殺という事件があった。ビートルズが『レヴォリューション』を出したのもこの年である。そしてまた、前衛芸術が盛んな時代でもあった。
そのような時代背景を振り返ってみると、「怒り」を象徴するかのような攻撃的なサウンドといい、『マシン・ガン』はこの時代を表象するアルバムだということがわかる。だからこそ、ブレーメンで『マシン・ガン』の録音が行われたクラブ Lila Eule を会場にブロッツマン、アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ、ハン・ベニンクによる演奏が行われた他、レクチャー、ディスカッション、ドキュメンタリー・フィルムの上映、レコード・ジャケットの展示など総合的なイベントが行われたのも頷ける。『マシン・ガン』をひとつのパラダイム転換点とし、その後50年の歴史の中で捉える試みは、現代におけるアクチュアリティを読み解くことだからだ。
『マシン・ガン』の録音メンバーはブロッツマン(ts, bs)、ウィレム・ブレゥカー(ts, bcl)、エヴァン・パーカー(ts)、フレッド・ヴァン・ホーフ(p)、ペーター・コヴァルト(b)、ブッシ・ニーベルガル(b)、ハン・ベニンク(ds)、スヴェン・オキ・ヨハンソン(ds)。国籍もさまざまな8人編成だ。録音に先駆けて、フランクフルトのジャズ祭でゲルト・デュディック(ts) も加わった9人編成で演奏している。この多様な顔ぶれからは、音楽的手法は異なるがブロッツマンもメンバーだったアレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハの「グローブ・ユニティ・オーケストラ」と同様、コスモポリタニズムが読み取れる。興味深いのは、評論家/ミュージシャンのジョン・コルベットが書いた再発盤(Atavistic)のライナーノートに「ライオネル・ハンプトンの<フライング・ホーム>のホーンセクションに着想を得た」ことが書かれていることである。ブロッツマンの演奏家としてのキャリアのスタートはデキシー、スウィングだからさもありなんなのだが、ハードバップ全盛期にドン・チェリーやスティーヴ・レイシーなどを聴いて自分もやろうと思ったと語っていただけに興味深い。そして、レコードから聴き取れる音像に彼自身も関わったフルクサスの影響を感じるのは私だけだろうか。また、そこには戦争を知る世代とそうでない世代の違いが現れている気がしてならない。
以前、最晩年のマンゲルスドルフをベルリン・ジャズ祭で観た後にシュリッペンバッバとなにげない会話をしている時、「マンゲルスドルフはその世代のミュージシャンでフリーに理解を示した例外的な人物だった」と言っていた。モダンジャズを演奏していた上の世代とフリージャズへ向かう若い世代との断絶はあったと言っていい。その根底には、戦後ドイツのアデナウアー政権の政策、過去に向き合うのではなく大量消費社会へ導くそれに対する若い世代の反発があった。もう10年近く前になるが、ブロッツマンにインタビューした時に彼が語った言葉を記しておこう。
「60年代は社会的なものと政治的なものが結びついた時代だった。我々の世代に対して、父親の世代はすべて終わったと言っていた。罪悪感や恥じることはないと言っていた。そこで質問をしても答えがないんだよ。我々は自分で答えをみつけなければいけなかった。
戦争について考えた時に、第二次世界大戦は最後の戦争でもう二度と戦争は起こってはいけないと思った。ところが朝鮮戦争がはじまった。ドイツ軍がふたたびつくられた。ベトナム戦争が始まり、キューバ危機、ひとつが終われば、また違うひとつ何かが始まる。それは我々にとっては災害なんだ。ドイツやヨーロッパの学生、芸術家はフランスの運動に繋がっていった。戦争へのパワーはもっとよいことに使われるべきだと考えたんだ。若かったし、愚かで、それは幻想にすぎなかったのだけどね。それを表出したにすぎない。アメリカでは黒人運動が起こり、ワシントン大行進、マーチン・ルーサー・キング、ブラック・パンサー党、アンジェラ・デイヴィスが出た。とにかく変わらねばならないと思ったんだ」
このアルバムがブロッツマン自身による個人レーベルBröの2作目として出されたことも大きい。ミュージシャンが自らレーベルを創り、そこからLPをリリースしたのは、Brö以前はサン・ラのエル・サターン・レーベルしかない。1966年のベルリン・ジャズ祭で賛否両論のセンセーションを起こしたアレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハの『グローブ・ユニティ』はSABA(MSP)からレコードを出したが、既にメジャー・レーベルが前衛的な作品をリリースすることはなくなっていた。
これらのブロッツマンの活動はミュージシャン組織「フリー・ミュージック・プロダクション(FMP)」の立ち上げにも繋がっていく。1968年、ブロッツマンがベルリン・ジャズ祭への出演をキャンセルされたことから、対抗としてのフェスティヴァル「トータル・ミュージック・ミーティング(TMM)」を同時期に開催する。そして、翌1969年にFMPレーベルの最初の作品『ヨーロピアン・エコーズ/マンフレッド・ショーフ』をリリースした。FMPはベルリンのレーベルだが、『マシン・ガン』と同様ブレーメンのラジオ局との繋がりから『ヨーロピアン・エコーズ』はブレーメンの録音なのである。ブロッツマンはレーベルを起こしたことについてこう語っていた。
「このような音楽はメジャー・レーベルが望むところではないから。(レーベルをスタートさせた根底には)コミュニスト的な考え方、なぜ自分達ですべてコントロールできないのかということがあった。制作面だけではなく、販売面でも成功したと思う。ミュージシャンが集まってミーティング(TMM)をやった際に、ラジオ局からサポートを得られた。イギリス、オランダ、スイス、スカンジナビアなどから人を集めてね。FMPの始まりだ。60年代から80年代まではいろいろリリースした」
今やミュージシャン個人あるいは自主レーベルからCDを出すことは当たり前に行われている。しかし、やはり歴史ありきなのだ。CD制作コストが安くなったこともあり、リリース数はどんどん増えているが、逆にそれが販売面での難しさやシーンの動きを見えづらくしていることも否めない。だが、商業主義的なレーベルの意向に従うのではなく、自分達の創造活動を音盤に反映させることが普通に出来るようになったことは大きい。
話を50周年に戻そう。ブレーメンの催しに先駆けて、3月15日から5月6日にはベルリン芸術アカデミーでは「アンダーグラウンド+インプロヴィゼーション 1968年以降のオルタナティブ・ミュージックと芸術」と題した展示会とコンサートやパネル・ディスカッションなどの関連企画が行われた。「Free Music Production/FMP: The Living Music」と題した展示ではFMP関連のレコード、写真、ポスター、フライヤーなど、また「Notes from the Underground – Art and Alternative Music in Eastern Europe 1968–1994」と題した展示では東欧で制作された即興演奏のための自作楽器、地下刊行物、パフォーマンスを捉えたドキュメンタリー記録などを上映した。こちらもTMM、また「プラハの春」から50年である。ベルリン芸術アカデミーはFMP主催のTMMなどの会場となった場所である。2つの企画展示があることから、ブロッツマンやシュリッペンバッハなどのFMPの重鎮からメテ・ラスムセンやネイト・ウーリーなどの若手即興演奏家まで、またトロンハイム・ジャズ・オーケストラやロシアのウラジーミル・タラーソフなどが出演するさまざまなコンサート、そしてパネル・ディスカッションなども企画されたことから、東欧も含めたヨーロッパの現在への流れを窺い知れるプログラミングとなっていた。このような展示会が行われることに、ヨーロッパという土壌におけるフリージャズをいかに歴史化していくのかという試みが伺い知れる。そのような活動を通じて単に演奏活動やレコーディングという羅列だけでは見えこない「歴史」が浮かび上がってくるだろう。ただ雑多な記録を呈示すればいいというものではないのだ。
60年代のヨーロッパの前衛ジャズ、ブロッツマンに代表されるフィジカルな表現を身上とするフリー・ミュージックも70年代を過ぎればひとつの表現形式でしかなくなる。80年代半ばにジョン・ゾーンが頭角を表し、即興演奏するミュージシャンのバックグラウンドもさまざまに広がっていった。2000年頃にはベルリン・リダクショニズム、ロンドン・ニュー・サイレンス、ウィーンのCharhzmaレーベルなどの周辺のミュージシャンが、異なったスタンスから即興演奏を試みるようになった。今では即興音楽といってもバラエティに富んでいる。しかし、表現スタイルこそ違うが、そのとば口を開いたのはヨーロッパ・フリー第一世代と呼ばれるブロッツマンを始めとする彼らなのである。また、ジャンルとしてのノイズ・ミュージックが生まれたことにも大いに関係しているだろうし、現代のオルタナティヴ・シーンにもそれは少なからず繋がっている。それはブロッツマンの現在の共演者、例えば近年度々共演している灰野敬二や今年共に来日したヘザー・リーなどを見てもわかるだろう。実際、ジャンルのボーダーなどというものは曖昧で、人間関係も複雑に絡みあっているので、そうそう単純に切り分けることなどできないのだ。
ブロッツマンが「座ってキレイなメロディを吹いている場合ではなかった」という時代から半世紀。グローバリゼーションや新自由主義は貧しい人々だけではなく中間層も疲弊させている。そんな現代、彼の音楽の存在感も人気もいまだに衰えていない。そこにはいまどきの社会状況も関係しているのだろう。我々の感性に訴えるわけは、彼自身が語った言葉の中にあった。
「音楽はテクニックでもないし、複雑なことでもない。人生のようなものなんだ。人生を語るものだ。どのように感じたか。何が出来るか。演奏する時に悲しい気持ちならば、そう伝わる」
確かに『マシン・ガン』はエポックなアルバムだ。「サックスのヘラクレス」という異名にふさわしくブロッツマンの歩んだ道は「ヘラクレスの選択」だった。彼は永遠のアウトローなのである。
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Reflection of Music Vol. 12 ペーター・ブロッツマン
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