ヒロ・ホンシュクの楽曲解説 #7 追悼 ガトー・バルビエリ〜アルバム『Fenix』を聴く
ナナ・ヴァスコンセロスに続いてガトー・バルビエリが他界した。この二人の名前を並べてみると1971年にバルビエリ名義で録音された『Fenix』(Philips) を思い浮かべる。このアルバムはヴァスコンセロスがアメリカにビリンバウを初めて紹介したことでも有名だ。筆者にとっては不思議なアルバムであり、このアルバムを愛聴している読者はここに書く筆者の意見に不快感を覚えるかもしれないので、ご注意されたい。もし不快感を覚えたなら筆者の独断や好みで書いているのだ、と一笑に付してお忘れ願いたい。
今回の楽曲解説はいつもの楽理的な立場と少し目先を変えてみたい。筆者がなぜこのアルバムを好んでいないかというと、それはこのバンドのタイム感に対して居心地が悪くてしようがないからなのである。バルビエリはドン・チェリーのグループで活躍したあと、自分のルーツ、アルゼンチン、もしくはラテン音楽に移行したかった。ところがこのアルバムのベースはロン・カーターだ。しかも彼が得意としていない電気ベース。ベース奏者にアップライトと電気を持ち替えろというのはフルート奏者にサックスを吹けというほど酷い仕打ちだ。そしてヴァスコンセロスはラテン音楽のタイム感とは反対側にいるブラジルだ。こういう組み合わせで何か面白いものを作ろうとしているのかと思うと、残念ながらそうではない。ロン・カーターは、ただ雇われたから演っている、というような演奏だし、ヴァスコンセロスは、合わなくて困った結果ミックスで音量を下げたり、話し合いで干渉しないようにセクションを分けた、というように聞こえてしまうのだ。
バルビエリのスタイル
アルバムは別にし、まずバルビエリの何が他のプレーヤーとの違いを際出させていたのかを考えてみよう。筆者は彼が<哀愁のヨーロッパ>で名声を得た事実以外はドン・チェリー・グループ在籍時しか知らないのだが、彼の演奏はユニークであった。彼は<Now’s The Time>を聴いてジャズに入ったと語るが、バップ・フレーズは吹かない。ビブラートをつけて、レスター・ヤングからオーネットへと継承すると思わせるフレーズという印象だ。コルトレーンの使用した超分厚いリードとは違い、薄めのリードでバカでかい音を出すのはさぞかし大変なテクニックだと思われる。このリードの選択だからこその高音でのリードを噛んだ雄叫びも特徴的だ。この『音』がまず彼のシグネチャーだったと思う。しかし筆者にとってはバルビエリの音よりも他に特筆したいことがある。
スペイン語圏のバックグラウンドを持つ奏者は、話す言語と同じようにかなりオン・トップ・オブ・ザ・ビート、つまり食いつくようなタイム感のグルーヴだ。チック・コリアなどはそれをさらにマルカートで演奏するからものすごいスリルのあるスイング感が出る。これが理由でチック・コリアをジャズ奏者と認めない輩に時々出会うが、筆者はグルーヴしてれば全てよしではないかと言いたい。話は逸れたが、マリアチバンドなどで耳慣れたラテン音楽はかなり攻撃的なタイム感だ。バリビエリはこの攻撃的なタイム感を表に出さずに朗々と吹く。フレーズ自体はオン・トップ・オブ・ザ・ビートな位置にあるが、タンギングなしで演奏するのでラテン特有の攻撃的なタイム感には聴こえない。だからかドン・チェリーのアルバムで違和感なく溶け込んでいる反面、他を寄せ付けないタイム感を披露していた。ちなみに筆者は<Symphony for Improvisers>がお気に入りだ。
さて、ヴァスコンセロスはブラジルのリズムのかみさまのような存在だ。ポルトガル語圏の音楽はラテン言語と違い、恐ろしくビハインド・ザ・ビート、つまりビートよりも遅い位置でグルーヴする。皆ビーチでのんびり音楽する文化だ。筆者もリオ・デ・ジャネイロに初めて行った時、共演のミュージシャンたちにまずビーチに連れて行かれた。ビーチがミュージシャン同士の出会う場所であり、ギターを持ってる者は必ず数人。あとは何か拾って来てパーカッションにする。
ラテン音楽というジャンル名の不正確さ
ラテンというのは古代ローマから発生した文化で、ラテン語と言えばイタリア語、ルーマニア語、スペイン語、ポルトガル語、フランス語、はたまた英語、ドイツ語、オランダ語まで含まれる。辞書でのラテン音楽は、南アメリカの音楽を総括し、南アメリカのどの地域もラテン系民族に植民地化されたからで、では北アメリカ音楽もラテン音楽ではないか、という不条理が発生する。ブラジル人はブラジル音楽をラテン音楽と言われることを恐ろしく嫌う。スペイン語圏の音楽とタイム感が正反対なので当然だ。ご承知の通りレゲェをラテン音楽と決して言ってはいけない。日本の古典音楽を演奏しているのに中国の民謡かと聞かれた時の気持ちを想像すればご理解頂けると思う。音楽のジャンルはその国の話す言葉で選別されるべきだと信じる。プラジル音楽とフランス音楽は近いし、フランスに優れたブラジル音楽奏者が多いのも容易に理解できる。同様にスペイン音楽とメキシコ音楽両方を演奏できる奏者は少なくないが、彼らにブラジル音楽の演奏を要求するのは、アップライトベース奏者に電気ベース、フルート奏者にサックスを要求する以上遥かに失礼だし、良い結果はほとんど得られない。
ビートとパルス
言葉で説明するのは混乱を招くので図を交えて説明を試みたいと思う。同ジャンルの音楽の中でも当然楽器によってタイムの位置が違う。例えばスペイン語圏音楽ではカウベルやクラベスやコンガは他のどの楽器よりオン・トップで演奏しなければ音楽がドライブしない。ブラジル音楽はパンデイロが他のパーカッションやギターなどの楽器よりビハインドでなければグルーヴしない。つまりどちらの音楽もそれぞれの楽器のタイムの位置の間に幅ができて初めてグルーヴする。これはジャズも同じだ。ベースがオン・トップ・オブ・ザ・ビートでバンドを引っ張らなければグルーヴしないし、それに対してドラムがビハインド・ザ・ビートでバランスをとらなければインプロバイザーの居場所がなくなる。ここがクラシック音楽やシーケンサー音楽との違いだ。クラシック音楽では全員のタイムがぴったり合って演奏するのが原則だ。
色々な音楽のジャンルで、どの楽器がオン・トップでどの楽器がビハインドという見方をするとラテン音楽、ブラジル音楽、はたまたジャズとの決定的な違いが説明できなくなる。ここで説明するのに必要なエレメントが『パルス』だ。パルスは時間という概念がある限りすべてに存在する。時間が進むにおいて繰り返し現れる節目と考えれば良いだろう。心臓の鼓動もパルスと言う。時間の経過に対するパルスという概念は、血の通った動物すべてが心臓の鼓動を保持しているから発生するのだと思う。一定でない場合もある。不整脈の人もいればコーヒーの飲み過ぎで速くなったり、病気で遅く弱くなったり。ややこしくなるので音楽に限って説明しよう。パルスはすべての音楽に存在し、一定したビートを持たないルバートの曲も当然パルスはある。ここで詳しい解説は避けるが、ルバートの場合ビートとパルスは同一化し、ビートは一定間隔という定義から降板する。ルバート以外のビートは一定の間隔で繰り返される節目となるわけだが、楽譜の要求にしたがって変化する。パルスは一定間隔で繰り返される必要はないが要求に従って変化することもない。言い換えればビートは譜面から要求されるもので、パルスは演奏者または聴衆が生理的な体感として保持しているものと言えるかもしれない。
日本ではビートの認識が誤解されているらしい。初めて『4ビート、8ビート、16ビート』という言葉を聞いた時理解できずに説明を求めたが4ビートはジャズ、8ビートはロック、16ビートはファンクと言われて、『何故?!』っと叫んでしまった。正しい音楽理論で言えば、4分の4拍子が4ビート、2分の2拍子は2ビート、ブラジル音楽はすべて8分の2拍子なので、これも2ビートだ。8ビートというのならそれは理論的には4分の8拍子、16ビートは4分の16拍子ということになる。数えるのも大変だ。ダウンビートと言えば1拍目の事、アップビートと言えば4分の4拍子では2拍目と4拍目のこと、ということでわかる通り、ビートとは拍子記号で示された1単位のことである。
さて、ここで話題にするビートとパルスの関係を図解してみよう。アメリカ黒人音楽から派生した音楽は全てビート2とビート4にアクセントが置かれる。これはアメリカ黒人の歩き方や喋り方が反映されたものである。
まずは一般的なミディアムテンポのウォーキング・ベースがグルーヴするジャズ。ビートは4分の4、パルスは2と4に発生する。
同じものが速くなると2と4で細かくパルスを感じることが不可能になるので、パルスはダウンビートに移行する。
反対にバラードのように遅くなると、今度はビートひとつずつにパルスを感じる余裕が出る。このスタイルの音楽は2と4でグルーヴするのに、バラードではそういうグルーヴ感がないのはこれが理由である。このテンポで敢えて2と4にアクセントを入れるとロック・バラードになるが、それでもパルスはすべてのビートなので混乱せぬよう。
3拍子の曲はジャズに限らずパルスは必ずダウンビートのみである。例外はアルゼンチンのチャカレラやブラジル南部のシャマメなどだが、この説明は今は避ける。
3拍子同様に6拍子の曲のパルスは1小節に2パルスである。
ブラジル音楽はシャマメなどの3拍子の曲を除いて、全て2拍子である。特に第二ビートにアクセントがあり、グルーヴして踊れるようになっている。
ジャズのバラードと同様、ボサノバ(正確には純ブラジル音楽ではないが)は遅いので、ビートの位置と同じ場所にパルスがある。
お気づきかとも思うが、ここがボサノバとスロー・サンバの違いである。同じ曲を同じテンポで演奏しても、ビート2にだけパルスを置けばボサノバがスロー・サンバに変身するわけだ。
さて、ビートとパルスの関係を理解したところでパルスの位置を文化圏別に図解してみた。
- スペイン語圏のパルスはビートより前
- ブラジル音楽のパルスはビートより後ろ
- アメリカ音楽はもう少し複雑で、ジャズの場合ベースが前、そしてドラムが後ろ(ポールチェンバースの『Base On Top』)、とビートを跨いでいる必要があり、またブルースやソウル系から派生したバックビートは後ろだが、そのバックビートは全員がぴったり同じ位置で演奏するのがブラジル音楽のパルスが後ろというのと意味が違う。
- カリブ音楽やジャマイカなどのウエスト・インディアの音楽は、筆者が現地で体験した限り、マージンが恐ろしく狭い。まるで針でつつく小さな一点に向かって全員一致でバックビートを刻むが、その一点は常にオン・ザ・ビートから微妙に前にずれているから独特のグルーヴを出す。
アルバム『Fenix』での各ミュージシャンのタイム感
- ガトー・バルビエリ(ts):オン・トップ・オブ・ザ・ビート
- ロニー・リストン・スミス(p):オン・トップ・オブ・ザ・ビート
- ロン・カーター(el-b):オン・ザ・ビート、時々ビハインド・ザ・ビート
- レニー・ホワイト(dr):ビハインド・ザ・ビート
- ジーン・ゴールデン(コンガ):オン・トップ・オブ・ザ・ビート
- ナナ・ヴァスコンセロス(ビリンバウ):ビハインド・ザ・ビートが基本だが、困惑と躊躇
筆者の耳が最初に行ったのはコンガのジーン・ゴールデンであった。驚くほどビートのトップでドライブする。彼の名前をググってもなかなか情報は得られないのだが、ニュージャージー州でティト・プエンテを聴いて育ったアメリカ人らしい。もうひとり、ピアノのロニー・リストン・スミスのタイム感もオン・トップ・オブ・ザ・ビートでドライブする。このピアニストはキャリアを見るとどんなスタイルでもちゃんと理解してこなすのかとびっくりしてしまった。この二人のタイム感がこのアルバムを救っていると言えると思う。
それに対してロン・カーターはメトロノームクリックのようにオン・ザ・ビートで無味乾燥に演奏しているだけではなく、ラテン音楽のスタイルを理解していないベースラインなのでグルーヴを殺してしまっている。数カ所バルビエリのキューをミスってコードを変えるのを忘れていたりもする。5曲目<El Arriero>ではなんとビハインド・ザ・ビートになってしまって、バンドが全くドライブしない原因を作っている。彼がアップライトを弾いていたら絶対に起こりえないことである。彼の、他の誰にも真似できないようなものすごいオン・トップ・オブ・ザ・ビートでバンドをがんがんドライブさせていたマイルス・バンドで、筆者にとって英雄だったロン・カーターが、こんな録音を後世に残してしまうのか、と少し悲しくなってしまった。実際ミックスもベースが前面に出ており、もしもベースがもっと小さくて、ビハインド・ザ・ビートでグルーヴしているレニー・ホワイトやナナがもっと聴こえていたらこんなに聞きづらいものにはなっていなかったのでは、と思う。唯一の救いはロン・カーターの素晴らしさが思う存分楽しめる4曲目、<El Dia Que Me Quieras>だ。この曲は最後までルバートなので不快なグルーヴに悩まされることはない。但し、3分45秒程入ったところでロン・カーターは思いっきりハズしてしまう。まるで適当に演奏しているように、だ。これは本当にロン・カーターなのだろうかと思ってしまう。
収録曲
2曲ブラジルの名曲を収録しているが、筆者の頭の中は疑問符だらけだ。3曲目<Falsa Bahiana(正しいスペルはFalsa Baiana)>は、『ブラジル東北部バイアの人たちはかっこいいから、彼らの振りをするが、結局彼らのようにサンバが踊れないから嘘がバレる』っというコミカルな曲で、古くからある名曲だ。筆者も昔よく歌の伴奏で演奏した。この曲をサンバ以外のグルーヴで演奏する意味があるのだろうかと思う。それだけでなく、このトラックのグルーヴは異常に不快なのである。ベースは無味乾燥にジャズ・ボッサのラインで、そしてカウベルだ。このカウベルは多分ゴールデンだ。ボンゴは気持ちよくビハインドすれすれでグルーヴしているから多分ナナだ。それに対しゴールデンはカウベルでオン・トップにならないよう一生懸命抑えているが、それがとても不安定なグルーヴを出してしまっている。レニー・ホワイトがほとんど聴こえないが、遠くに聴こえるライドがもうちょっと聴こえていたら、と思う。
そしてクロージング・ソングの<Bahía>もAry Barrosoのサンバの名曲だが、これに関してはナナのビリンバウのソロから始まるので、1曲目と違ってまだ救いがある。1曲目の<Tupac Amaru>ではコンガから始まるのでナナは始めたもののあまりの合わなささに混乱し、結局ミックスでほとんど聴こえないところまで下げられている。この<Bahiía>でもバンドが入ればズレまくってミックスで下げられている。なんとも悲しい。
それに対し2曲目の<Carnavalito>はベースから始まり、そこにナナのビリンバウが入る。実はこの2曲目はかなり特筆すべきだ。ベースは無味乾燥なオン・ザ・ビートなのでナナはそれをメトロノーム代わりにして思う存分ビハインド・ザ・ビートでグルーヴしていることに注目して頂きたい。ここでロン・カーターはナナのタイム感に引きずられることなく一糸乱れずタイムキープをしていることに注目したい。スタイルを理解していなくてもさすがロン・カーターだ、と思った。そしてコンガのジーン・ゴールデン、イントロ部分ではタイム感がオン・トップ・オブ・ザ・ビートにならないように抑えているのでナナはしばらく自分のグルーヴをキープすることができている。しかしピアノのロニー・リストン・スミスがオン・トップ・オブ・ザ・ビートにならないように抑えながら入ってくるが、ゴールデンと違い一生懸命制御しようとして演奏してるので無理が生じ、16小節目あたりでナナは崩れてしまう。だからミックスもそのあたりでいきなり下げられてしまう。なんともため息が出てしまう。この曲でも残念ながらロン・カーターの間違いは耳に触ってしまう。きっとグルーヴしていたら気にならないのだと思うのだが。
元々ビリンバウという楽器はブラジルの格闘技、カポエラに使われる主要楽器で、カポエラを一度でも見れば理解できるように格闘技といえども優雅な舞踏なのだ。その昔戦闘前の音楽に使われたと言われるが、あるブラジル人から気分を落ち着かせるための音楽だったと聞いたことがある。つまり攻撃的なスペイン語圏の音楽には絶対に合わないのである。
安易にブラジルの名曲を2曲入れたのはナナを迎えたからだろうか。合わないタイム感のミュージシャンを集めて、合わないからこそ奇抜なものを作る努力は全くせずに、こういうアルバムを安易に作るのは最終的にはプロデューサーの責任であると信じる。
合わないからこそクリエイティブなサウンドを作ることは全く可能である。筆者のデビュー・アルバム、<Are You Blue>では、わざと合わないミュージシャンばかりを集めた。自分が他国のカルチャーであるジャズとブラジル音楽をするにあたり、真似をしても意味がないと強く感じ、また、マイルスの教えである『新しいものを創る』作業がしたかったので、ベースはアルゼンチン人、ドラムはカリブ系であるスリナム人、ピアノはゴスペルで著名なアメリカ人。全員のタイム感が合わないからこそユニークな、ブラジル人にはできないブラジル音楽を作り出してみた。とてもスリリングなグルーヴだった。手前味噌で申し訳ないが、目的がはっきりしていて合わないタイム感のミュージシャンを合わせるのと、合わないタイム感がどういう悲劇を生み出すか理解しないで適当に音楽をするのとの違いだ。
そういえば、ジャズを理解していないジャズ・フェスティバルがオールスターと称して、合わないのに有名人のベースとドラムを合わせるのは困りものだ。あれはアメリカでは絶対に見ない。話は逸れたが、もしロン・カーターにアップライトを弾かせ、好きなようにしろ、と言うか、または音楽が要求していること、つまり演奏予定の曲のスタイルから派生するベースラインとタイム感を正しく伝えるかしていたらどんなにいいアルバムになっていただろうか。また、ナナに『合わせようとするな、自分のグルーヴをマイペースでやってくれ』と伝えていたらもっと楽しめるアルバムになっていたのではないか、と色々考えてしまう。