#2322 『Aki Takase Trio ~ Song for hope』
『高瀬アキ・トリオ/ソング・フォー・ホープ』
text by Masahiro Takahashi 高橋正廣
BBE MUSIC BBE677ACD ¥
高瀬アキ (pf)
井野信義 (b)
森山威男 (ds)
01. Monologue
02. Song for Hope
03. Minerva’s Owl
04. Mountain Forest
*All Compositions by Aki Takase
録音:1981年11月5日 ベルリン・ジャズ・フェスティヴァル
The J-Jazz Masterclass is curated by Tony Higgins & Mike Peden
Mastered by Frank Merritt at the Carvery, London
Licensing by Ken Hidaka by the courtesy of Enja Records, Muenchen
高瀬アキが2024年の今日、なお精力的にクリエイティヴな創作活動を行っていて世界中の真摯な音楽ファンの信望を得ている現在地については、本誌の優れた執筆者の方々のコラムやレビューによって詳らかにされているところであり、本稿においては最初期の高瀬アキのアルバムがEnjaによって紹介されるに至った背景を辿り、そこから高瀬の原点を見つめてみたい。
1969年、マンフレート・アイヒャーが設立したECMレーベルと並んで、’71年ホルスト・ウェーバーとマティアス・ウィンケルマンの2人によってEnjaは設立されたが、その設立に日本が深く関わっていることはあまり知られていない。レコード会社の設立資金の調達は銀行から融資を断られたものの、日本のTrioレコード(現・JVCケンウッド)と契約できたことで資金調達が可能になったとマティアス・ウィンケルマンが語っている。(さらに本題からは少し離れるが、TrioレコードはECMとの間でも日本における独占契約を締結して初期のECMの経営に大きく寄与している。)それから半世紀を過ぎた今日、EnjaとECMという今や欧州を代表する2つのジャズ・レーベルを介して日本とドイツの音楽的交流が今尚親密に続いていることは本誌の各種コラム、レビューを通じて明らかだ。
欧州系フリー・ジャズを趣味としていたホルスト・ウェーバーは本業の服飾デザイナーの仕事で’70年から翌年にかけ日本に滞在していた時期に、当時設立間もないThree Blind Miceレコートの為に、新宿DUGでのアルバート・マンゲルスドルフ(tb)カルテットの来日ライヴ・アルバム『Diggin’』をプロデュース。このアルバム制作に関わったことがEnjaの創立の契機になったとかつてインタビューで語っている。
山下洋輔が「世界のヤマシタ」へと雄飛したのは’74年から始まる欧州ツアーだったことはよく知られている。そのドキュメントを記録したのがEnjaであり、オーナー・プロデューサーのホルスト・ウェーバーが米国に拘泥せず他の国のフリー・ジャズに門戸を開いたことがその背景にある。山下トリオ(森山威男、坂田明)が一回目の欧州楽旅のメルス・ジャズ・フェスで圧倒的な成功を収めたことはそれまでほとんど紹介されることのなかった日本のフリー・ジャズが欧州のジャズファンに受容された証に他ならない。その山下が桐朋学園ピアノ科に在学中の高瀬を指導していたことはその後の高瀬のスタイルに大きな影響を与えたことは確かであり。本作品の高瀬のプレイの各所に散りばめられている。また本作品のオリジナル・ライナーノートには、Jジャズの理解者として知られる内田修氏の紹介で高瀬の生ライヴを銀座のジャズクラブ ”ジャンク” で初めて聴いたホルスト・ウェーバーは高瀬の演奏に強い印象を受け、高瀬を’81年のベルリン・ジャズ・フェスティヴァルに招待することとなったと記されている。(このことはホルスト・ウェーバーが Jジャズ探訪、新たな才能発掘のために来日していたことを物語っている)
ホルスト・ウェーバーは’99年に小川隆夫氏のインタビューに答えて「高瀬アキはとても信頼できるピアニストだ」として挙げていて、事実 Enja によってリリースされた高瀬のアルバムは2000年代に至るまで10数枚を記録している。これは ’86年に渡欧し、’88年からベルリンを拠点に精力的なアルバム制作を手掛けてきた高瀬にとっても最も吹込み数が多いレーベルと言うことになる。それらの作品を年代順に追ってみると、高瀬の前衛的アプローチとは別にデューク・エリントン、ファッツ・ウォラー、セロニアス・モンクらの作品を取り上げたアルバムに気が付く。こらは高瀬アキがフリー・ジャズに軸足を置きつつも伝統的なスタイルへの造詣の深さを滲ませる裾野の広いミュージシャンであることの証左となろう。(フリーと伝統の狭間という高瀬のスタイルについては公私にわたるパートナーにしてドイツのアヴァンギャルド・ジャズ界の重鎮であるアレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ(p)の影響もあるのだろうがそれはまた別の話)
さて本作品のサイドメン井野信義 (b)と森山威男 (ds)については今さら紹介するまでもないが、’81年という時点において望みうる最高の人選だったことだろう。高瀬の欧州デビューを鮮烈に彩る本作品で太刀持ち、露払いに留まらない彼等の卓越した実力と比類なき個性が充分に発揮されていることは嬉しいことだ。
01. <Monologue> 「モノローグ」のタイトルが示す通り高瀬の無伴奏ピアノ・ソロ。強靭で屹立したピアノの1音1音に高瀬の意思が明瞭に伝わっていることが実感できるイントロからその緊迫感は圧倒的な風圧として聴く者に迫って来る。これほどの打鍵を振るいながら高瀬の根底にある怜悧なリリシズムは少しも揺らぐことはない。これほどに曲の構造の見事さ~起承転結をもったソロ・パフォーマンスを筆者は寡聞にして知らない。
02. <Song for Hope> 心優しくナイーヴな感性が反映された美しいテーマが印象的だ。ファラオ・サンダース(ts)の書いたリフから触発されて書いたというこの曲、モーダルなリズムをバックに高瀬のピアノが次第に高揚していきクライマックスでは山下洋輔張りの強烈な鍵盤アタックを聴かせる。さらに森山のタイコが強烈なパルスで高瀬と井野の2人を大きく包み込む包容力を見せるラストが圧巻だ。
03. <Minerva’s Owl> 「ミネルヴァの梟」と題された3曲目、高瀬の瑞々しく切り立ったピアノの音が芳醇なロマンの香りを運んでくる。高瀬のソロの背後では井野のソリッドなベースが高瀬を挑発し、森山のデリカシーを感じさせるブラッシュワークが演奏の推進力をさらに高めている。コンサートにおけるバラッドとは正にこうあるべきという見本のような演奏。
04. <Mountain Forest> アルバムのラストに収められているこの曲は実はフェスの冒頭に演奏されたという。山下トリオの一員としてすでに馴染みのあった森山は別として、ベースの井野のプレイを聴くのはベルリンの聴衆にとり初めてのことだったろう。演奏はその井野の雄弁なピチカート・ソロで始まるとそのまま渾沌と抒情の入り混じるアルコ・ソロへと移行。高瀬がテーマを弾いて森山のドラムソロの爆走が始まる。それは山下トリオでの破壊的なスティック捌きとは明らかに一線を画していてドラムという楽器のビートの本質を信じているスタイルに他ならない。最後に高瀬が登場して3人のインタープレイに突入。森山の名を綴ったネーミングのこの曲は全くのフリー・フォームで演奏されているが、アブストラクトなジャズに対して受容的で鋭い審美眼を持つベルリンの聴衆らに圧倒的な好感をもって受け入れられたことは決して偶然やフロックではなく、聴衆のヴィヴィッドな反応がこのライヴの成功の全てを物語っている。
日本の女性ジャズ・ピアニストの海外進出は遥か1956年の穐吉敏子の渡米、日本人初のバークリー音楽院での履修に始まる。穐吉はパウエル派の新進ピアニストとして米国でも脚光を浴びていたが、音楽的な成熟はまだまだ先のこと。それに較べて本作品ではすでに高瀬が優れた完成度を持っていたことに瞠目する。爾来、40年近くに亘りドイツを拠点に、ジャズ界は勿論、文学や舞踏という異ジャンルとのコラボレーションを積極的に展開して異彩を放ち続ける高瀬の存在は後進にとっての海外進出のランドマークであるばかりか、今やJジャズのシンボルタワーになっていると言っても過言ではない。本作品はその高瀬が築いた記念すべき1作なのだ。
※参考文献:小川隆夫著「レーベルで聴くジャズ名盤1374」