#925 佐藤久成 ヴァイオリン・リサイタル
2016年11月5日土曜日 14:00 東京文化会館小ホール
reported by Masahiko Yuh 悠 雅彦
1.ヴァイオリン・ソナタ第1番ニ短調 作品75(サン=サーンス)
2.ヴァイオリン・ソナタ第3番イ短調 作品25「ルーマニア」(エネスコ)
<休憩>
3.ヴァイオリンとピアノのための4つの小品 作品7(ウェーベルン)
4.ヴァイオリン・ソナタ第1番 S z.75(バルトーク)
佐藤久成(ヴァイオリン)
小田裕之(ピアノ)
昨年2月、ところも同じ東京文化会館で、私は初めて佐藤久成(さとうひさや)の演奏を聴いて目をみはった。舞台での演奏する彼独特の動きといい、往年の知られざる規模の小さな作品に息を吹きかけるように演奏して観客を楽しませる術といい、日本にもかくも奔放にして個性的な演奏をする演奏家がいるのかと、その演奏を目の当たりにして実は嬉しくなった。モーツァルトのソナタ2曲を活きいきと、いかにも楽しげに演奏する第1部に続く後半のステージで、バルトークの「ルーマニア民族舞曲」に始まり、フスの「エクスタシー」、ルビンシュテインの「ザ・デュウ・イズ・スパークリング」、グリエールの「ロマンス」、ウィルへルミの「コンチェルト・シュトゥック」(ハンガリー風)など規模の小さな、しかし知られざる魅力を秘めた作品を8曲並べた異色のプログラムがすこぶる印象的だった。中でもパガニーニの「モーゼ・ファンタジー」をドラマティックに構成した個性的奏法には感じ入ると同時に、音楽の楽しさを彼なりのやり方で伝えようとする意欲を存分に汲み取ることができたリサイタルだった。
あれから1年9ヶ月ぶりのリサイタル。佐藤はプログラムをがらりと変えて臨んだ。前半のサン=サーンスとエネスコのソナタにしても、どちらかというと玄人好みの作品で、日常的に耳にする類いのものではない。もちろんサン=サーンスはヴァイオリン奏者にとって珠玉の一品とも言うべき「序奏とロンド・カプリチオーソ」、「ハバネラ」、パブロ・デ・サラサーテに捧げた
「ヴァイオリン協奏曲第3番」などの作品で知られる作曲家だが、このニ短調のソナタはさほど演奏される機会が多い作品ではない。前回のリサイタルで強く印象づけられた表現の卓越性、たとえばピアニッシモからフォルテへ、静から一転跳躍する動への運動性、あるいはスペースの奥行きと広さを印象づける空間性を一気に躍動させる活きいきとした律動性が、彼の演奏では作品の面白さを引き立たせる大きな要素となっている。ここが素晴らしい。
ルーマニアの民族音楽と切っても切れないエネスコのソナタも、エネスコのルーマニア人としての血潮が噴き出すかのようなアイデンティティー色の濃厚な情熱性を押し出した演奏で感心したが、それ以上にバルトークが感銘深かった。ナチスの台頭に象徴される最も絶望的な時代と環境の中で、表現の独立性と豊かな人間性を失わなかったバルトークのこのソナタは、エネスコの音楽性と響き合う民族的な香りを漂わせながらも、ベルクの「ヴォツェック」の発表と相前後して書かれたこのソナタは、西洋音楽が無調の時代に突入する動きに呼応した作品とも言えるだろうが、それ以上に作品の力強い表現性と時代に立ち向かうバルトークの意志力を佐藤が現代に還元して表現する、とでもいいたいような力強い演奏で聴く者を強く惹きつけた。彼の演奏を特徴付ける緩急自在の運動性と、緻密でありながらそれを表には出さず、表に出る活力に満ちた表現性とが一体となった秀逸な力演だったといってよいだろう。
佐藤はこの日の全4曲とアンコール曲をべて暗譜し、おざなりな解釈や奏法とは無縁の、わけても自己の知力で血肉化させた、まさに活きた血の通った演奏で観客を堪能させた。忘れてならないのは、佐藤の呼吸と一体化したピアノの小田裕之(ひろゆき)の好演。佐藤は共演ピアニストを演奏会ごとに変えては楽しんでいるようにも見える。前回は杉谷昭子で、<ヴァイオリン・コンサート>と銘打ったコンサート(12月23日、荻窪)では江﨑萌子と共演する。小田との今回は、とりわけバルトークの終楽章が鬼気迫るかのような迫真的演奏で特筆ものだった。まさに30分を超える熱演。最後のクライマックスでの緩急とユーモラスな表情をまじえた展開の自在さなど特筆に値する演奏だった。
アンコールは佐藤お得意の、有名無名を問わない小品集。観客が息をする間もなく次々と全4曲を繰り出した。ボームの「カヴァティーナ」にはじまり、グリエールの「ロマンス」。前回も演奏したゴセックの「ガヴォット」、締めくくりはリースの「常動曲」。相変わらず、空をキッと睨んだり、右足と左足のバランスをリズムに合わせて変えたり、中身が空疎だったりすれば噴飯物と笑われかねない動きが、佐藤の場合は好ましいアクセントになっているところが面白いと言えば面白い。