JazzTokyo

Jazz and Far Beyond

閲覧回数 33,001 回

Concerts/Live ShowsNo. 293

#1229 池田亮司展レビュー「リアリティの分離/融合」(前編)

text by Yoshiaki ONNYK Kinno 金野Onnyk吉晃

池田亮司展
2022年4月16日(土)― 8月28日(日)
青森県弘前市 弘前れんが倉庫美術館

私にとって池田亮司はまずサウンドクリエイターであり、パフォーマンス集団<ダムタイプ>と一体の存在であったが、その実際の上演には接した事が無いので、結局彼はいわゆる「音響派」の代表的存在として作品(レコード、CD)を聴いて来た。それ故、今回の大規模な展示〜インスタレーションにおける視覚と聴覚の融合体験は、かつての池田のサウンドを参照しつつ批評することになる。
<ダムタイプ>について改めて紹介するべきであろうか。80年代、京都に登場し、そのメカニカルでシステマチックな構成の上演は、過去に比較すべき形式を見いだす事が難しかった。
敢えて言えば演劇運動として八戸、東京、名古屋を拠点とした三派(モレキュラー・シアター、クアトロ・ガトス、オスト・オルガン)の追求した<絶対演劇>や、演劇の脱構築であるハイナー・ミュラーの「ハムレット・マシーン」などを想起できるかもしれない。
しかし<ダムタイプ>が一躍その名を馳せたのは、池田のつくり出した音響・空間の新しさに在ったと言っても良さそうだ。実際、池田は音響担当というだけでなく上演作品のディレクションにまで関わって行く。ダムタイプ以降の池田は、純粋に電子的なノイズを、壁や洪水にするのではなく、極めて瞬間的な鋭い音の楔として時間的配置をしていく。同時に従前からの手法であるサンプリングを徹底して断片化し、組み合わせてひとつのスタイルを確立する。同時期には「音響派」が輩出したが、池田こそ世界的に見てもこの分野をリードする存在と言えただろう。これはジャパノイズと言われる一派とは明確に区別される様式だった。それは正弦波の断続、グリッチ音、サンプル音、ホワイトノイズ、クリック音による聴覚体験の抽象化ともいえるような体験性を齎した(そのサウンドの特徴から「接触不良派」といった言い方もされた)。
しかしこれもあくまで様式化された音楽として消費され、その物語性の欠如は逆に体験の貧困というべき陳腐さになっていった。
音響派の最右翼Pan Sonicは21世紀のKraftwerkだなどと言われたが、Kraftwerkにはある種のロマンチシズムとノスタルジーが横溢していたのが救いである。というよりPan SonicやOvalにはもう過去も未来も無くなっていたのだ。
またこの一派が開発したのはパソコンによるサウンドコントロールであり、演奏の現場でも突き詰めればパソコン一台だけに向かう、あたかもゲームか通信に没頭するようなパフォーマーの孤独な姿があった。
池田と音響派についてはこれ以上説明を重ねても無意味だろう。それ以上は個々の聴取によってしか語れない。
しかし、私も<ダムタイプの池田>の音響印象が強くて、実際に展を見るまで、その視覚的作品を想像もできなかった。

弘前れんが倉庫美術館は、現代美術の展示を主に次々と刺激的な企画を立ち上げている。青森県はほかにも十和田市現代美術館や青森県立美術館などで、同等に現代美術の粋を見る事が出来る。近代産業遺産であるレンガ倉庫の、その屋根の高さを利用しておおきな展示を可能にした美術館は、リユースというかリノベーションというかその観点から見てもユニークで美しい。
私はウィークデイの開館時間にちょうど着いたので、私の他に入館者はいなかった。これは或る意味理想的な状況だった。

展示会場で私を出迎えたのは巨大な「黒く輝く瞳」だった。
“point of no return”(2018)という作品。直径二メートル以上もありそうな漆黒の円。その周囲から強烈な光芒が溢れている。特殊なプロジェクターによって投射すると同時に、裏に回ると特殊ランプが暗黒の中に輝く真っ白な円を照らしている。
私は最初にブラックホールを、当然のごとく想起した。あるいは、皆既日食の金環食にもみえるのだが。そして裏側では何故か満月を見ているような気になった。
「帰還不能点」、それはブラックホールにおけるシュヴァルツシルト半径、イベント・ホライズンともいわれる。そこから内側は、もはや光がやってくる事さえも出来ない重力の底なし沼なのだ。片や真っ白な光は沈黙を保っている。生まれたての月はこのように輝いただろうか。今より地球にずっと近かった頃の満月は眼も眩むばかりだっただろうか。
そしてこの連想空間に、聾する寸前のノイズを含む超重低音が鳴り響く。宇宙に放り出されたか、よくできたSF映画のなかに入り込んだようだ。いずれ既にこの作品において、視覚と聴覚は何の疑問を持つことなく合致する。この合致感こそ錯覚なのだが。錯覚は鑑賞者の裡に生ずる「作品性」である。

以後作品全てをいちいち紹介はするまい。
次に眼を引くのは、高さ15mの大型プロジェクション、”data-verse 3”(2020)。2019年のヴェネチア・ビエンナーレにおいて公開された映像、音響のインスタレーション。CERN(欧州原子核研究機構)やNASAなどから、ダウンロード可能なオープンデータを取り入れて制作された。原子核の内部から、原子の構造、そして遺伝子の塩基排列、タンパク質の合成、身体、とくに脳の構造、さらに天体の配置、宇宙の大構造まで、ミクロからマクロの視点を認知ぎりぎりの早さで行き来する疑似体験。
…どこかで見た事がある。そうだ!手塚治虫の「火の鳥」ではないか。手塚が当時知り得る限りの科学知識を、自分の筆力だけで誰にでも理解できる静止画像の連続として子供時代の我々に啓示したあの世界を、池田は最新データとコンピュータによって見せている。私が漫画「火の鳥」に没頭したとき、確かに音が鳴っていた。それは火の鳥の語る言葉とともに聞こえていた筈だ。それは池田のような音だったろうか。

反対側の壁に静かな作品があった。60センチ四方の白い画面4枚。それぞれに極細の線でグリッドが描かれている。だがどのグリッドもその幅が漸次変化して一種の運動性を感じる。ミニマルアートといえばそれまでだが、池田の他の作品と共通の原理をもっていてしかも静謐である点は特別ユニークに思えた。この”grid system”の4バージョンは本年の製作で、展示のうちで最も新しい。

二階にあがると、吹き抜けの床上から”data-verse 3”を高い位置から観賞できる。この床には”data texture [no 1]”(2018)が投射されている。
美術館に付き物の監視係のお姉様に、わざわざ「どうぞ中に入ってご覧下さい」と言われた。という訳で現実にひきもどされるのも一興。流れて行くDNAのコードの中に「お入り下さい」といわれるのも「クラインの壷」的な目眩で知のジェットコースターとも言えようか。池田はこの流れの速度を解読できない程に早くする事を意図している。その方が遅く感じるのだと。
また確かに我々の人生の中で30億のゲノム解析は出来ないし、全貌を見る事もほぼないとすれば、これは確かに貴重な経験なのかもしれない(ずっと見ているお姉様にとってはどうだろう)。
しかし、それは表現なのだろうか?
この部屋を抜けると、さきほどのデータが幾つかのディスプレイでゆっくりと流れている。
2005年以来、こうした様々なメガデータのコードを視覚化して知覚の限界を超えて投射するのが池田のスタイルとして定着し、これをdatamaticsシリーズとして連作して来た。
しかし、それはリアリティなのだろうか?

弘前れんが倉庫美術館には、人気作家奈良美智の収蔵品もある。彼は弘前出身の「画家」であり「表現者」である。私は彼の作品に全く共感できないのだが、彼の絵が表現たりえていることは認める。それは他者を見つめ返す眼を持っているからだ。
このこと、つまり見る者を見つめ返す眼を持っている作品が、絵画になり、表現足り得る。眼と書いたが別にそれは人の眼でなくてもいい。蝶や蛾の翅に見る眼状紋のように見つめ返してくる形象が存在するのだ。その端的な例をゴッホの人物画ではなく風景画に求める事は容易だろう。
赤間啓之はこのような構造を「エテロイユ〜se re-hétéro-œiller」と造語にした(「ラカンもしくは小説の視線」1988)。
さて、表現と共に、常に問題になるのはリアリティである。ある作品が他者性の無いファンタジーで終わるのか、衝迫力をもって鑑賞者に、何事かを言わせるのか、それを決定づける位置にリアリティの問題が在る。勿論ファンタジーの中に埋没して、それをリアリティと感じることもある。これを今、IT産業がこぞってメタヴァースという形で与えようとしているのは周知だが。
「絶対的な真実、事実、実体があり、これをリアリティと呼ぶ」などとは思っていない。ただ、ある時代におけるリアリティとはなにか、さらに時代を越えて可能なリアリティとは何かを問いたいのである。

彼は現在の作品展示で、視覚と音響を合致させた形式で提示している。そうだ、ここで両者のリアリティが分離してはいけないのである。かつて音楽と美術はその先験性を競った。互いに遅れては居まいかと気にしつつ前衛と実験は進行し、ある時、その競争は停止した。お分かりと思うが電子テクノロジーが両者の基盤となり、ついにコンピュータという、システム〜マトリックスの中で両者は同床異夢をみることになった。
ここにおいて体験性のリアリティは極めて狭いものとなり、主として視覚と聴覚のデジタルデータの構築、改変、通信、記録が同一次元で許可された。
少なくとも池田がダムタイプと仕事を開始した頃、そこまでの充実は達成されていなかっただろう。
私の手元に池田のソロCD「0℃」がある。1977年から78年にかけて制作されている。その他にも池田のアナログアルバムも所有しているのだが、全て分析する必要は無い。77年と言えば45年前の世界である。
そしてまた、2007〜2017に録音された”music for installations”というCDがある(会場で購入)。これを比較して30年間、ほぼスタイルが変わっていないことに驚きを覚えるが、これは池田の、或る意味保守性、そしてテーマの正統性(見方に依っては凡庸)が映えているということもできる。
つまり池田の志向と方法は不変で、その時代の器材や能力に依る事はあっても、ぶれることなく継続され、いわば音響の質の変化を主とし、その質の変化こそが聴覚の体験性へのリアリティを生むといわんばかりなのだ。

私は、巨大な「黒く輝く瞳」〜“point of no return”に向かい合ったとき、ブラックホールだけでなく、もう一つ観念的な連想をした。
それは「神の眼」である。古来より、神は何故世界を作ったか、人を作ったかという疑問はどの宗教、どの文化でも持たれた。そしてそれに対する答えは「神が自らをご覧になる為」というのが普遍的だとも言える。人類は神の鏡なのだ。
急いで付け加えるが私は決して宗教的な人間ではないし、神の存在を信じているのではない。つまり神という観念によって我々は存在を保証したい。しかし神は不在だったり、相反する訴えも聴かねばならぬし、天変地異も起こしたり、死んでみたりと気まぐれかつ多忙なのだ。
だから人類は、アイデンティティを科学や数学に求めてみた。もしかつて宗教芸術が、神を描いたり、宇宙の仕組みを解いたりしていたのだとすれば、池田の方法論”datamatics”はまさにそれを引き継いでいるのではないか。
すなわち、かつて宗教が占めていた芸術の根拠の一部を、科学〜量子論的宇宙観、数学的構築〜によって置換し、それを可視的な図像として展示するということ。かつての宗教的権威は、最先端の研究やコンピュータの飛躍的な能力によって消し飛んでしまうかに見える。
しかし、それが全てを言い尽くしているのではない事は確かだ。
私はある人物を評価する場合、彼の世界観、生命観、価値観を知ろうと思う。その意味で、池田の場合、世界観は明確になっている。
しかし倫理、哲学、政治、経済、ロジスティクス、産業、環境、疫病、戦争といった問題、つまり地球上の生命の様相と人間活動に関わる彼の哲学、思想は見えて来ない。いや、むしろ圧倒的なデータの流れという表現は、我々に思考停止させてしまうような事態になる。これはしかし哲学的エポケーではない。

あるいはまた、前述した「見る事は見られる事」が間主観性の基盤となるなら言い方を変えて「知る事は知られる事」でもよい。この相互反応が我々の世界観のあり方でもある。これはさらに敷衍して、一人では人間になれない、一人だけでは言語が無い、ということでもある。かくして社会というのは、言い方は悪いが相互監視になる。監視が悪ければ、注視としてもよい。いずれ、見る事は支配する事、理解しようとすることである。
我々は神の姿を見たい、また神も視線を欲する。この関係は「絵画は見られる事で成立する。また絵画は鑑賞者を見ている」という関係に匹敵し、芸術の存在理由になる。
我々は生を生きているのではない。生に生きられ、生かされている。この生概念の転倒、これを「不在の神」概念によるオブセッションと言っても良い。それを否定するなら、ヒトの精神は、動物と同じく、モノとコトだけが無意識のように構造化された殺風景な客体( le Réel:『現実界』)になるだろう。
良く言われる言葉だが「風景はヒトが作るもの」だ。だとすれば風景を殺すのもヒトなのだろう。そして世界という風景は誰が作り、壊すのか。

宇宙望遠鏡が見せる画像は、両界曼荼羅より深遠だろうか。量子コンピュ―タが、これまでのコンピュータを時代遅れにしていくとき、AIが「三体」世界の様に疑似芸術を提供し、似非即興演奏を聴かせ、短歌を詠むとき、我々はますます生と死の往還に思いを致すだろう。
(後編に続く)

https://www.hirosaki-moca.jp/exhibitions/ryoji-ikeda/

金野 "onnyk" 吉晃

Yoshiaki "onnyk" Kinno 1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。「第五列」の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください