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R.I.P. ジャック・ディジョネットAll About JazzNo. 332

限りなき想像力 by イアン・パターソン

Text by Ian Patterson  イアン・パターソン

ミュージシャンはもっと勇気を持つべきだと思う。演奏は自分自身の声なんだからね。— ジャック・ディジョネット

All About Jazz は、NEAジャズ・マスター、ジャック・ディジョネット氏の訃報を悲しみとともにお伝えすることになった。彼は、モダン・ジャズ・ドラマーとして最も尊敬され、影響力のある一人だった。2025年10月26日、死因はうっ血性心不全。享年83。

ディジョネットは偉大なジャズドラマーの殿堂に列せられるべき人物。大統領のそれがあるようにジャズドラマーのラシュモア山があるとしたら、ジャック・ディジョネットは間違いなくそこにいるはずだ。

彼の独特でダイナミックなスタイルは、様々な時代のジャズの要素を取り入れながらも、R&Bやロックに近い力強さも持ち合わせていた。マイルス・デイヴィスがディジョネットを『ビッチェズ・ブリュー』(Columbia 1970年)に起用したのも当然と言えるだろう。このアルバムは物議を醸し、時代を象徴する作品となり、今もなお大きな話題を呼び続けている。

60年にわたるキャリアの中で、ディジョネットはチャールス・ロイド、アビー・リンカーン、ベティ・カーター、ビル・エヴァンス、AACM創設メンバーのムーハル・リチャード・エイブラムス、ロスコー・ミッチェル、ジョン・スコフィールド、デイヴ・ホランドなど、数多くのミュージシャンと共演してきた。サン・ラ・アーケストラがシカゴで活動していた時期には、時折りバンドに参加もしていた。

ディジョネットの長いキャリアと音楽に対する寛容さは、ジャズの世代的慣習や個々のスタイルを巧みに融合させたコラボレーションを可能にした。ジャッキー・マクリーンやソニー・ロリンズからワダダ・レオ・スミスやヘンリー・スレッギル、マッコイ・タイナーからジョン・アバークロンビー、パット・メセニーからアヌアール・ブラヒム、ビル・フリゼールからブルース・ホーンズビーまで、ディジョネットの機敏さと飽くなき創造力(彼はドラムのチューニングをほぼ毎回変えていた)は、彼が出演するあらゆる舞台を輝かせた。

常に多才で卓越したテクニックを誇るディジョネットは、あらゆる意味で完璧な現代ドラマーだった。「グルーヴ感を出すのが大好きなんだ」と、ディジョネットは2006年にAll About Jazz に語っている。「スウィングしたり抽象的な演奏をするだけでなく、リズムに合わせて内容のあるグルーヴを作り出すのも大好きだね」

数多くの単発プロジェクト、いくつかの短命グループ、そして定期的なコラボレーションに対する彼の貢献は確かに大きなものだった。

しかし、彼の最も有名で長きにわたるコラボレーションは、間違いなくキース・ジャレット・トリオ(通称キース・ジャレット・スタンダード・トリオ)での活動だ。1983年から30年以上にわたり、ジャレット、ベーシストのゲイリー・ピーコック、そしてディジョネットは、しばしば崇高な即興演奏で世界中の観客を魅了した。スタジオ録音は少なく、ライブアルバムは約20枚(執筆時点で)しか残っておらず、ステージ上でのトリオの自然な環境を物語っている。このトリオの活動の真髄を知るには、AAJに掲載されたカール・アッカーマンの記事『キース・ジャレット・トリオ:10の必聴レコーディング』が参考になる。

1942年8月9日、イリノイ州シカゴに生まれた若きディジョネットは、叔父でディスクジョッキーのロイ・ウッドの手引きでジャズの世界に足を踏み入れた。ピアノはディジョネットにとって最初の楽器であり、2003年にAll About Jazz に、アーマッド・ジャマルと彼のドラマー、ヴァーネル・フルニエから初期の影響を受けたと語っている。「アーマッド・ジャマルは常に時代の先を進んでいた」とディジョネットは語っている。

ディジョネットはシカゴのサウスサイドでソロ・ピアノとブルースを演奏していたが、ピアニストよりもドラマーとして優れていると彼を説得したのは、サックス/オルガニストのエディ・ハリスだった。彼自身は両方の楽器を演奏したいと考えていたが、1966年にニューヨークに移住した際、ムーハル・リチャード・エイブラムスの支援を受けて、ピアニスト/オルガニストのビッグ・ジョン・パットンにドラマーとして雇われた。それ以来、ディジョネットは振り返ることはなかった。のちに彼は、ピアノの勉強がオーケストラ風のドラム演奏の鍵だったと述べている。

リーダーとしての野心を抱いたディジョネットは、1968年にマイルストーン・レコードから『ディジョネット・コンプレックス』をリリース。その後50年間で、自身の名義で40枚近くのアルバムをリリースしているが、その中にはマンフレート・アイヒャーのECMレコードから12枚以上のリリースが含まれている。ディジョネットは決して実験精神を失うことがなかった。自身のレーベル、Golden Beams から、ソロ・アルバム『ミュージック・イン・ザ・キー・オブ・OM』(2005年)をリリースした。これは、シンセサイザーのドローン、特製の共鳴ベル、そして東インドのハーモニーを基調とした簡潔な即興演奏を融合させた、心地よいアンビエント・サウンドである。続く『ピース・タイム』(Golden Beams 2007年)で、ディジョネットはグラミー賞最優秀ニューエイジ・アルバム賞を受賞した。

ディジョネットのキャリアを通して、ドラムのセットアップは彼の独特なサウンドの鍵だった。2011年にピアニストのジョージ・コリガンと行ったインタビュー(2013年にAAJ誌に掲載)で、ディジョネットはドラムへのアプローチについて詳しく語っている。「私は自分をドラマーというより、カラリストだと考えている。…ドラムのチューニングは、何を演奏しても、何を叩いてもメロディーになるようにしている。そうすることで、私の考え方が変わり、よりメロディアスに考えることができるのだ。…可能性を制限するのは自身の想像力だけなんだ。」

コリガンはドラマーとしてもディジョネットを誰よりもよく知っていた。7年間、彼のツアーバンドで演奏していたからだ。「ジャックをただのドラマーと呼ぶのは当たらない。彼はドラムを超越した存在だった」と、コリガンはディジョネットの死後、All About Jazz誌に語った。

彼のドラミングは、もちろん数え切れないほどのドラマーに影響を与えたが、それ以上に重要なのは、多くのミュージシャンの音楽に対する考え方を変えたことである。私自身も、彼の音楽に対する考え方が変わった。即興音楽におけるコラボレーターとしてのジャックのアプローチは、ソリストが文字通りどんな方向にも進むことができる環境を作り出し、ジャックは彼が望む方向へ進む手助けをしてくれた。彼は、私たち音楽家が目指すべき理想の姿そのものだ。楽器演奏に優れているだけでなく、全体像を把握し、バンドスタンドを高みへと導くことができるのだ。

バンドスタンドでの寛大さゆえに、ディジョネットという人間がこれほど温かく記憶されているのも当然だ。「ジャックは本当に謙虚で温かい人だった」とコリガンは続けた。「人との繋がりを本当に大切にしていた。ジャックと妻のリディアは、まるで家族の一員のように私を温かく迎え入れてくれた。ジャック・ディジョネットの魔法を身をもって体験できたことに、心から感謝している。彼がいなくなるのは寂しい。ジャックの音楽のおかげで、私たちは皆、より豊かになったといえる」

ディジョネットの例は、この道を志すすべてのジャズ・ミュージシャンにとって教訓となるはずだ。「ミュージシャンにとっての課題は、自分自身の声を貫く勇気を持つことだと思う」とディジョネットはコリガンに語った。「ミュージシャンはもっと勇気を持たなければならない。自分の声は自分のものなのだからね」

Jack DeJohnette: August 9, 1942—October 26, 2025


イアン・パターソン
2006年以来のコントリビュータ。英国ベルファースト在住。
世界を対象にジャズとあらゆるクリエイティヴな音楽のプロモーションに従事、そしてその一端を自分自身のものにすることを念願している。

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