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R.I.P. エルメート・パスコアールヒロ・ホンシュクの楽曲解説No. 330

ヒロ・ホンシュクの楽曲解説 #119 R.I.P. Hermeto Pascoal<Papagaio Alegre>

Hermeto Pascoal(エルメート・パスコアール)が先日とうとう亡くなってしまった。2025年9月13日、89歳だった。筆者は天才という言葉を安易に使うことを好まないが、彼は真の天才だったと思う。エルメートが我が母校、ニューイングランド音楽院から名誉博士号を受けた2017年5月21日に、筆者は幸運にも彼にお会いすることができた。

自由人エルメートは式典途中で姿を消した。さては飽きてどこかに行ってしまったのだろうと思い、当時一緒にボストンで演奏活動をしていた城戸夕果さんと彼女のご主人と一緒に彼を探しに行くことにした。案の定楽屋には戻っておらず、スタッフが搬入する舞台下手袖の空間に椅子を一つ置いて座っており、訪ねると暖かく迎えてくれた。「あなたの音楽にどれだけ影響されたか」と英語で話し始めたが、英語を全く話さないエルメートはジャンボ級ハグで応えてくれた。サインを求めると、紙に五線を引き出し、いきなり曲を書き始めた。その模様は是非こちらの動画をご覧下さい(YouTube →)。この曲は我々の『Love To Brasil Project – EP (2020)』や、夕果さんの新譜、『Brisa (2025)』に収録されている。大変美しい曲なので、機会があったらぜひお聴き下さい。


‘I would like to be a musician like that ‘crazy albino.’
 – Miles Davis

「おれはあのクレイジー・アルビノのようなミュージシャンでありたいね。」
 – マイルス・デイヴィス


エルメートが居合わせたマイルスのインタビューで、「マイルス、死んだ後どのように覚えられていて欲しいですか?」というインタビューアーの問いへの答えだ。マイルスはエルメートのことを「ブラジルのクレイジー・アルビノ」と呼んでいたそうだ。とんでもなく差別的な侮辱言葉だが、エルメートはマイルスにそう呼ばれるのを嬉しく思った、と語っている。エルメートが世界的に有名になったのは、マイルスの『Live-Evil (1970)』に参加し、3曲提供したからだ。<Little Church>、<Nem Um Talvez>、<Selim>だ。<Nem Um Talvez>は本誌No. 226、楽曲解説#15で取り上げたので、ぜひご覧ください。今回はエルメートの名誉博士号受賞にちなんだNPR(米国公共ラジオ)の記事を参考にした。

Hermeto Pascoal(エルメート・パスコアール)

Photo: Facebook
Photo: Facebook

“I don’t premeditate anything. I feel it. When something happens, I don’t say, ‘Now I’m going to do that.’ No. If I want to write the music, I start creating. Every piece of my music, even the one I write on a piece of paper, I consider an improvisation.”
「何かをやろうと思って始めることはない。直感だけだ。何かが起こった時、じゃあこれをやってみよう、などと考えることはない。曲を書く時直感で進める。自分の作曲作品は全てインプロヴィゼーションだよ。」

この直感のみで進めるエルメートの様子は、上記の<Para Vocês Com Grande Carinho>の動画でもよくわかる。彼はどんな楽器でも超絶技巧だ。歌も、音程を外すようなことはない。あのピカソでさえ、10歳までは絵画の古典技法をみっちり勉強した。反対にエルメートは正式な教育を受けていない。それなのに全て完璧にできてしまう、これが彼の真の天才性だ。

エルメートはアルビノ(先天性白皮症)として、電気も通っていないブラジル北東部アラゴアス州の寒村、Olho d’Água das Flores(オーリョ・ジ・アグァ・ダス・フローレス)の農家にて生まれた。本誌No. 313、楽曲解説#102に地図があるのでぜひご覧下さい。Amaro Freitas(アマーロ・フレイタス)の出生地、Recife(ヘシーフェ)から南西に6時間の位置(約400Km)だ(地図上では5ミリ程度)アルビノは染色体の異常から肌が弱く、目も弱いのでエルメートは外に出られない。父親に教わったアコーディオンで遊ぶか、森に入って森の音と遊ぶという幼少期を過ごしたそうだ。7歳の時にフルートも始める。目も不自由なことから耳に神経が集中した。これが彼の音楽を形成したことは云うまでもない。小学校4年で学校を中退した。当時は特殊学級などというものはなく、目玉の位置がずれていることでイジメにあったりしていたからだ。

エルメートは10代前半にSivuca(シヴーカ)に出会う。同じヘシーフェ近辺出身の、同じくアルビノのアコーディオン奏者だ。6歳年上のシヴーカから受けた影響はかなり大きい、とエルメートは語っている。彼らは「O Mundo em Chamas」というアコーディオン・トリオを組んで演奏活動を始めた。ちなみに、シヴーカの様相はエルメートと兄弟かと思うほどよく似ている。目の悪いエルメートが楽屋の大きな鏡に映った自分の姿を見て、「よぉシヴーカ、元気だったか」と話しかけた、という有名な話しもある。何を隠そう、筆者もシヴーカのDVDをエルメートのものと勘違いして購入したことがある。二人は晩年まで共演を続けた。この動画をぜひお楽しみ頂きたい(YouTube →)。

Hermeto e Sivuca
Hermeto e Sivuca

11歳でプロ活動を始め、10代後半で2,200Km南のリオ・デ・ジャネイロに移住して本格的な演奏活動を始める。1965年にエルメートは15歳のAirto Moreira(アイアート・モレイラ、正しい発音はアイーアトゥ)と「Sambrasa Trio」を結成。驚いたことに、このグループは全くのジャズ・トリオだ。エルメートのピアノはすでに超絶技巧の域に達している反面、少年アイアートのガキ大将的ドラム演奏が面白い。ご興味のある方はぜひ『Em Som Maior (1965)』をお聴き下さい。翌年の1966年にエルメートとアイアートは「Trio Novo」を結成。エルメートはピアノではなくフルート、アイアートはドラムではなくパーカッションに持ち替え、カイピラ・ヴィオラ(10弦ギター)奏者を入たトリオだ。これはエルメート音楽の始まりと言えるアルバムだ。ブラジルの音楽がエルメート調に変拍子やノルデスチ(ブラジル北東部)のリディアン♭7のサウンドに料理されている。翌年ギター兼ベース奏者を入れてクァルテットに拡張し、『Quarteto Novo (1967)』を発表。筆者のお気に入りのアルバムだ。エルメートもアイアートも「Sambrasa Trio」での演奏よりかなり成長している。

この『Quarteto Novo』の直後、アイアートはFlora Purim(フローラ・プリム)とアメリカに移住。Joe Zawinul(ジョー・ザヴィヌル)と演奏したことからマイルス・バンドに雇われた。そしてアイアートがエルメートをマイルスに紹介したという経緯だ。

エルメートの音楽

『Calendário do Som (2009)』
『Calendário do Som (2009)』

エルメートは2009年に『Calendário do Som』という曲集を出版した。この「音のカレンダー」とは、世界中の誰もが誕生日に曲があるように、と1996年7月から毎日1曲ずつ書き、閏年を含めた366曲の作品が収められている。彼が書いた作曲作品の総数は、2017年時点ですでに9千曲を超えていた。彼は、自分は音楽が湧き出る泉の媒体だ、と考えているそうだ。筆者は幸運にもJohn Cage(ジョン・ケージ)と共演させて頂いた経験がある。その時の彼の言葉を思い出す。「音楽は我々の周りでいつでもどこでも鳴っている。我々は時折りそれに耳を傾ける。」これは万象の音、例えば動物の鳴き声や物体が発する衝突音などのことを言っている。エルメートはそういう音に常に耳を傾けているということだ。幼少の頃から全ての音を音楽と捉えていたのだろう。演説などの人の喋りの音程をトランスクライヴして、その録音と一緒に演奏する技法は彼が先駆者だ。また、彼が動物の声を曲に取り入れたり、日常器具を楽器としてして使用するパフォーマンスは周知だ。そうそう、2017年にエルメートにお会いした時、本人から『Brincando de Corpo e Alma – Percussão Corporal / Body Percussion (2012)』というDVDを頂いた。これは身体をパーカッションとして多重録音演奏するソロ動画プロダクションだった。音楽的に素晴らしい内容だったが、中には裸で横たわって身体を叩きまくっている曲が数曲あり、その印象があまりにも強すぎて他の素晴らしいトラックを思い出せないほどだったので、また引っ張り出して観なくてはいけない。

筆者のお気に入りのエルメート作品を上げてみる。一番最初に出会ったのは<Santo Antonio>だった。1987年にボストンに移住した直後、クラスメイトのブラジル人に誘われて彼のバンドに入り、最初に覚えたのがこの曲だった。だから最初に手に入れたのは『Zabumbê-bum-á (1978)』だ。もうひとつは<Bebé>だ。当然『A Música Livre de Hermeto Paschoal (1973)』も手に入れた。一日一食の貧乏学生だったから買ったのではない。ダビングだ。当時は前衛ジャズやKarlheinz Stockhausen(カールハインツ・シュトックハウゼン)にも入れ込んでいたので、この2作品はテープが擦り切れるほど聴いた。ちなみに、筆者が20年間アシスタントを務めたGeorge Russell(ジョージ・ラッセル)はシュトックハウゼンと交流があり、影響も受けていた。エルメートもきっとシュトックハウゼンの影響を受けているだろう、とずっと密かに考えている。エルメートが他のアーティストを聴いていたかどうかは定かではないのだが。

次に有名ジャズ・ミュージシャンたちをフィーチャーした『Slaves Mass (1977)』と、大ヒットした『Ao Vivo Montreux Jazz (1979)』を手に入れた。これらはエルメートがジャズファンの間で有名になったアルバムだが、筆者としてはちょっと複雑だった。次に購入した『Cérebro Magnético (1980)』ですっかりエルメートの印象が変わった。以前よりブラジル色が強く出て、筆者が魅了されていたブラジルのタイム感も強調されていた。また、このアルバムのジャケットはエルメート自身の絵で、このアルバムの象徴だそうだ。本人のライナー・ノーツによると、各曲は「脳が受け止めた心の反映のそれぞれの描写」だそうで、これがやけに興味深かった。このアルバムに収録されている<Correu Tanto Que Sumiu>を今回楽曲解説に取り上げようかと迷ったほどだった。

『Eu e Eles (1999)』にはびっくりした。ご機嫌なこのアルバム、「私と彼ら」という題なのだが、全て自分一人で多重録音演奏している。つまり、「彼ら」とは楽器たちのことだったのだ。このアルバムを購入した時にはそんなことは全く知らなかった。どう聴いても素晴らしいブラジルのバンド演奏に聞こえるからだ。このアルバムは今でも愛聴盤だ。

しかし、特筆すべきは去年リリースされた『Pra você, Ilza (2024)』だ。エルメートは46年間連れ添った妻、Ilza da Silva Pascoal(イルザ・ダ・シウヴァ・パスコアル)を2000年にガンで亡くしている。その看病中に書き溜めた曲をアルバムにし、24年後の命日にリリースした。パーカッションは息子のFábio Pascoal(ファビオ・パスコアール)、ベースは1977年からのエルメートの相棒、Itiberê Zwarg(イチベレ・ズヴァルギ)、ドラムはイチベレの息子のAjurinã Zwarg(アジュリナ・ズヴァルギ)、と身内感も強い。エルメートはライナー・ノーツで、自分の音の全てにイルザが存在している、というようなことを書いていた。筆者にとってこのアルバムはエルメートの音楽スタイルの集大成のように聴こえるのだ。

「自分はブラジル音楽のミュージシャンではない。ブラジルに住んでいるミュージシャンで、自分の音楽はグローバルだ。」と主張するエルメートだが、彼の作品は筆者の知る限り故郷ノルデスチのBaião(バイアォン:バイヨンと表記)、Forró(フォホー)、Frevo(フレーヴォ)、それとリオ・デ・ジャネイロから始まってブラジル全土に広まったChoro(ショーロ)のスタイルを使ったものが多い。ブラジルには多岐に亘ったスタイルが他にも色々あるが、エルメートはこの4つのスタイルを頻繁に使用しているところが実に興味深い。どの曲もエルメート印の超絶技巧ラインと、目まぐるしく変わるコード進行と、クラスター・ヴォイシングが他の追従を許さない。エルメートのバンドで演奏するには超人的な技量が必要だ。名前は伏せるが元エルメート・バンドの一員とNYCで半日過ごしたことがある。現在はリオで活躍するショーロ奏者だ。彼はエルメート・バンドでの経験を良く思っていなかった。エルメートのクレイジーな部分に付いていけなかった、という印象だった。合宿のように共同生活し、エルメートの音楽的要求は相当高かったのだと思う。今回取り上げようかと思った『Cérebro Magnético』に収録されている<Correu Tanto Que Sumiu>の後半部分などは、バンド全員人間業とは思えない。あんな要求の高い音楽環境にいたら、普通の人間は折れてしまうかもしれない。イチベレ同様に1997年からエルメート・バンドのピアニスト兼フルーティストを務めるJovino Santos Neto(ジョヴィーノ・サントス・ネト)は、エルメートのことを賢者といたずらっ子の両面を持った人と表現していた。人にイタズラを仕掛けて大騒ぎをするらしい。良い意味でも悪い意味でも純粋だという印象だ。ちなみにジョヴィーノはエルメートが書き散らす譜面の管理もしている。

『Lagoa da Canoa, Município de Arapiraca』

『Lagoa da Canoa, Município de Arapiraca (1984)』
『Lagoa da Canoa, Município de Arapiraca (1984)』

このアルバムは相当後になるまで入手を控えていた。その理由は、当時この録音のドラムに違和感を覚えたからだ。演奏もミックスも『Cérebro Magnético (1980)』で好きだったエルメートのサウンドから離れたフュージョン系のサウンドだった。だが、後年<Ilza na Feijoada>を耳にした時、それがこのアルバムの1トラック目だとすぐに気が付いた。それほどこの曲のインパクトが強かったということだ。その頃は少しだけポルトガル語に慣れ始めていたので、この「フェイジョアーダの中のイルザ(エルメートの愛妻)」のフェイジョアーダが、リオ・デ・ジャネイロに行くと日曜に食べさせてもらえる大好物の黒豆シチューと気が付き、初めてエルメートの冗談好きを知った。アルバムを聴き直してまず最初に何度も聴いてしまったのは、3トラック目の<Tiruliruli>だった。このテーマは、サッカーの試合中継で解説者がゴールキーパーに「行け行け!」と叫んだテープを繰り返したものらしい。これを聴いてシュトックハウゼンの『Hymnen(賛歌)第3地域 (1966-67)』を即座に思い出した。シュトックハウゼンが使用したテープはニュース報道で、頭を割られて血だらけになっている反戦デモ学生の描写部分だった。例のアメリカ60年代後半の象徴だった。シュトックハウゼンは左右のチャンネルを少しずつずらして行くという凝った手法を施していたと記憶する。ぜひお聞かせしたいものだとネット検索したが、どうやらニュースの著作権に引っ掛かっているらしい。エルメートが使った題材はそんな血生臭いものではなが、シュトックハウゼンを思い出して聞き入ってしまった。その3トラック目に続いた4トラック目が、今回楽曲解説に取り上げた<Papagaio Alegre>だ。

このアルバムのタイトル、「Lagoa da Canoa, Município de Arapiraca」とは、エルメートの出生地である「アラピラカ市ラゴア・ダ・カノア」だが、このアルバムは出生地の思い出を描いたわけではない。例えば2トラック目の<Santa Catarina>はエルメートが住んだことのある地名で、3,000Kmも南の街だ。7トラック目の<Spock na Escada(階段のスポック)>のスポックは、どうやらスター・トレックのキャラクターのスポックらしい。ちなみに最後の2曲が最高だ。10トラック目の<Frevo em Maceió>はご機嫌なフュージョンがかったフレーヴォ、最終トラックの<Desencontro Certo(確かなすれ違い)>はトラディショナルなMarcha(行進曲)で、このアルバムの締めくくりがこれか?と吹き出してしまう。ちなみにこのトラックでチューバを演奏しているのはベースのイチベレだ。他のメンバーも自分の楽器ではないフルートやピッコロでソロを取らされている。なんて要求の高いバンドなんだろう。

<Papagaio Alegre>

この曲のヘッド(テーマ)を聴いた時、どこかで聴いたことがある、と思った。後々になって分かったのだが、どうやら1992年に放映が始まったアニメの「X-Men」のテーマ・ソングが盗作したらしい。このテーマ・ソングは他2件でも著作権侵害で訴えられたらしいが、著作権を気にしないエルメートは訴えていない。

このタイトルの意味は「愉快なオウム」で、実によくその様子が表れている。冒頭いきなり子供達の声がリズミカルに編集されて、それが第一モチーフとなっている。合唱なのでオウムの声ではないと思う。今回この曲を楽曲解説に選んだ理由は、エルメートのノルデスチ旋律、単純に聞こえる複雑なオーケストレーション、ご機嫌なBaião(バイアォン:バイヨンと表記)のグルーヴ、編集した子供の声の使用など、エルメート音楽を説明しやすい題材だからだ。筆者に取っての魅力は、なんと言ってもエルメートの素晴らしいフルート・ソロだ。

前述したように、ノルデスチ、特にBaiãoの特徴はリディアン♭7音階だ。ちなみに、同じ音階をミクソリディアン#11と呼ぶ場合があるが、音階が同じでも機能は全く違う。ミクソリディアン#11はSubV(代理ドミナント)に使用され、ハーモニー自体は半音下がって解決する。ドミナントと同じトライトーンを共有するので、「解決」という機能を持っているのだ。反対にリディアン♭7は民族音楽でよく聞かれるリディアン音階の7度が半音下がったものなので解決機能はない。ピアノなどの音程が固定された楽器以外で演奏する時、我々は常に微妙な音程調整をする。ここで詳しい説明は避けるが、Baiãoの音階はリディアン♭7で、解決機能ではなく、民族音楽の響がするように演奏される、ということだ。

まず、この曲はGリディアン♭7の曲だ。スケールをご覧頂きたい。

Gリディアン♭7スケール
Gリディアン♭7スケール

次に第一テーマとなるベースラインをご覧いただきたい。Rとはルート(主音)だ。

第一テーマ:ベースライン
第一テーマ:ベースライン

次に第二テーマとなるヘッドの【A】をご覧頂きたい。まず、メロディーは1音たりともリディアン♭7スケールの外に出ていない。そしてコードはG7一発だ。だが、エルメートの魔法でしっかりコール・アンド・レスポンスのハーモニーの動きが出ている。1小節目の終わりがD音、それに応えての3小節目の終わりがB音、1小節目の繰り返しである5小節目最後が再びD音、それの応えが、なんと、ガンと下がったテンション13th音であるE音だ。聴いていると、とても一発コードとは思えないほど動きがある。エルメート恐るべし。

第二テーマ:ヘッド【A】
第二テーマ:ヘッド【A】

ブリッジ【B】に入ると、メロディーはGリディアン♭7のままだが、調整外の増3度コードが上がったり下がったり始める。カオスの始まりだ。

ブリッジ【B】
ブリッジ【B】

続く【C】はカオスが進行し、それぞれの楽器が細かく打楽器的なアルペジオを始める。一見調性が見えないが、Cリディアン♭7に移調されている。問題は、後半に出てくる赤文字で記された2音だ。これはリディアン♭7スケールとオルタード・ミクソリディアンのスケールを抱き合わせて新しいスケールを生み出しているということだ。エルメート恐るべし。

ブリッジ【C】
ブリッジ【C】

続く【D】ご覧頂きたい。今度は後半でAミクソリディアン♭7に転調し、またオルタード・テンションが同じように挿入されている。エルメートは直感で進めると言い、それはおそらく本当だろうが、彼の頭の中ではこのような理路整然とした思考の発展がすごい速さで進んでいるのだと思う。まさに天才だ。

展開部【D】
展開部【D】

どんどん怪しいサウンドに変化して、この【D】を抜けるとヘッドの【A】に戻って、「あゝよかった」とホッとする仕組みだ。言葉を失うほど凄すぎる。お楽しみ頂きたい。

ヒロ ホンシュク

本宿宏明 Hiroaki Honshuku 東京生まれ、鎌倉育ち。米ボストン在住。日大芸術学部フルート科を卒業。在学中、作曲法も修学。1987年1月ジャズを学ぶためバークリー音大入学、同年9月ニューイングランド音楽学院大学院ジャズ作曲科入学、演奏はデイヴ・ホランドに師事。1991年両校をsumma cum laude等3つの最優秀賞を獲得し同時に卒業。ニューイングランド音楽学院では作曲家ジョージ・ラッセルのアシスタントを務め、後に彼の「リヴィング・タイム・オーケストラ」の正式メンバーに招聘される。NYCを拠点に活動するブラジリアン・ジャズ・バンド「ハシャ・フォーラ」リーダー。『ハシャ・ス・マイルス』や『ハッピー・ファイヤー』などのアルバムが好評。ボストンではブラジル音楽で著名なフルート奏者、城戸夕果と双頭で『Love To Brasil Project』を率い活動中。 [ホームページ:RachaFora.com | HiroHonshuku.com] [ ヒロ・ホンシュク Facebook] [ ヒロ・ホンシュク Twitter] [ ヒロ・ホンシュク Instagram] [ ハシャ・フォーラ Facebook] [Love To Brasil Project Facebook]

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