ある音楽プロデューサーの軌跡 #46「録音プロデューサー菅野沖彦さんの思い出」
photo: courtesy of Stereo Sound
text by Kenny Inaoka 稲岡邦彌
菅野沖彦さんの訃報が届いた。享年86。長らく病床にあることは伺っていた。数ヶ月前、菅野さんが主宰するオーディオ・ラボのOBでトリオレコードの同僚でもあった佐々木吉彦さんと、森山浩志(森山博)さんの死について電話で語り合ったばかりだった。森山さんは菅野さんがジャズ録音をするときのディレクターでオーディオ・ラボとトリオレーベルに数々の名作を遺している。菅野さんは名コンビだった森山さんの死から半年ばかりおいてあとを追うように逝ってしまったのだ。ひと月ほど前、沖彦さんの実弟のジャズ・ピアニスト菅野邦彦さんが、沖彦さんの病床にほど近いサロンでソロ・ピアノの録音をすると聞いた。沖彦さんが病床に臥せっていたのはふたりが育った荻窪の実家で、幼少の頃はともかく成人してからのふたりはいわく言い難い関係にあったらしい。ピアニストを目指していた沖彦さんが邦彦さんのピアノを聴いて断念したというのはよく知られているが、ふたりの微妙な関係はそれが原因ではなく、沖彦さんが邦彦さん以上に強いアーティストの資質を持っていたからだと言われている。それでも邦彦さんは沖彦さんの求めに応じてオーディオ・ラボのために素晴らしい演奏を残している。沖彦さんの死と前後して、沖彦さんに呼び寄せられるように沖彦さんの耳元で邦彦さんがレコーディングに取り組んでいたというのはやはり兄弟の縁(えにし)だろうか。
幸いにも僕はこの天才肌の兄弟と何度も近しく仕事をする機会に恵まれた。邦彦さんとの仕事については、本誌「ある音楽プロデューサーの軌跡 #45:NADJAレーベル」のなかで触れる機会があった。直近では、2012年10月にアミーチ・サロンでのソロとデュオのシークレット・ギグに携わり、久しぶりに旧交を温めることができた。
沖彦さんの仕事に最初に触れたのは、トリオレコードに入社して以来である。テディ・ウィルソン(p)と北村英治(cl) が組んだ『テディ・ミーツ・エイジ』と本田竹彦(p)トリオによる『ジス・イズ・ホンダ』が立て続けにジャズ・ディスク大賞の「国内最優秀録音賞」を獲得、社内が沸いていた。当時はいわゆる「ステレオ・ブーム」の名残りが続いており、「最優秀録音賞」を獲ったレコードはロングベストセラーとなり営業成績に大きく貢献したのだ。海外渉外部から制作部へ移動した僕はA&Rとしてトリオレーベル向けの菅野・森山コンビのジャズ制作に携わることになる。1973年のことだった。『菅野レコーディング・バイブル』(ステレオサウンド 2007)を著した嶋護氏によると菅野沖彦さんの録音歴は大きく3期に別れ、1969年から1981年までを第二期、最重要期と見なしているが僕が仕事をさせていただいた時期は幸いにもまさにピーク時にあたっていたのだ。テディ・ウィルソン+北村英治、本田竹広トリオに続いて、セシル・テイラー・ソロで3度目の「最優秀賞録音賞」を受賞(1973)。専属は本田竹広から西直樹(p) に変わったが北村英治もほぼ専属状態で、3枚組の『Song Folio』などを通じてその絶頂期の演奏が捉えられた。
そして、この第二期の最大の仕事がLP10枚組ボックスセットとして結実した『サンベア・コンサート』(ECM 1978) だった。ECMのオーナー/プロデューサー、マンフレート・アイヒャーを説得してキース・ジャレットの初めてのソロ・ツアーのライヴ録音の同意を取り付けたあと、僕は勇んで荻窪の菅野沖彦邸を訪ねた。そこで僕は生涯忘れることのできない体験をする。菅野さんのリスニング・ルームに突然、北村英治とテディ・ウィルソンのバンドが忽然と現れたのだ。僕とまったく同じ体験をした嶋護氏は上掲の著書の中で次のように記している。「さらに、その直後に始まったカルテットのサウンドも、私を驚かせ続けた。立体的な楽器の音像イメージ、丸みを帯びた音色、ベースの重量感、ピアノのハーモニクス、ギターとピアノが空間で作り出したハーモニー、それがすべて目の前にあった。要するに、四人がそこにいたのである」。その後、僕は音の再現芸術において菅野邸での体験に勝る体験をしたことはない。
『サンベア・コンサート』の制作過程については拙著『ECMの真実』(河出書房新社 2009)に詳述した。当時のキースのソロはまったくのインプロヴィゼーションだったから、どこでどういう演奏が弾き出されるか予測がつかない。後悔しないように2週間を超える日本縦断コンサート・ツアーの全演奏を収録することになった。博多から札幌まで全10回のコンサートを菅野さんが収録した。キース・ジャレットはファミリーで来日し、マンフレート・アイヒャーも全行程に同行し万全を期した。菅野さん愛用のアンペックスの機材をスタッフが搬送した。結果として5都市の演奏がLP10枚に収録され、『サンベア・コンサート』と名付けられリリースされたのだが、この“サンベア”とうタイトルこそ菅野さんがゴッドファザーなのだ。札幌のホテルのカフェでいつものようにキースが札幌の情報を集め出した。菅野さんが北海道には“ヒグマ”という巨大なクマがいると話し出した。ヒグマの説明に困った菅野さんが苦し紛れに、ヒ・グマ=日・熊、サン・ベアというんだと説明した。皆で大笑いし、“サンベア”という単語がしっかりキースやマンフレートの頭の中に刻み込まれたというわけだ。膨大な仕事量とサンベアが相まってこの作品は菅野さんの長いキャリアの中でも最高のモニュメントになったことは想像に難くない。
記者発表 (1976.11.02)
右から:菅野沖彦 マンフレート・アイヒャー キース・ジャレット 左端:筆者
札幌コンサート記念撮影 (1976.11.18)
後列:菅野沖彦 マンフレート・アイヒャー キース・ジャレット右端:筆者
前列:ゲイブリエル・ジャレット 中央:原田和男
ジャズ録音と並行して菅野さんはトリオレーベルに多くのクラシック録音も残している。そのなかでももっとも作品数の多いのが異才ピアニスト宮沢明子だが、彼女は『菅野レコーディング・バイブル』に寄せた「発刊に寄せて」の中で菅野さんについて次のように記している。「初対面の菅野氏は、頭の切れる、しかしおよそ日本的でない実にスケールの大きい人物という印象だった」。「ピアノは音を大切にする才能豊かなピアニストと一緒に幸せに息をするのならマイクロフォンは<音の神様>の手でいつも幸せな表情そしていた。そう、私は菅野沖彦氏を今でも<音の神様>と呼んでいる」。
宮沢明子は菅野沖彦さんを<音の神様>と呼んだが、僕は<音の匠>と名付けた。2014年、引退してすでに久しいかつての名ディレクター森山浩志さんを引っ張り出し、菅野=森山コンビでトリオレーベルに遺した数多くの名録音の中から15タイトルを選び出し<音の匠 菅野沖彦 昭和のジャズ「モダンスイング・シリーズ」と銘打ってユニバーサル・ミュージックから蘇らせた。結果的に、これが森山さんの最後の仕事となった。本来はアナログレコードで復活すべきだったが、トリオレーベルの音源継承者がマスターテープをすべて廃棄したためこれは成らなかった。
僕がコレクションしていたオーディオ・ラボのオリジナル・レコード数十枚は山口県防府市のオーディオ・ショップ「サウンドテック」に預けてある。Chap Chapレコードのオーナー・プロデューサー末冨健夫が、「サウンドテック」のアナログ・オーディオの拡販に協力することになったと聞いたのでデモ用に貸し出したのだ。とくにアナログ・ハイエンドの試聴に菅野沖彦さんのオーディオ・ラボに勝るレコードはない。菅野邦彦さんのソロ・アルバム『ポートレイト』を試聴した末冨から次のメールが届いた。「きょう、常連の裁判官さんが来られ、私が勧めたESOTERICがリリースしたSACDのVerveのBOXを持って来られて、二人で聴いていました。続いて、稲岡さんが送って来られたAudio LabのLPを4枚かけました。菅野邦彦さんのソロLPをかけて、二人でのけぞりました。まるで、本物のピアノが目の前で鳴ってる感じでした。我が家では、カミさんがグランドピアノを毎日弾きまくってるので、本物のピアノの音はよく分かってるつもりでしたが、これには驚きました。裁判官さんは、レーザーレコードクリーナーを持っておられるので洗ってもらえます。来週ピカピカになったLPを、ダイアトーンの100万円の新作スピーカーのイベントがあるので、そこでかけてもらおうと思います」。
菅野沖彦さんの趣味はパイプとクルマ(愛車はポルシェ)だった。パイプは北欧の作家を訪ねて秘蔵のパイプを手に入れるほどの入れ込みようだった。自宅で会話を交わす時はパイプを手にしていることが多かったが、愛用のパイプのいくつかはオーディオ・ラボの表紙を飾っている。オーディオ・ラボの極め付けの音とパイプに関心のあるファンは防府市の「サウンドテック」に出掛けることをお勧めする。どちらも心ゆくまで堪能することができるだろう。