ジャズ・ア・ラ・モード #70. ジョセフィン・ベイカーの『バナナ・スカート』
70. Josephine Baker in the Banana skirt
text and illustration (Josephine Baker)by Yoko Takemura 竹村洋子
Photos : In Vogue: Georgiana Howell, Pinterest, Getty images, Pinterest より引用
JazzTokyo創刊20周年。『ファッションと音楽は、おそらく“ジャズエイジ”と呼ばれた1920年代のチャールストンとフラッパーから密接な関係にあった。音楽もファッションも自己表現、時代の反映。ジャズミュージシャンとファッションをめぐるエッセイ。』として始めたこのコラムも70本目になった。1920年代にファッションと音楽が密接な関係にあった頃の原点に戻り、最初の黒人ビッグ・スターとも言える『黒いヴィーナス』の異名をとるパフォーマー、ジョセフィン・ベイカーについて見直してみる。
今回、このテーマを取り上げたのには幾つかの特別な理由がある。
このコラムで、今年に入ってから扇子の話を調べているうちに、この人の存在無くしてファッションと音楽の関わりについて、またジャズについても語れないと思ったこと。
昨年2023年6月に日本で上演された、フランスの世界的ファッション・デザイナー、ジャン・ポール・ゴルティエの生涯を描いたミュージカル『ファッション・フリーク・ショウ』の中で、ゴルティエもジョセフィン・ベイカーに大きなインスピレーションを受けていたことがステージ上で表現されており、ベイカーのデビューからほぼ100年経った今、改めて見直すきっかけになったこと。
さらに、昨年もうひとつ大きな出来事があった。ジョセフィン・ベイカーがフランス最高の栄誉のひとつであるパリのパンテオン(偉人達を祀る霊廟)に祀られた。これは日本ではNHKのBSワールドニュースでしか報道されなかったが、素晴らしい式典だったのを偶然観て感動した。マクロン大統領は、ベイカーの最も有名な曲<J’ai deux amours, mon pays et Paris(私には2つの愛がある、祖国とパリ)>が演奏された後、「彼女は黒人のために立ち上がった黒人だが、何よりも人類を守った女性だった。」と演説で述べた。
ベイカーはパリのカルティエラタンにあるランドマーク、パンテオン入りする栄誉を得た初の黒人女性であり、女性としては6人目だった。
ジョセフィン・ベイカー(Josephine Baker:1906~1975)の出生については正確なことがわかっていない。いろんな説があるようだが、実父はドイツ人の金持ちで、母親はアフリカ系アメリカ人の洗濯婦だったキャリー・マクドナルドの間に私生児としてミズーリ州セントルイスで生まれた。母親はジョセフィンを産んだ後、黒人との間に子供をもうけ、兄弟の中でただひとりセピア色の肌の色のジョセフィンに辛く当たっていたようだ。
育った環境は劣悪だったようで、黒人ゲットーの掘立て小屋で暮らしていたというほど貧しかった。8歳の時に白人の家に奉公に出され、そこの女主人に「洗濯物に石鹸を使いすぎる」と手に熱湯をかけられる。
13歳で母親により年配の男性と無理やり結婚させられるが、夫の暴力で数週間で結婚生活は破綻し家出する。1921年に鉄道車掌の黒人、ウィリー・ベイカーと結婚し、以来この姓を使用している。
16歳の時にフィラデルフィアでダンサーとしてデビュー。その後、ニューヨークに行き、ヴォードヴィル・ショーで働く。1923年にミュージカル『シャッフル・アロング(Shuffle Along)』でコーラス・ガールの役で出演。『シャッフル・アロング』は 1921年にニューヨーク、ブロードウェイで初上演された世界初のアフリカ系アメリカ人だけによって作られたミュージカル作品。ユービー・ブレイク作曲、 ノーブル・シズル作詞、コメディ・デュオのフルーノイ・ミラーとオーブリー・ライルズの脚本による。モダンでエッジの効いたジャズ風の新しい音楽スタイルにより、リピーターを獲得し大成功を収めた。ジョセフィン・ベイカーの他、アデレード・ホール、フローレンス・ミルズ、フレディ・ワシントン、ポール・ロブソンら多くの黒人パフォーマー達のキャリアをスタートさせたことでも知られる。
その後、黒人レビュー・グループ『チョコレート・ダンディーズ(The Chocolate Dnadies)』のメンバーになる。ニューヨークの「プランテーション・クラブ」に出演後、1925年10月に『レビュー・ネグロ(黒人レビュー)』に加わりパリに行く事になる。これは黒人の男女だけによる本格的なレビューで、同行のミュージシャンにはシドニー・べシェもいた。
1925年9月22日、レビュー・ネグロ一行は8日間の大西洋航海を経てシェルブール港に着く。フランスは人種に対してアメリカと比べると驚くほど寛容な国だった。パリに向かう列車の中、ベイカーは食堂車で白人と黒人が同じテーブルについて食事をしているのに驚き、これがフランスを愛するようになった始まりだった。
当時のパリは第一次世界大戦が終わり、『狂乱の1920年代:レザネ・フォール(仏:Les Années Folles)』、アメリカは、『ローリング`20’s』と呼ばれたクラシックなライフスタイルからモダンなライフ・スタイルへ移行していく華やかな時代だったが、禁酒法のあるアメリカより、パリの方がずっと自由でオープンだった。フェミニズムが台頭した時代でもあった。女性たちは、小説『ギャルソンヌ』に登場する主人公のショートヘア、ココ・シャネルがデザインした新しいファッションで闊歩した。女性のウエストが解放され、ローウエストのドレスが流行し、これは後にベイカーの影響により流行したチャールストンのような激しいダンスを踊るのに打って付けのスタイルでもあった。
新しい美術様式として広まりつつあった、線や記号、幾何学的な模様やパターンで構成されたデザインが特徴の『アールデコ様式』はファッション、アート、建築、あらゆるところに影響を及ぼしていた。それはベイカーの独特のヘアスタイルやコスチュームにも一目見てわかるほど、密接に結びついている。
*1920~1930年代の女性のファッションとデザイン
そして、アールデコ様式のデザインを得意とするグラフィック・デザイナー、ポール・コラン(Paul Colin:1892~1985)によるベイカーが出演するシャンゼリゼ劇場公演の『ルヴュ・ネーグル(レビュー・ネグロのフランス語読み)』はパリの人々の注目を集めた。本物の黒人レビューを知らないパリの人々は大きな期待を持って劇場に行くことになる。
ベイカーは1925年10月2日に「シャンゼリゼ劇場」に出演している。アメリカから来た黒人レビューを観ようと人々は集まり、劇場は連日超満員。当初2週間の予定だった公演は1ヶ月以上の延長された。『チョコレート色の不良少女』『動物的痙攣、幼い喜び、血からくる哀しみを持った黒人の魂』『弾けるような黒い肉体』など、絶賛され大成功を収める。そして、ベイカーは『黒いヴィーナス』と呼ばれるようになる。
実はこの時、当初の『ルヴュ・ネーグル』にはなかった『ダンス・ソヴァージュ(Dance Sovage: 野蛮な踊り)』というシーンが最後に追加されている。このことについて、『黒いヴィーナス、ジョセフィン・ベイカー』の著者、猪俣良樹氏は次のように書いている。
「リハーサル中に何かが足りないと感じたシャンゼリゼ劇場の支配人は「ムーラン・ルージュ」の支配人に助言を求めた。彼は “エロチシズムが足りない。” と言った。フランス人が “エロチシズム”という言葉を使う時、それはセクシーさのことで、セクシーさが足りないということは、大人の鑑賞に堪えないということを意味する。そこで急遽付け加えられたのが『ダンス・ソヴァージュ』という演目だった。フランス人が観たいのは、洗練されたアメリカの黒人ではなく野生に満ちたアフリカ人だった。」と。
黒人が野蛮人ではないことをアピールしたいのに、また野蛮人にされることにベイカーは大きく抵抗し、彼女はこの時「アメリカに帰る!」と泣き叫んだようだ。しかし、泣きながらも彼女が最終的に説得に応じたのは、彼女のいる所はアメリカではなく、すべての基準を『美』に置くフランスであるということだった。一旦やると決めたベイカーは今度はプロ意識に徹してほとんど全裸でひたすら腰を振ることに没頭した。
ベイカーはほとんど裸同然の姿でチャールストンを踊りまくり、瞬く間にパリの観客たちを虜にしてしまった。好評と同時に、グロテスク、悪魔的、動物的エロス等、多くの悪評もあり、同じダンサー仲間からは「自尊心が無い。」等と馬鹿にされたりしたが、ベイカーは踊り続けた。
パリでは、多くの文化人たちも様々な記事を読み、リハーサルにも詰めかけた。画家のキース・ヴァン・ドンゲンやフェルナンド・レジェ(アメリカの黒人レビューを呼ぶように劇場支配人に勧めたのがレジェだったらしい)などの文化人たちのベイカーに対する熱意が報じられ、パリの人たちのエキゾティックなベイカーへの好奇心はますます高まっていった。
1920年代のパリは『ジョセフィン・ベイカー、ジャズ、チャールストン、アールデコ』と表現しても過言ではない。
レビュー・ニグロはその後、ブリュッセル、ベルリンなどで講演を行い成功を収め、パリに戻ったベイカーはフォリー・ベルジェール劇場に出演することになる。1926年のことである。そこで、ベイカーはあの有名な『バナナ・スカート』を着て踊り、大スターになる。
筆者が最初にジョセフィン・ベイカーの名前を知ったのは、小学校1~2年生の頃、バラの栽培を趣味としていた父からだった。深紅の薔薇が庭に咲いており、父に名前を聞くと、「ジョゼフィン・ベイカーという黒人の歌手の名前なんだ。」と教わった。後にそれは『ジョセフィン・ブルース』の間違いだったことが分かったが、ジョセフィン・ベイカーに捧げられた薔薇であることは確かだった。それ以後ジョセフィン・ベイカーが、どんな人なのかずっと気になり、初めてその人を知ったのはもっと後なってからだった。それは腰にバナナをつけたベイカーの姿だった。
*『バナナ・スカート』
「バナナ・スカート』。バナナ・ベルトという言われ方もしている。ベイカーのバナナ・スカート姿を何かの雑誌で最初に見た時、見てはいけないものを見てしまった気がしたのを鮮明に覚えている。当時黒人といえば、“ちびくろサンボ”くらいしか知らなかった小学校低学年の頃だったと記憶している。筆者にとっては、良くも悪くも、非常にショッキングな姿だった。このコスチュームを考案したのは誰だっただろう?まるでジャングルから出てきた猿みたい、というのが最初の印象。それを着て踊っているのが若い黒人女性。何という屈辱的な格好だろうと今に至るまで思い続けている。エキゾティックな黒人女性が16本のバナナ(その後、バナナの数は増えていくようだが)を腰蓑のようにつけて踊る姿は、パリの人たちに熱狂的に受け入れられ、以後、ジョセフィン・ベイカーといえば、バナナ・スカートというくらい有名になった。非常にスキャンダラスなもので、約100年後の現在でさえそうだ。
ちなみに、フランスではウエスト・ポーチのことをバナナともいう。
冒頭に述べたファッション・デザイナーのゴルティエも影響を受けており、ベイカーへのオマージュとして、同じようなバナナ・スカートをレディス、メンズ両方、発表していた。
このコスチュームの考案者がデザイナーかどうかわからないが、人として最低な道徳感を持つと同時に、稀にみるクリエイティブな精神の持ち主だと今や尊敬の念さえ感じる。有機物の南国のフルーツを並べ、この曲線を並べたというのが当時流行していたアールデコ様式のデザインの幾何学的な要素としても表現できているようにも思える。16本のバランスも抜群に良い。そして踊るとスイングする。
バナナ=男性器と考えるのも不思議なことではない。彼女の持ち歌の一つに<Yes, I Have No Bananas>“私はバナナが大好き、どうしてって骨がないもの”としっかり裏の意味を踏んでいる。(この歌は1922年に作られたコミックソングで、アメリカでは1960年代頃までよく歌われていたようだ。映画『麗しのサブリナ』の中で、主役演ずるオードリー・ヘップバーンも口ずさんでいる。読者の中でご存じの方も多いだろう。)
実は、このコスチュームは誰が考案したのか今だにわかっておらず、色々な説があるようだ。ベイカー自身が、初めに考えついたのは詩人で小説家、劇作家でもあるジャン・コクトーで「君がバナナのスカートを履けばもっとドレッシーになると思うよ。」と囁いたという。真偽の程は確かではないが、うなずける話ではある。
以後、バナナはベイカーの象徴となった。ベイカーの爆発的人気にあやかり、人形や服、香水なども売り出されるようになった。
ジョセフィン・ベイカーと『ルヴュ・ネーグル』によって、パリで爆発的人気になった「ジャズ」は第一次世界大戦後に花開いた前衛芸術、シュールリアリズム、ダダイズム、キュビズム、ピカソに絶賛されたアフリカン・アート等と同時に、人々が新しいアート・フォームに注目するようになった起爆剤であった点では極めて重要であり、同等に評価されるべきものであると思う。
ベイカーは、その後2年間に亘り、南米やヨーロッパへのツアーを行った後、パリへ戻り、当時フォリー・ベルジェールより少し保守的といわれたカジノ・ド・パリに出演するようになる。ここではもうバナナ・スカートはない。華やかなコスチュームを纏ったベイカーになっている。
彼女は歌手としても実力を発揮し、デビューを果たす。<二つの愛(J’ai deux amours)> <ハイチ(Haiti)><可愛いベイビー(Pretty Little Baby)>などをヒットさせ、映画にも出演する。特に1934年の『裸の女王(Zouzou)』ではジャン・ギャバンと共演。1935年の『タムタム姫(Princesse Tam ~Tam : 現在“プリンセス・タムタム”はフランスのランジェリー・ブランドの名前にもなり、ユニクロが提携している)』はヒット作になった。
ジョセフィン・ベイカーは、同時代のアーティストたち、ラングストン・ヒューズやアーネスト・ヘミングウェイなどにとっては美の女神だったが、大衆にとってはセックスシンボルになってしまっていた。あまりにエロティックなので、ヨーロッパ各地での劇場出演も禁止されたりした。それほどスーパー・センセーショナルな存在だった。
1935年にアメリカに戻るが、皮肉なことに、『フランスで成功したアメリカの黒人』ということで祖国アメリカでは逆人種差別にさらされることになる。1936年に、白人ダンサーが中心のミュージカル・レビュー『ジークフェルド・フォリーズ』ではメンバーから外されたショックや、あまり幸せではなかった私生活にも嫌気がさし、再びフランスへ渡り1937年にフランスの市民権を取得した。
1939年に始まった第2次世界大戦中、レジスタンス運動にも関わり、飛行機の操縦資格も取得し、自由フランス軍の中尉になり、その功績でレジオンドヌール勲章をもらっている。
戦後もベイカーはフランスにとどまり、さまざまな人種の13人の孤児たちを養子に迎え、フランス南西部の城で生活を共にし、自ら『虹の部族』と呼んだ。しかし、これにも様々な説がある。ベイカーは1956年に来日し、1ヶ月間にほとんど毎日のように長崎から佐世保、福岡、広島、京都、東京などの都市を精力的に廻り公演を行った。広島の原爆死没者慰霊碑に参拝もしている。大磯で澤田美喜が創設、運営していた“エリザベス・サンダース・ホーム”を訪ね、沢田からも2人の日本人孤児がベイカーに譲り受けられている。しかし、『虹の部族』も『人類愛動物園』という人もおり、経済的にもかなり厳しい状況であったようだ。日本人孤児2人についても、韓国人だと言ったり、何がどこまで本当なのか怪しいはっきりしないことが多い。
ベイカーは1958年に引退するが、1961年にカムバック、以後公民権運動に関わりながらも、自身の公演を行なっていく。1975年ベイカーの芸能生活50周年を祝うショウの直後に脳溢血で逝去。享年68。
ジョセフィン・ベイカーについての本は何冊も出版されている。評伝も3冊あるが、食い違う箇所も真実が不明な点も多々
ある。第二次世界大戦中は実はスパイだった、とも言われている。しかし、彼女に関する膨大な資料の一部でも読むと、たとえ食い違う点があったとしても、ベイカーはただのエキゾティックな黒人ダンサーだったのではなく、才能に溢れた、非常に気丈で聡明な女性であったと痛感する。
晩年のベイカーのパフォーマンスも素晴らしいが、何といっても、1920年代のフォリー・ベルジェールでの計算され尽くした『バナナ・スカート』姿で、あのアール・デコ・スタイルのヘア・スタイルで、寄り目でチャールストンを踊る超ユニークなベイカーの方がずっとインパクトがあり魅力的だ。
『黒いビーナス』はただ、のエキゾチックな黒人ダンサーだったのではない。二つの大戦の狭間、1920~30年代、アール・デコ全盛期に多くの著名人を巻き込み、そのコネクションをうまく利用し、長い足でその時代を一気に駆け抜けていった極めて稀なパフォーマーだった。
You-tubeリンク1本目は1925年、ジョセフィン・ベイカーが踊るチャールストン。
2本目は1927年パリ、フォリー・ベルジェール劇場でバナナ・スカートを履いて踊るジョセフィン・ベイカー。
3本目はジャン・ポール・ゴルチエ。ファッション・フリーク・ショウのトレイラー。始まりから20秒辺り,1分18秒辺り、ラストにバナナ・スカートのモデルたちが登場している。
4本目は、パリのパンテオンに殿堂入りの式典の様子。
Josephine Baker-Dancing Up A Storm in ‘The Charleston’:1926-27
Josephine Baker’s Banana Dance:1927
Fashion Freak Show: Inside Jean Paul Gaultier’s Over-the-Top Paris Fashion Week Event:2023
Josephine Baker enters France’s Pantheon – Macron celebrates an ‘exceptional figure’ • FRANCE 24(ジョセフィン・ベーカーがフランスのパンテオンに入場 – マクロン大統領が「特別な人物」を称賛 ) 2023
*参考資料
・『始原のジャズ』:アンドレ・シェフネル、昼間賢訳、みすず書房、2012年
・『黒いヴィーナス、ジョセフィン・ベイカー、狂乱の1920年代パリ』:猪俣良樹、青土社2006年
・『孤児たちの城、ジョセフィン・ベイカーと囚われた13人』:高山文彦、新潮社、2008年
・『歌姫あるいは闘士 ジョセフィン・ベイカー』:荒このみ、講談社、2007年
・『Jazz A History of Music』@Geoffrey C. Ward & Ken Burns: The Jazz Film Project Inc, 2000年