#97 追悼 ジェレミー・スタイグ
はるか1$=360円の時代...。
1969年6月、ぼくは、初めて「アメリカ合衆国」に降り立つ。フォト・ジャーナリストとして、『アサヒグラフ』の仕事をかかえて、である。
羽田からフリスコに着いた夜、ベイエリアで最も知られた「ジャズ・ワークショップ」で、ビル・エヴァンスの生と初めて出会う。客は、最後まで、ぼくひとりだけ。メンバーは、エディ・ゴメス (b)、マーティ・モレル (ds)。巨匠エヴァンスは、ヘロヘロ。ピアノからトイレまで、数、十秒の距離をまるでお能のすり足のように数分かけて向かうほど。
例の猫背で、さらにリリカルで繊細な音を探して行くうちに、ほとんどピアノにぶつかりそうになる。
—エヴァンスさん、どなたか、尊敬しているピアニストは、いますか?
気の遠くなるほど、長い沈黙の後...。
「マウリッツォ・ポリーニだけかな」
そうか。ドビッシーを意識しているのだ。これが当時の、ビル・エヴァンスの真実である。スコット・ラファロ亡きあとの、エヴァンスの心の深い深い空隙は察して余りある。ゴメスの気の使いようは、こちらがピリピリするほどのものがある。しょせんは、ラファロの代役を務めるタマではない。
それから、ちょうど1週間後、このトリオと再会する。ロード・アイランド州のニューポート・ジャズ祭。そう、バート・スターン『真夏の夜のジャズ』の舞台である。会場は、白人、それもヒッピー・ジェネレーションで、立錐の余地もない。というのは、お目あてはジャズではなく、スライ、ジェスロ・タル、レッド・ツェッペリン、フランク・ザッパ、らであるからだ。実際に、帝王マイルス・デイヴィスが『ビッチェズ・ブリュー』を披瀝したときの会場は、ガラガラではあった。当時のマイルスは、ほんの前座扱い。それも、スライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンのである。
さて、ビル・エヴァンスはといえば、ぼくの知るかぎり、最もエキサイティングにして、エモーショナルなライヴを展開。いわゆるニューロック・エイジを総立ちにさせる。
というのは、もともとはロック畑のジェレミー・スタイグがガンガン、エヴァンスを挑発したからに他ならない。
すべからく、ジャズ・エモーションは正しい。
ほんの1週間前の、ヘロヘロ苦汁のエヴァンスとはまったく別人かと思わせるほどの活性化である。明白に、スタイグは、トリオを凄まじくも。扇情的にあおり続ける。ゴメスとマーティ・モレルは、ただただリズムを正確に刻んでさえいれば、用が足りた。
あの『ホワッツ・ニュー』(Verve) の位相よりも、はるかに高品位なジャズ・エモーションの極みに、エヴァンスはいる。ジェレミー・スタイグのフルートは、大交通事故後、自らの肉声とのコミュニカシオンという、すぐれて固有のスタイルを確立する。決して、誰のようでもないのだ。
スコット・ラファロ以降、巨匠ビル・エヴァンスをめくるめく触発した唯一のアーティストとして、スタイグは、永遠に,ぼくの脳に、突き刺さっている。
ジェレミー・スタイグは、その後、日本人の妻君と、横浜は、上大岡で暮らし、永きにわたり、イラストレーター、童話作家として活動し続けた、
はるか、1$=360円の時代。
最もジャズがエキサイティングではあった。
心より、ご冥福をお祈りする。
@Bitches Brew for hipsters only
合掌!