42.カンザス・シティに通い始めた頃~どうしてカンザス・シティ?
text & photo by Yoko TAKEMURA 竹村洋子
2015年。今年は、チャーリー・パーカー生誕95周年、没後60周年という節目に当たる。そんな新年の幕開けに、今年はどんな楽しい事があるだろう?と期待に胸膨らませていた元旦、思わぬ訃報がカンザス・シティから入った。
カンザス・シティのジャズの重鎮、ドラムプレイヤーのトミー・ラスキンが亡くなった。
彼のドラムさばきは、非常に的確なピッチでエレガントかつスインギーだった。「真の即興詩人」とも呼ばれていた。先に亡くなったカンザス・シティ・ジャズの大御所だったジェイ・マクシャンのバックも頻繁に務めていた。ローランド・ハナ始めニューヨークやLAのジャズ・ジャイアンツ達から共演のオファーも数多くあり、インターナショナルに活躍する機会もあっただろうが、 地元カンザスのミュージシャン達とプレイする事にこだわり続け、生まれ故郷のこの地で72才の生涯を閉じた。 ほぼ半世紀に亘ってカンザス・シティで活躍し続け、文字通り、「カンザスのジャズ・アイコン」であった。ラスキンのこの早すぎる逝去に カンザス・シティのジャズ・コミュニティは新年早々、深い悲しみに包まれた。
いきなり、悲しい話から初めてしまったが、このトミー・ラスキンは私がカンザス・シティで初めて会ったジャズ・ミュージシャンだった。カンザス・シティを初めて訪れたのは1998年。ラスキンは夫人でハスキー・ヴォイスのシンガーのジュリー・ターナーと小さなグループと一緒に共演していた。初めて彼らと会った時、「なんて洗練された粋なカップルなんだろう!」と強く印象づけられ、瞬く間に仲良くなったのを覚えている。
一昔前の話だが、あれから随分時間が経った。色んな事があった...と、当時の事がつらつらと懐かしく思い出されてきた。「カンザス・シティの人と音楽」のコラムは2007年にスタートした。今回で42回目になる。様々な事をこのコラムで紹介して来たが、私が何故この街に通い始めたかといういきさつと、当時の事に話を戻そうと思う。
♪ ドキュメンタリー映画『The Last Of Blue Devils 』を観て
1979年に製作されたドキュメンタリー映画『The Last of Blue Devils(邦題:カンザスシティの侍達)』が私の人生を変えたと言っても過言ではない。
この映画が日本で公開されたのは1982年。映画の事は公開前に、カウント・ベイシー・オーケストラのリード・トロンボーン奏者で友人のメル・ウォンゾ(1930~2006)から聞いていた。メル・ウォンゾには、私がジャズを聴き始めて未だ数年で英語もろくに話せなかった高校生の頃に、友人が引き合わせてくれた。以来、2006年に亡くなるまで、ずっと家族ぐるみでつき合い、私の最高の友人の1人であり「最高のジャズの先生」だった。
メルがこの映画のことを教えてくれなかったら、私のカンザス通いは無く、 この人の存在無くして私のカンザス狂いは語れない。彼は、数多くのミュージシャンを紹介してくれ、素晴らしい演奏、音楽に関する様々な事を私に教えてくれた。この映画もその一つだが、彼がその時、私に見せたかったのは映画の中のジョー・ターナーでもあった。メルは、1956年、26才の時、ジョー・ターナー主演の映画『Shake , Rattle & Rock』で顔を黒く塗り、ジョー・ターナーのバックで出演している。「ベイシーだけじゃなく、色々楽しいから絶対観なさい!」と言って観るのを薦められたのをはっきり覚えている。
『The Last of Blue Devils』は、もうご存知の方も多いと思うが、ブルース・リッカー監督。カンザス・シティ・ジャズの大御所、カウント・ベイシーを始め、ジェイ・マクシャン、ジョー・ターナーらが1974年3月22日にカンザス・シティの18th & Vineジャズ・ディストリクトにあるユニオン・ホールに集まって行ったジャム・セッションの模様と、彼らの回顧談を収めたドキュメンタリー。伝説となったバンド「ブルー・デヴィルス」の復活やチャーリー・パーカーの映像等ジャズ・ファンにはたまらないシーンが続々と登場する。
1982年にこの映画を劇場(確か読売ホールだった)で最初に観た時は、ただショックだった。カウント・ベイシーの事は当然知っていたが、「黒人の老ジャズ・ミュージシャン達がドロドロにスイングしている、もの凄く濃いドキュメンタリー」というのが第一印象だった。当時の私は、ウォルター・ペイジ&ブルー・デヴィルスやアンディ・カーク、ジェイ・マクシャン等のカンザス・シティ・ジャズは多少は聴いてはいたが、 カンザスの街についてはバーベキューや野球が有名な事もほとんど知らなかった。チャーリー・パーカーが生まれた所、という事は漠然と知っていた。
その後数年経った 80年代の半ばに、この映画はレーザー・ディスク化された。発売と同時にメルがアメリカから送って来てくれた。オリジナルのレーザー・ディスクなので当然日本語字幕は無い。劇場で映画を観てからかなりの時間が経っており、誰が何を喋っていたのか記憶もほとんどなくなっていた。再度映画を観ると、ミュージシャン達の英語は訛りが酷いなんてものじゃなかった。カウント・ベイシーとジェイ・マクシャンはインタビューに慣れていたと思う。比較的聞き取り易かったが、後の人達の英語はさっぱり解らなかった。
そこで私は、英語教師でジャズ、ブルースが大好きのイギリス人の友人にサポートを頼み、映画の全台詞を聞き取り翻訳することにした。友人でさえも聴き取れない箇所が随分あり、今だに解っていない箇所もある。今、あの時の事を振り返ると、翻訳のサポートを引き受けてくれたのがイギリス人で良かったと思う。彼はイギリス人だから解らない、と言われるのが悔しかったのか、自分が知らないアメリカ文化について何とか理解しようと大変な努力をした。私達は、言葉のバックグラウンドにあるアメリカ文化や諸々を出来る限り理解しようと必死だった。当然調べなくてはならない事も山程にあった。レーザー・ディスクがすり減ると思う位、幾度もプレイ&バックして観た。
あの時、もし映像に日本語字幕が入った物を手にしていたら、きっと私の頭の中にはカンザス・シティやカンザス・シティ・ジャズについてはただの知識としてしか残らず、そこで終わっていたと思う。 この翻訳作業は1回2~3時間程で2週間近くかかってしまったが、知らない事がどんどん解明されていき、とても楽しかった。この作業はカンザス・シティと私との距離をグンと縮めた。
ほとんど聞き取り作業が終わった頃、ニューオーリンズ、シカゴ、ニューヨークと並び、ジャズの4大拠点の一つであるカンザス・シティについて語る人が私の周りにいない事に疑問を感じており、「いつか、絶対カンザス・シティを尋ね、自分の目と耳でどんな所なのか確かめる!」と心に決めていた。
その約15年後の1998年に、私のカンザス・シティ訪問はやっと実現した。この頃、私は9月のレイバー・デイ・ウィークエンドに開催されるフォード・デトロイト・インターナショナル・ジャズ・フェスティバル(当時はフォード自動車がビッグ・スポンサーだった)に行くため、前出のメル・ウォンゾのデトロイトのアパートに毎夏滞在していた。私はカンザス・シティ行きを、まずメルに相談した。彼はツアーで全世中を回ってはいたが、カンザス・シティは2回しか行った事が無く、自分も興味があるし、知り合いも誰もおらず移動に車が必要な所に私1人を行かせるのは危険、と同行を申し出てくれた。
カンザス・シティに行く前に、民間のジャズ・サポート団体、カンザス・シティ・ジャズ・アンバサダーズ(Kansas City Jazz Ambassadors)をインターネットでサーチし、コンタクトをとった。この時、直に返事をくれたのが広報担当だったディーン・ハンプトンだった。ディーンは当時、カンザス・シティに本社がある電話会社 スプリント(Sprint〜現在日本のソフトバンクが株を買収)に勤め、IT関連の仕事をしていた。私の初めての滞在での彼のホストぶりは素晴らしかった。日中は街中の重要スポット、夜はジャズクラブを無駄無く連れて行ってくれた。行く先々でカウント・ベイシー・オーケストラのオリジナルメンバーのメル・ウォンゾと日本から来た訳の解らないジャズ好き女性は大歓迎された。
メル・ウォンゾとは1998年と99年に一緒に行き、その時は未だ3~4日程の短い滞在だった。3回目以後毎年、私一人で1週間、2週間と滞在も長くなり、滞在回数も年1回から2回へとなっていった。
ディーンは私を赤いホンダの助手席に乗せ、カンザス・シティのあらゆる所に片っ端から連れて行ってくれた。滞在中は毎日、朝から晩までマラソンをしている様な感覚で、ディーンはそれを「ジャズマラソン」と言っていた。
ディーンが最初に連れて行ってくれた所は、18th&Vine ジャズ ・ディストリクトにある1997年に設立されたばかりのアメリカン・ジャズ・ミュージアム。そしてミューチュアル・ミュージシャンズ・ファウンデーションだった。
18th&Vineディストリクトは1920~30年代にかけて多くのレストランやジャズクラブ、黒人の弁護士や医師達のオフィスや数々の店が軒を列ねてブラック・コミュニティとして栄えた所だ。60年代に公民権法が制定された後、ここに居住していた黒人達は次々と新しい住宅地へ移り、同時にジャズの中心もニューヨークへと移り、このエリアは80年代に至ってゴーストタウン化していった。1989年から、当時のエマニュエル・クリーヴァー、カンザス・シティ市長(現、民主党下院議員)が「クリーヴァー・プラン」というこのエリアの再開発を推進していった。
私がここを訪れたのは街の開発が現実に形になりかけて来た頃だと思う。映画『The Last of Blue Devils 』で観た頃と比べると、街並は奇麗に整備されていた。アメリカン・ジャズ・ミュージアムの新しい建物が何だか異質な感じさえした。そこはかつての栄華を微塵も感じさせない寂しい所だった。かなりがっくりきた。ここをチャーリー・パーカーが走り回っていたとはとても想像出来なかった。映画に登場した質屋をやっと見つけ、ちょっと嬉しくなったりした。アメリカン・ジャズ・ミュージアム自体もいかにも観光スポットという感じが否めなかった。この印象は今現在も余り変わりない。
ミューチュアル・ミュージシャンズ・ファウンデーションはアメリカン・ジャズ・ミュージアムから徒歩で3~4分の所にあった。『The Last of Blue Devils』の舞台となったミュージシャンズ・ユニオンのホールである。建物の周辺は雑草が生い茂った空き地と廃屋があり、同じ寂れたかんじでも、こちらの方がずっとリアリティがあった。
ミュージシャンズ・ファウンデーションでは週末にオールナイトジャムセッションがあるが、平日昼間はオープンになっており、ミュージシャンは誰でも自由に出入り出来る。私が行った時、丁度映画にも出演していたギターのソニー・ケナー(1933~2001)が練習しに来ており、大感激!私と一緒だったメル・ウォンゾとソニー・ケナーは話しだしたら止まらなくなり、随分長い時間お喋りをしていた。映画の中でカウント・ベイシーやジェイ・マクシャンが弾いていた白いグランドピアノのあるボコボコの木の床のホール、壁一面に貼られたミュージシャンのポートレイトなど、『The Last of~』の映画そのまんまで、映画の熱気が瞬時に伝わって来た。映画の中ではせまい部屋にミュージシャン達がぎっしりつまって演奏していた事に、その場に立って改めて驚いた。
私は、この街で活躍する地元のミュージシャンについての知識は皆無に近かった。ディーンとのクラブ回りは楽しかった。最初に連れて行ってくれたジャズクラブはマジェスティック・ステーキハウス。そこで初めて、冒頭に書いたトミー・ラスキンと夫人のジュリー・ターナーに会った。シンガーのデヴィッド・バッセ、キーボードのグレッグ・リッチャーとインターナショナルに活躍するベース・プレイヤーのボブ・ボウマンは現在は取り壊されてしまったニュー・ポイント・グリルで。ジョー・カートライトのピアノソロはホテル・インター・コンチネンタル内のオーク・バーで最初に聴いた。ハーリング・アップステアーズでのカンザス・シティ・ブルーバード・ビッグバンドの演奏は木の床が抜け落ちるんじゃないか、という程の大迫力だった。最も衝撃的だったのはレヴィーというクラブであったソニー・ケナーのライブだ。彼は夜中の1時過ぎまでギンギンにブルースをプレイしまくっており、私はもう疲れ果て半分眠っていたのに、あんなエネルギーどこにあったのだろう・・・。その他、シンガー&ピアノのルクマン・ハンザ、オルガンのエヴェレッタ・デヴァン等が最初に聴いた人達だ。彼らの優しい人柄が溢れた演奏に心打たれた。
この街は、車で10~15分飛ばせばジャズを演奏している所がある。そこで地元の人達とミュージシャン達が一緒になってワイワイやっている。いずれの演奏レベルも、とても高い事に驚かされた。とてつもなく革新的な演奏をするミュージシャンはほとんどいないが、皆、確かな技術を持ち、スィンギーに血の通ったジャズを淡々と演奏する。私は、それまで体験したニューヨーク、LA、デトロイトと始めとするアメリカの都市の何処とも違い、独特のリラックス感があり最高に心地良かった。カンザス・シティという所は1930年代に大繁栄し、ニューオーリンズ、シカゴ、ニューヨークと並ぶジャズの4大拠点の一つとして栄えた街である。人々はその歴史、文化に対する誇りと自信を持ちつづけており、それがある種のゆとりとリラックス感に繋がったのかな?等と漠然と感じた。この街のミュージシャン達は聴く側に演奏者の理屈を押し付けない。何が何でも自分を売り込む、というタイプは少ない。良く言えばおっとりしており、それだけこの街の居心地が良い、ということなのかもしれない。 この街に活動拠点を置きながらインターナショナルに活動をしているミュージシャン達も何人かいる。
ディーン・ハンプトンは、ミュージシャン達だけでなく、多くの人達を紹介してくれた。彼の行く所には、必ず彼の素晴らしい友人達がおり、みんな最高にフレンドリーに私を歓待してくれた。
サックス・プレイヤーのアーマド・アラディーンの演奏は4度目の滞在で初めて聴いたが夫人のファニー・ダンフィーは最初の滞在ですぐ親しくなった。ファニーはこの街の私の最初のガールフレンドだ。ミューチュアル・ミュージシャンズ・ファウンデーョンのディレクターだったベツィ・クロウ、ジェイ・マクシャンの長女のリンダ・マクシャン、ジャズ・アンバサダーのライターだったシャロン・ヴァロー、UMKC、マーサウンド・アーカイブスのチャック・ヘディックスらは、最初の頃にディーンに紹介されて以来、ずっと良い友人達だ。現在もこの人達はカンザス・シティ・ジャズシーンの中核におり、この街のジャズの興隆に尽力している。彼らとの友達の輪つながりで、本当に多くの友人がこの17年余りでできた。
♪ カンザス・シティの魅力
ミズーリ州、カンザス・シティというところは、大変美しく文化程度が高い街だ。街中に噴水と緑が沢山ある。ダウンタウンにはかつてこの街が栄えた頃を偲ばせるようなアールデコ・スタイルの建築物が新しいビル群と一緒に建ち並ぶ。かつてチャーリー・パーカーのお母さんが働いていた、今年創立100年を迎える終着駅ユニオン・ステーションもノスタルジックな雰囲気をかもしだす素敵な所だ。ここでも毎週末ライブが催される。スパニッシュ・スタイルの建築が並ぶカントリークラブ・プラザ・エリアも美しい。チャーリー・パーカーが幼少の時に住んでいたウエストポートも閑静な住宅街に若者達の集まるスポットが数多くある。素晴らしいミュージアムやアート・ディストリクトもある。全く個人的な話だが、私は友人達にそそのかされ、趣味でやっている陶芸の作品展を恥かしげも無く小さなギャラリーで行った事もある。多くの友人達が来てくれた。楽しければOK、というところだろうか?
街の人口は45万人程度だが、そこにカンザス・シティ・シンフォニー、カンザス・シティ・オペラ、カンザス・シティ・バレエもある。そして、何よりも食べ物が美味しい。これはその街が好きになるか嫌いになるか、大きな決め手となる重要ポイントだと思う。バーベキューやソウルフードだけでなく、エスニックも含め、全般に何処のレストランでも大体美味しい。少なくとも私の友人達の舌は肥えていると言えるだろう。私は食べ物の美味しいところは文化度が高いと思っている。
こうやって書くと良い所だらけの様で、カンザス・シティ観光局の回し者の様だが、冬の寒さ真夏の暑さは東京の比ではない。ビジターにはなかなか見えない人種の壁も貧富の格差、発砲事件も頻繁にある。
私の知るカンザス・シティはとても豊かな所だ。それは1930年代、街が繁栄した時の豊かさとは少し違うかもしれない。だが、なべて人々は親切で暖かく、ジャズが確実に根付いているオープンな街である。私はこんなカンザス・シティに最初に訪れた時からすっかり惚れ込み、友人達にサポートされながら通い続けて今に至った。
この街で出会ったジャズの長老達、ジェイ・マクシャン、クロウド・フィドラー・ウィリアムス、アーマド・アラディーン、ソニー・ケナー、マイラ・テイラー、ラッキー・ウエズリー等、その多くは既に他界した。
現在、ボビー・ワトソン、マイク・メセニー、ジョー・カートライト、スタン・ケスラー、ジェラルド・スパイト、デヴィッド・バッセらを始めとするの中堅ベテラン陣は脂が乗っており、とても元気が良い。またハーモン・メハリ、マーク・ローリー、ライアン・リー、ブライアン・スティーバーといった新しい世代のミュージシャン達も多く出て来た。最近、1996年生まれ のアーネスト・メルトンというサックス・プレイヤーを紹介された。彼らはカンザス・シティ・ジャズの第4世代になる。
新しいジャズ・サポート団体、KC Jazz ALIVEも出来た。昨年はカンザス・シティ・ロイヤルズのMLBワールドシリーズ出場で街は大きく湧いた。今年の夏のチャーリー・パーカー・バースデイ・セレブレーション(生誕95年、没後60年)はきっと盛大に催されるだろう。私は今、カンザス・シティについて結論めいた事を書く気持は全く無く、チャーリー・パーカーが生まれ育ったこの豊かな街を再訪するプランにいつも心躍らせている。
(2015年5月1日記、竹村洋子)
*関連リンク
*メル・ウォンゾ
http://www.trombone-usa.com/wanzo_mel_bio.htm
初出:Jazz Tokyo #208 2015.5.31