50 . チャック・へディックス氏との “ オーニソロジー ” : チャーリー・パーカー・ヒストリカル・ツアー 〈 Part 3〉
50 . チャック・へディックス氏との “ オーニソロジー ” : チャーリー・パーカー・ヒストリカル・ツアー 〈 Part 3〉
50.” Ornithology” with Chuck Haddix: Charlie Parker historical tour 〈part 3〉
text & photos by Yoko Takemura, special thanks to Chuck Haddix ( UMKC, Miller Nichols Library, Marr Sound Archives), Victoria Dunfee and Kansas City Public Library
カンザス・シティ・ジャズ華やかなりし1930年代、カンザス・シティ・ジャズとチャーリー・パーカーゆかりの重要スポットを、ダウンタウンと18th&ヴァイン・ ジャズ・ディストリクトを中心にPart 1とPart2で紹介した。
Part3は、アフリカン・アメリカン達と多くのミュージシャン達にとって重要だった『12th 通り』、『パセオ(Paceo)』と『ザ・ボウル(The Bowl)』について紹介する。
1930年代当時、18th&ヴァイン・ジャズ・ディストリクトはブラック・コミュニティとして栄え、医者や弁護士を始めとしたオフィス、ギャンブル場から質屋、洋服屋、食料品店などあらゆるショップがあった。当然、潜りの酒場やナイトクラブも数多くあり繁盛していた。ここは18th通り&ヴァイン通りを中心に東西南北に8ブロック程の地域で北の境界線が12th通りになる。12th通りというのは現在のアメリカン・ジャズ・ミュージアムの裏手の北側になる。 この通りは西のダウンタウン中心部のパワー&ライト・ディストリクトへと続きカンザス・シティを横断している。
メリー・ルー・ウィリアムスは「12th通りから18th通りまでこの6ブロックのエリアに当時50程のナイトクラブがあった。」と回想している。 12th通りから14th通りは夜になると100人以上の娼婦が通りや店の窓越しにタバコを吹かして座っており、客待ちのタクシーが通りに並び、30年代の終わり頃には、ナイトクラブもレズビアン・ショウをフューチャーしたり、ほとんど気違い染みた地域になっていった、という記録もある。 この辺りは『レッドライト・ディストリクト』とも呼ばれていた様だ。
主要ジャズのあるナイトクラブはコラム#47のPart 2で紹介したが、他に、『 ザ・ローン・スター( The Lone Star)』、『スピニング・ホイール(Spinning Wheel)』、アンディー・カークと彼のグループがよく出演していた『ヴァニティ・フェア(Vanity Fair)』、ジョー・ターナーの<Piney Brown Blues>で有名なパイニー・ブラウン経営の『サンセット・クラブ(Sunset Club)』、『ブルヴァード・ルーム(Boulevard Room)』や『オーキッド・ルーム(Orchid Room)』等があった事も知られている。 <Going To Kansas City>という有名なブルースがある。オリジナルは1959年にジェリー・レオバーとマイク・ストーラーによって作られ、ジョー・ターナー始め、色々なミュージシャンが色々なヴァージョンで唄っている。シカゴ・ブルースで知られているマディ・ウォータースはこんな歌詞で12th通りの事を唄っている。
I’m goin’ to Kansas City, Kansas City here I come (2x)
They got a crazy way of lovin’ there, and I’m gonna get me some
I’m gonna be standing on the corner, of Twelfth Street and Vine (2x)
With my Kansas City baby, and a bottle of Kansas City wine…
カンザス・シティに行こう!カンザス・シティを目指すんだ!
そこは誰もが恋にのめりこむ街さ、俺もそのおこぼれにあずかろう
俺の姿はそこにある、12th通りとヴァイン通りの角のところさ
カンサス・シティの可愛い子とカンザス・シティ・ワインのボトルを開けてね・・・
(ジョー・ターナーは、12th&ヴァインという箇所を18th&ヴァイン、と唄っている)
このアメリカン・ジャズ・ミュージアムの裏手、北側エリアほど現在すっかり様子が変ってしまった所はカンザス・シティでも数少ないと思う。カンザス・シティが栄華を誇った様子は影も形もない。 現在はすっかり美しく区画整理され、ザ・パレードという公園がある。1999年にはロバート・グラハムによるチャーリー・パーカーの大きな彫像が建てられ、『チャーリー・パーカー・メモリアル』として観光名所になっている。
18th&ヴァイン・デストリクトの西の端に、パセオ・ブルヴァード(Paceo Boulevard、もしくはパセオ:Paceo)というカンザス・シティの中心を南北に30キロ縦断する通りがある。 カンザス・シティに労働力として移住して来たアフリカン・アメリカン達の人口は街の繁栄と共に大幅に増加し、1920〜30年代にはその多くは住む場所を求めて街中を移動せざるを得なかった。元々白人が多く住んでいたパセオ・エリアにもスラムから脱出して多くのアフリカン・アメリカン達が移り住んで来た。結果として、18th&ヴァイン・ディストリクトのようなブラック・コミュニティが栄えた、という事になる。パセオは白人とアフリカン・アメリカンの住む場所を明確にする『リボン』として存在していたようだ。
現在、このパセオから東に『メリー・ルー・ウィリアムス通り』『エラ・フィッツジェラルド通り』と呼ばれる通りがある。そんな事からもこの辺りが如何にジャズが盛んであったかが窺える。
パセオ沿いには、7ブロック程連なって細長い緑地帯『ザ・パセオ:The Paceo』がある。(添付のカンザス・シティ市の地図を参照。グーグルで検索可能)この緑地帯全体が公園だが、ここに『スンケン・ガーデン( Sunken Garden)』という噴水を有したヴェルサイユ・スタイルの公園が、1800年代の終わりから現在まで全く変らぬ姿で存在している。 その公園の北に階段があり、3メートル強高くなったあたり一体を気持よく見渡せる場所がある。 ここが、チャーリー・パーカーを始め多くのミュージシャン達に『ザ・ボウル』と呼ばれ、彼らが演奏を切磋琢磨していた場所だ。住所は12th&パセオになる。
カンザス・シティ・ジャズ全盛の頃はまだ、現在の様に学校で音楽教育がある時代ではない。譜面さえも充分になくヘッドアレンジで演奏していた時代である。ミュージシャン達はナイトクラブや楽屋、裏庭や公園などで先輩ミュージシャン達の演奏を盗んだり、教えを乞うていたに違いない。『ザ・ボウル』はカンザス・シティにおけるそんな場所の代表的な所だった。
カンザス・シティ・ジャズ第2世代のアマード・アラディーン(サックスプレイヤー、コンポーザー、エデュケイター:1934〜2010)はこの辺りの場所とチャーリー・パーカー(バード)をこう回想している。1947年の話で、この頃バードは既にカンザス・シティを離れ、ニューヨークに居たが、母親のいるカンザス・シティに時々戻って来ていた。 「チャーリー・パーカーの演奏を直接近くで聴いているとね、こんな絶対忘れられない事を思い出すんだ。私が最初にバードに会いに行ったのはエル・キャプテンだった。マチネに行ったら彼が現れたんだけど、演奏しなかった。ひどくがっかりしたね。 それから、1人で12th&パセオにあるブルヴァード・ルームに会いに行ったんだ。私は おそらく中学1年生くらいだった。 夜間の外出が禁止されていて、未だハイスクールの生徒だったから家に居なくちゃいけなかったんだ。12th通りを歩いていたら、チャーリー・パーカーがサックスを持って18th通りから12th通り、それからパセオに向かって歩いて来たんだよ。彼は『やあ、元気かい、ジェントルマン?』と低い声で言って握手してくれた。彼の手はとても大きかった。それは、目がクラクラする程嬉しかった・・・チャーリー・パーカーに触れたんだよ!彼はシャーロック・ホームズみたいなパイプを吸ってた。パイプのコレクションをしてたんだよ。クリフォード・ジェンキンスが近寄って来て、バードは『やあ、どこに行ってたんだ?』って尋ねた。クリフォードは借金か何かちょっとバードに借りがあったらしい。クリフォードは怖くなって、もの凄く早口で喋り始めたんだ。『俺はこの辺りにいたよ。この辺りにいたよ!』ってね。 そしたら、バードのおばさんがミサイルの様に通りをすっ飛んでやって来て、騒々しく喋り始めたんだ。『彼がいるわ!私の甥がいるわ!あれがチャーリー・パーカーよ!』バードはおばさんに『やあ、おばさん元気?調子はどう?』って言った。バードは彼女が何か吹いてくれるかどうか知りたがったのを見て、『おいでよ!何か吹くよ。』って言ったら、おばさんは『ダメなのよ、私は信仰が厚いからそういうクラブの様な場所には入れないのよ。』って言うんだよ。バードは中に入って行き、バンドに<My Mother’s Eye> が演れるかどうか聞いて、それでみんなで演奏したんだ。みんな外にやってきて、聴いたんだよ。私達は未だ若過ぎてクラブには入れなかった。それが私が最初に偉大なミュージシャンから聴いて学習したことさ。」
アラディーンはこんな経験も話している。 「私はストリートでジャズを学んだ。ミュージシャン達はお互いに誰かに何か可能性を感じたら言ってくれるんだよ。クリフォード・ジェンキンスというアルトサックス・プレイヤーがいるんだけど、私によくそんな事を言って助けてくれたよ。あと、エディ・サンダースもね・・・・ ここから生まれたチャーリー・パーカーのお陰でいろんな物を聴くチャンスに恵まれたよ。彼の様な男を育てたカンザス・シティという街にあらゆるミュージシャンが訪れる様になったのさ。その結果、私はソニー・スティットやデクスター・ゴードンなんかを聴くチャンスにも恵まれた。私はデクスター・ゴードンや彼の仲間達と一緒に『ザ・ボウル』でよく一緒にプレイしたりしたよ。12th通りとパセオの中間にある『ザ・ボウル』なんだけど、そこは、ちょっと階段を上った高いつくりになっている所なんだよ。誰でもそこでプレイできたって訳じゃないんだよ。デクスター達は私にそこに来させたんだ。そこで奴らと一緒に演奏できるって事は、ちょっとした特権だったんだ。そこではジャズ・マスター達のプレイを観て、一緒に演奏し、口伝えに知識を得、ジャズを学んでいく、という事ができた。今はみんな教室でジャズを勉強する、学校が知識を与えるんだけどね。」
現在、このパセオ・ブルヴァード沿いの少し南になるが、『パセオ』由来のネーミングの『パセオ・アカデミー・オブ・ファイン・アンド・パーフォーミング・アーツ(Paceo Academy of Fine and Perfoeming Arts)というハイスクール』があり、多くの優秀なミュージシャンを育てている。 アーマド・アラディーンは生前、パセオ・アカデミーで10年ほど教鞭をとり、その生徒の多くがカンザス・シティ内外で活躍している。その中には、今年ブルーノート・レーベルからアルバム『Shift』でメジャー・デビューしたローガン・リチャードソン(as)を始め、ニューヨーク在住のハロルド・オニール(p)、セス−・リー(b)等がいる。ロバート・アルトマンの映画『Kansas City 34』に出演してビッグ・ジョー・ターナー役を演じたケヴィン・マホガニー(vo)や、ジーン・ラメイ役を演じたタイロン・クラーク(b)。現在ジャズクラブ「ブルー・ルーム」のディレクターでもあるジェラルド・ダン(as)、マイク・ウォレン(ds)、ドニヴァン・ベイリー(ds)、マット・ケイン(ds)などは、パセオではないが、アラディーンの生徒だったり、一緒に演奏活動をしていた。そんなミュージシャン達は他にも数多くおり、ボビー・ワトソンに言わせると、「彼らはただ楽器を持ってるキッズじゃない!もの凄く優秀なミュージシャン」。私も彼らのパフォーマンスには、テクニックだけでなく、何かもっと私の心の中にぐっと入り込み、血を騒がせるものを感じる。 この2月、ローガン・リチャードソンはブルー・ノート東京で公演があり、東京滞在の数日間に会う機会があった。彼は「アラディーンは、年をとっても普段の練習量の凄い事ったらなかった。年は40才くらい上なのに、友達感覚で、『今、こんなジャズが流行ってて、誰がいいよ!あいつのあの演奏聴いたか!?』という様な話をいつもしてた。そんな事がとても刺激的だった。簡単に言っちゃえば、理屈より実践ってことなんだけどね。」と言っていた。
アラディーンは、カンザス・シティ・ジャズ全盛期のミュージシャン達がやっていた、そんな『昔のやり方』で後輩達を育て行こうとしていた。現在もカンザス・シティの若いミュージシャン達にその伝統は受け継がれている。
昨夏『Bird: the Life and Music of Charlie Parker 』の著者、チャック・ヘディックス氏と廻った所を、このコラムで3回に渡り紹介した。ほとんどカンザス・シティの歴史、風俗についての勉強だったが、私はこの街でミュージシャン達の演奏を聴く事と同じ位楽しかった。
ヘディックスとスタッフ、友人達が多くの事を教えてくれた。コラムに仕上げてしまうと、こんなもの?と思っても、その裏には多くの人達の地味で緻密なリサーチと大変な量のアナログ作業の積み重ねがあった。私もライブラリーの資料を調べ、地図や住所と照らし合わせ、ジャズの基盤を作ったミュージシャン達の背景にあるもの、風俗、政治、経済、食べ物まで、現代の私達とは違う未知の世界の事を一つ一つ解明していく楽しさを味わった。 私は、ヘディックスのオフィスや、バードのバースディ・セレブレーションの時、お墓で聴いた蓄音機から流れるアセテート版レコードの音の深さ、暖かさが忘れられない。 インターネットで何でも簡単に手に入る時代である。音もデジタル処理されたものが主流の世の中、なんともアナログな世界に飛び込んでしまったが、自分の目、耳、手足を使って得る情報、知識の価値と重みを改めて感じている。
ニュー・オーリンズ、シカゴ、ニューヨークと同様に、カンザス・シティ・ジャズなくして現在のジャズシーンは語れない。カンザス・シティの歴史なくしてはアメリカの文化、歴史も語れない。この街に関わってしまった事と、この街の人達に感謝している。
(2016年6月15日)
*参考文献
Chuck Haddix著『Kansas City Jazz : from Ragtime to Be-Bop-A History」2005
Ahmad Alaadeen著『Dysfunctional」2011
Kansas City Star Books『Kansas City -An American Story』1999
Mary Lee Hester 著『Going To Kansas City』1980