風巻 隆「風を歩く」から #40「カセットの話」
text: Takashi Kazamaki 風巻 隆
カセットというメディアが現れたのは、ボクが中学生の頃だった。2つ上の兄が音楽好きだったこともあって、わが家にあったのは一般的なラジカセではなく、当時「デンスケ」の愛称で知られていたSONYのポータブルのカセットデッキだった。ワンポイントのステレオマイクと合わせると野外でも録音ができるもので、今でも家に残っている最古のカセットは中3の文化祭で友人達と行ったライブだった。当時はフォークソングが流行っていて、ギターを抱えて歌うのはカッコいいことだったので、放送劇クラブの部屋を借りたボクらのライブには、多くの人達が集まって楽しい時を一緒に過ごした。

高校になるとボクは同学年の友人のロックバンドでドラムをはじめる。高校3年の秋、ボクらのバンドは「日本青年館」で行われる「A・ROCK」というアマチュアロックの祭典に、蒲田に本店がありボクの地元の元住吉にも店舗があったスター楽器の予選を勝ち抜いたバンドとして出演することになり、この時期にも毎週日曜に学校で練習をして、その練習風景がカセットに残っている。毎回録音していたわけではないのだけれど、本番で演奏する YESの名曲 <Roundabout> が、コーラスも含めて全曲録音されている。学校の教室で、とんでもない大音量で練習ができたことには、今でも感謝している。
大学3年の夏、その春からもぐりで参加していた東京藝術大学の小泉文夫先生の民族音楽ゼミナールで、沖縄・八重山の民謡のフィールドワークをした際にも、ボクの「デンスケ」は活躍した。ユンタやジラバ、アヨーという民謡の伝承者を訪ねては歌を録音し、歌詞や歌の意味を教えてもらう。ボクの班が担当したのは竹富島の仲筋村という集落で、島の古老はもちろん音楽の専門家ではないけれど、都会では想像もできないような高い音楽文化を身に着け、その島で生まれ代々継承されてきた歌を、自分達の歌として歌ってくれた。その無名の人達が継承する音楽はとても力強いものだった。
その翌年、1979年からボクはVedda Music Workshopに参加して即興演奏をしていくことになる。早稲田の「JORA」や、吉祥寺の「マイナー」などで行われたライブでは、案曲という何らかの決め事に則した即興演奏をすることが多かったので、その演奏を「デンスケ」で録音し聴き返したりしていた。ボクがVeddaに関わったのはほぼ3年間だったので、録音したものから一部を抜粋して、それぞれの年ごとにカセット作品のようなものを作ってみたことがある。ただ、Veddaには数多くの人が関わっていたので出演者の特定が難しく、作品としても記録としても不充分で、反響もとくにはなかった。
ただ、このカセットテープ3本は、「第五列」という活動を続けていた友人に託していたので、82年7月にボクのアパートが火事で焼けてしまったアクシデントを潜り抜けることができて、数年前、盛岡に住む友人の金野吉晃さんの家で発見され、ボクの手元に送られてきた。録音したカセットも「デンスケ」も火事で焼失してしまったけれど、このカセット3本が残っていたことで、Veddaという特異な活動の実際の音が残されたことには大きな意味があるだろう。Veddaの活動を検証する作業はまだ始まったばかりで遅々として進んではいないけれど、いつか、その全体像を見てみたいものだと思う。
鶴巻温泉のジャズ喫茶「すとれんじふるうつ」でのライブの音源から、82年に向井千恵さんとの「風を歩く」、83年に小杉武久さんとの「円盤」、85年にダニー・デイビスさんとの「ATMOSPHERE」と立て続けに自主製作のLPをリリースしたボクは、ソロでツアーを重ねながら、各地のオーガナイザーやジャズ喫茶・ライブスペースなどと関係を深めていき、その分、自分でカセットに録音する機会は減っていった。84年1月の渋谷アピアでのソロのカセットが残っている。ハモニカを吹いたり、足の指でスティックをはさんで楽器を叩く、ワンマンバンドのようなその頃のソロのスタイルが聴けて楽しい。
84年にはじめてニューヨークへ行った際にはカセットを持って行かなかったので、NY在住の杉山和紀さんにいくつかのライブを録音していただいた他は、記録を残すことができなかった。それでも「LIFE CAFÉ」でのビリー・バングとのデュオや、「INROADS」でのトム・コラとペーター・コヴァルトとのライブはカセットで残っていて当時の熱気が伝わってくる。その二つのライブはボクの企画した自主企画だけれど、NYの週刊新聞「Village Voice」のその週のお薦めライブにセレクトされた。イーストヴィレッジの路上で毎日のようにソロで演奏していたのだけれど、その録音というものはもちろんない。
2回目のニューヨーク訪問となる87年には、レコーディングができるウォークマン・プロフェッショナルを持って行った。KRAINEというスペースでダニー・デイビス、ウィリアム・パーカーと演奏したときは杉山さんに録音してもらったけれど、ニッティング・ファクトリーやA-MICAなどで企画した多くのコンサートは、小さなカセットで録音された。6月、イーストヴィレッジのトンプキンス・スクエア・パークで行われた「NEW EAR」フェスティバルに、ドラムのデニス・チャールズとのデュオで出演したときは、エンジェラという友人にカセットを預け、突然の雨でバンドシェルに観客が集まる様子が記録されている。
8月、「ニッティング・ファクトリー」で、ダニー・デイビス、ジーナ・パーキンスとトリオで演奏したときには、トム・コラが客席に現れたので録音をお願いした。その録音を聴いてみたらビックリした、まず冒頭にラジオの番組かのような声色で「ここはダウンタウンのニッティング・ファクトリー、これからダニー・デイビスとジーナ・パーキンス、そしてタカシ・カザマキのライブが行われます」といったメッセージが録音されていて、その後にトムの声で「タカシ、今日のライブがうまくいくことを願っているよ」と続けられた。トムとはその後も共演を重ねたけど、若くして亡くなった彼の声が聞けるのはうれしい。
この年オープンし、またたくまにダウンタウンの新しい音楽の発信基地となった「ニッティング・ファクトリー」では、6月に行われた「TEA & COMPROVISATIONS」フェスティバルでネッド・ローゼンバーグと、7月にクリス・コクランとポール・ハスキン、9月にエリオット・シャープ、10月にはブッチ・モリスと共演している。また、「Improvisor’s Network」というシリーズを行っていた「A-MICA」では5月にサム・ベネット、6月に河野優彦とポール・ハスキン、8月にクミ・キモト、10月にダグ・ヘンダーソンとデイヴィット・ワトソンとそれぞれライブを行い、それらは全てカセットに録音され、東京に持ち帰った。
そうしたなかで、録音したいくつかの音源をコンピレーションしてカセットにまとめ留守宅に送ったことがある。タイトルが「From Love with New York」というものだったことからわかるように、その作品は発表することを前提としたものではなく、一足早いお土産か、ニューヨークでの音楽活動の経過報告といったものだった。カセットというメディアは、そうした個人的な「思いを伝える」ものでもあったし、いくつかの音源をアトランダムに集めたことで、ニューヨークのダウンタウンの音楽シーンが見てとれるものになり、ジャズとも即興演奏とも等距離にいたボクの立ち位置といったものもそこにあった。
ニューヨークから帰り、3月に横浜「大桟橋ホール」で「デュオ・インプロヴィゼーション・ワークショップ」を行った88年には、ジャズ評論家の北里義之さんが「ORTLIVE」というミニコミを作り始め、東京の音楽シーンが一気に活性化した。彼はミニコミとともにOMBAというカセットレーベルを立ち上げ、ピアノの黒田京子さんを中心に、篠田昌已、大友良英といった若いミュージシャンにフォーカスしていた。その北里さんからカセット作品の制作を持ち掛けられ、提供したのはダニー・デイビスとウィリアム・パーカーとのトリオと、トム・コラとのデュオのライブ音源で、「曳航の旗」というタイトルにした。
89年にミュンヘンからカーレ・ラールを招聘して国内をツアーしたときの音源からは、翌年「ZIZS-泥魚」というカセットをOMBAからリリースした。鶴巻温泉「すとれんじふるうつ」でのデュオ、新横浜「スペースオルタ」での大友良英とのトリオ、吉祥寺「MANDA-LA2」での梅津和時とのトリオが収録されている。カーレ・ラールとはその後さまざまなタイトルのCDをリリースし、世界をまたにかけて活動をしていくことになるのだけれど、このカセット作品が二人で作った最初の作品になる。カセットということで広く流通するわけではなかったけれど、二人の音楽の方向性はこの作品で示されていたと思う。
即興演奏というものは、この世に音楽が発生したときから存在するといった言説もあるけれど、1960年代にフリージャズがアメリカで生まれたのに対し、70年代に、より知的な抽象性を音楽に持ち込んだのがヨーロッパの即興演奏(フリーミュージック)だったろう。その音楽が広まっていった時期と、カセットというメディアが広まった時期は偶然かもしれないけれど重なっているようにも見える。自分の演奏を手軽に録音でき、それを聴き返すことができ、また録音したものを手軽に編集でき、またそれをコピーし作品化することができ、手軽に持ち歩くことも、街で音楽を聴くこともできるものだった。
90年代に入ると時代は急速にデジタルへと向かいLPがCDに取って代わり、MDやDATといったメディアも現れ、スタジオの録音もオープンリールのテープからDATへと変わっていく。それでもカセットの手軽さは変わらず残っていて、車を走らせるときにはいくつかお気に入りのカセットを用意して、アウトバーンやハイウェイを高速で疾走するのだった。
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