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風巻隆「風を歩く」からNo. 290

風巻 隆「風を歩く」から vol.3   アスター・プレイス (Astor Place) 

text: 風巻 隆 Takashi Kazamaki

Dewey Redman

摩天楼の林立するミッドタウンからほど遠いダウンタウンの東8丁目は、セントマークス・プレイスとも呼ばれ、街路樹の緑がキレイな落ち着いた街並みだ。階段状の入り口や、ファイアーエスケープと呼ばれる非常階段が前面にある古い建物が印象的で、キャフェや本屋、中古のレコード屋が並び、ビルの壁にコンサートのポスターが所狭しと重ねて貼ってあるような、猥雑で魅力的な街だった。ジャズスポットやオシャレなキャフェが並ぶグリニッジ・ヴィレッジの東側に位置するので、イースト・ヴィレッジと呼ばれるこのあたりは、古い煉瓦造りのアパートに、若者向けの新しい店が軒を連ね、家賃がまだ安かったこともあって、多くのミュージシャン達がこの界隈に住んでいた。

はじめてニューヨークを訪れた1984年、当時1ドルが240円したこともあって、オープンキャフェの3ドル50セントのサンドイッチが自分とは遠い世界の贅沢なものに感じるほど、貧乏でカツカツの生活をしていた。韓国人の経営する24時間営業のグロッサリーで、量り売りのお惣菜をよく買って食べ、ピザを買うときはいつでも一番安い1ドルほどのプレーンというトッピングのないものだった。そう、3ヶ月という滞在期間のなかで、ストリートで演奏することは、紛れもなくその日の生活費を稼ぐ手段だった。イースト・ヴィレッジの玄関口とでも言うようなアスター・プレイスは6番の地下鉄の駅があって人通りも多く、キューブの形をした野外彫刻が斜めに立っている場所が、車道に囲まれた小さな島のような広場になっていて、ボクはいつもその彫刻をバックに、開放的な空間のなか一人で演奏していた。

サマータイムで夜が遅く始まる午後の9時頃、肩から下げるタイコ一つとドラを黒いケースに入れ、ファースト・アベニューの小杉武久さんのアパートを出ると、東8丁目の街からアスター・プレイスへと向かう。当時、アスター・プレイスの周辺は夜になると、フリーマーケットのように賑わっていて、道端で古本やレコード、雑貨や、なかにはゴミ箱から漁ってきたようなものまでが店に並ぶ。片方だけの靴なんて誰が買うんだとも思うけど、小学生のような子供が小遣い稼ぎなのか、いらなくなった本や、ちびた鉛筆を売っているのにはびっくりした。この町では何でもありなんだ。

自分が町に受け入れられるという感覚など今まで持ったことはなかったけれど、ここは違う。「今日もタイコかい?」通りを歩くと、顔見知りになった物売りの兄ちゃんが声をかけてくる。アスター・プレイスで演奏していても、黒人のおじさんが靴を頭の上に乗せて踊りだしたり、子供がお母さんからコインをもらって走ってきたり、若いミュージシャンが「いかすじゃないか、気に入ったよ」とか言う。演奏のときは空のケースを開け、そこに小銭を少しいれてから演奏を始める。すると、地下鉄から出てきた人達や、街を歩く人達が足を止め、しばらく聴いては小銭を入れてくれる。なかには1ドル札を入れてくれる人もいるのだけれど、風で飛ばないか気が気じゃないので、人がいなくなった隙に札はポケットにねじこんでおく。今日はずいぶん小銭が集まったと喜んで帰ると、見慣れないコインもまじっていて、エクアドルや台湾や香港のコインだったりもする。そう、ボクはニューヨークで、世界のコインのコレクターになっていた。

ある日のこと。いつものようにアスター・プレイスで演奏していると、初老の黒人のミュージシャンが近寄ってきて一緒に演奏してもいいかと尋ねてくる。「ええ、もちろん。」と答えると彼は、サックスのケースの中からチャルメラのような楽器を出して吹き始める。インドのシャーナイというその楽器を、彼はジャズのエッセンスのようなものを感じさせるような吹き方で、何とも言えない素晴らしい演奏をした。「この人は、ただものではない。」そう感じながら、ボクはタイコとドラを駆使して、音色や語るようなリズムに重きを置いた演奏を展開し、周りには次第に人だかりができてきた。

そうやって、20分ほど一緒に演奏しただろうか。演奏しながら「あー、これがジャズなんだ。」ということがひしひしと伝わってきて、それは鳥肌が立つような思いだった。ボクの音楽は、けしてジャズという形をとってはいなかったけれど、彼はそうした音楽のジャンルとか、スタイルといったものとは全く違ったところで音楽をとらえ、その音には確固とした力強さと、心の深いとこからあふれるやさしさに満ちていた。また、その音楽には、黒人の人達が持っている「智」というものが確かに感じられたのだった。二人の演奏が終わると、人だかりから大きな拍手がおきた。「ありがとう、とても楽しかったよ。」と言って立ち去ろうとする彼を呼び止め、「名前と電話番号を教えてください。」と書くものを出す。「デューイ・レッドマン」ひげや髪に白いものが混じるそのミュージシャンは、そう名乗って静かに去っていった。

恥ずかしいことに、そのときのボクはその人のことを何も知らなかった。デューイ・レッドマンが、オーネット・コールマンなどと一緒に活躍した高名なテナー・サックス奏者だと知ったのは、それから少し後のことだった。次の日、やはりイースト・ヴィレッジの路上で、西ドイツのベーシストで即興演奏家のペーター・コヴァルトとばったり出会う。その頃、彼はニューヨークに長期滞在し、「SOUND UNITY」というフェスティバルの企画者の一人として精力的に活動していた。その彼がボクを見つけると、「昨日は、いい演奏だったね。デューイも、君も」と声をかけてくれた。そうなんだ、あの人だかりにペーター・コヴァルトがいたとは知らなかった。「うん。いいコラボレーションだったよ、とっても。」

ニューヨークのアスター・プレイスが「何でもあり」だということはわかっていたつもりだったけれど、いつもの小銭を稼ぐ路上の演奏で、ジャズの巨人と20代の無名のボクが一緒に演奏できるなんてことは思いもよらなかった。それまでのボクは、音楽というものに対してどこか斜に構えていて、予定調和でしかないコンサートに反逆する気持ちも強く、自分の居場所を求めて路上に出ていたところもあったのだけれど、その路上で、本物のジャズと期せずして出会い、心が震えるような経験をしたことによって、ボクの興味は、自然と音楽を作ることへと向かうことになった。

それにしても、デューイ・レッドマンは、何でボクの演奏を気にかけてくれたのだろう。ただ、自分のやりたい音楽を気ままに演奏していたボクの音に、親和する気持ちが彼にもあったのだろうか。おそらく、それは、彼にとっては、ジャズの原点でもあり、もしかしたら、彼の音楽の原点だったのかもしれない。その後ボクは、87年、90年、92年、94年と何度もニューヨークを訪れることになるのだけれど、次第にフリーマーケットのような路上の商売は規制されていき、また、路上での演奏も許可制となり、誰でも自由にできるものではなくなってしまったようだ。初めてニューヨークを訪れた84年を境にして、ボクもまた、東京でも海外でも路上で演奏することはしなくなっていた。

即興演奏というものは、音楽という枠組みから離れていくことだと思っている演奏家は多いのかもしれないけれど、即興のダイナミズムというのは、抽象的な音の世界の中でたゆたうことではなく、お互いの音楽を共感することで、「新たな音楽」が自然と生まれてくるようなコラボレーションをその場で作ることだという思いがボクにはある。その即興観の原点は、このアスター・プレイスでの偶然の出会いと、奇跡のような演奏だったことは間違いない。

その後、ニューヨークを訪ねることはあってもデューイさんと会うことはなかったし、その演奏をちゃんと聴くこともできなかった。ただ、あの短い演奏の中で、ボクが教えてもらったことは多々あるし、音楽というものは本来、人から人へ、体験することを通して伝えられていくものなのだろう。一般にジャズとして知られている音楽と、アスター・プレイスでの二人の演奏の中で肌で感じたことはまったくの別ものだった。学生の頃、沖縄・八重山の離島で宇宙というものを始めて見たのと同じように、ボクは、ニューヨークのアスター・プレイスで、本物のジャズと出会ったのだった。

風巻隆

Kazamaki Takashi Percussion 80~90年代にかけて、ニューヨーク・ダウンタウンの実験的な音楽シーンとリンクして、ヨーロッパ、エストニアのミュージシャン達と幅広い音楽活動を行ってきた即興のパカッショニスト。革の音がする肩掛けのタイコ、胴長のブリキのバケツなどを駆使し、独創的、革新的な演奏スタイルを模索している。東京の即興シーンでも独自の立ち位置を持ち、長年文章で音楽や即興への考察を深めてきた異色のミュージシャン。2022年オフノートから、新作ソロCD「ただ音を叩いている/PERCUSSIO」をリリースする。

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