風巻 隆「風を歩く」から vol.7 鶴巻温泉「すとれんじふるうつ」
text by Takashi Kazamaki 風巻 隆
小田急線で新宿から1時間あまり、窓から外を眺めた景色に水田が広がり、丹沢の山々が近くにせまってくるようになると、「鶴巻温泉」の駅につく。歓楽街というより保養所といった趣の温泉街からは線路を隔てた反対側、駅前の踏み切りから商店の並ぶ坂を登ったあたりにジャズスペース「すとれんじふるうつ」があった。カウンターと、4人掛けの椅子席が2つ、巨大なスピーカーが威厳を放つなかアップライトのピアノがポツンと置いてある。10人もお客さんがきたら満員という小さな店には、東海大の学生達や、養護学校の先生が子連れで集まったりもして、いつも独特の熱気が渦巻いていた。
このお店に初めて行ったのは、1980年の6月、竹田賢一さん、向井千惠さんらとの即興/パフォーマンス集団、Vedda Music Workshopでのライブのときだった。その時の、楽器やガラクタをただドンガラガッチャンするようなボクの破天荒な演奏を、「すとれんじふるうつ」は思いのほか気に入ってくれ、以来、ライブや養護学校での催しなどを企画してくれた。ジャズには一家言のあるオーナーの小黒さん(オーちゃん)、きさくな物言いで笑顔が素敵なパートナーの河井さん(ピピちゃん)、お二人の娘さんで知り合った当初は保育園児だったもきちゃんや愛犬のホッペ…、いつも皆、楽しそうだった。
その頃、全国各地でジャズ喫茶を運営していたのは、ボクより10歳ほど上の「全共闘世代」の人達が多く、「すとれんじふるうつ」の人達もまたその例外ではなかった。ジャズだけではなく、夫婦別姓や障害者の権利など、さまざまな社会問題に関心があり、自分の立場や、自分の意見をしっかり持つことが大切だと「すとれんじ」の人達は考えていたようだ。そういう思いもあってか、当時のジャズ喫茶によく見られていたように、「すとれんじふるうつ」でも、簡単な印刷の機関誌を作っていて、80年の秋ごろだったろうか、風巻クンにもぜひ参加してほしいと誘われて、原稿を寄稿したことがある。
当時、文章は書き慣れていなかったので、その原稿は、「夏の思い出」のようなものになってしまったけれど、こんなエピソードから話を始めた。ボクは4歳の1年間、兄の就学をきっかけに母が仕事をやめたので、保育園にも幼稚園にも行かず、団地の敷地内でずっと一人遊びをしていたことがある。そんなボクが大好きだったのは、お昼頃リヤカーを引いてやってくる移動販売の魚屋さんだったり、屋台のお好み焼き屋さんや、お米を持っていくとお菓子にしてくれるバクダンの店だったりした。そうした、どこからともなく現れてどこへともなく去っていく人達のことを、ボクはずっとあこがれていた。
1980年、仕事を始めて最初の夏休み、はじめて東北を旅した際、陸前高田「ジョニー」や、郡山「じゅの・せ・まま」などのジャズ喫茶で、ほとんど飛び入りのような形で演奏させてもらったことがある。いわきでも、ボクは「フィレンツェ」という店で演奏しようと思っていたのだけれど、昼過ぎに駅に着いたので、時間をつぶしにブラブラ街を歩き、小高い丘の方へ足が向いていた。丘を登ったところに緑に包まれた小さな広場のような場所があって、そこで少し休むことにした。近くに学校があるのか、チャイムが聞こえてくると、この辺はもう学校が始まっているのか、三々五々子供たちが帰宅していく。
通学路のわきの小さな広場で、ボクは、誰に向かってでもなく演奏を始めた、タイコを叩いたり、ドラを鳴らしたり、そうしたボクに子供たちは無茶苦茶反応して、「えっ?ナニナニ?」と、興味津々で集まってきた。ボクは、彼らに自分の持ってきたカリンバなどの楽器や、ガラクタを渡すと、彼らは思い思いに音を出し、高学年の男の子に至っては、カリンバを下腹部にあてて演奏すると、何だかとても気持ちいい…なんてことも発見したりする。音を出すのに飽きたら、「じゃあねー」とか言って帰り、それを見た子供達が「なになに?」と、また音を出すことに参加してくる。みんな自由で楽しそうだった。
即興演奏というものを、特別の人達が行う特別の音楽だとする風潮が強いなか、この時の子供達との経験は、ボクのその頃の即興観を確かなものにした。即興は誰でもできるもので、誰に対しても開かれていて、それは子供の感性といったものを大人になっても持ち続けることや、自由でいることや、とらわれのなさというものにつながっている。そんな逸話を「すとれんじ」の人達は面白く思ってくれたのだろう、翌年、ボクは、もきちゃんの通う保育園の夏祭りに出演した。楽器やガラクタを持っていき、ただドンガラガッチャンと動き回ったり、銅鑼を振り回しながら叩いたり、楽しく音を叩いていた。
1982年の2月には、ヴェッダのメンバーで胡弓(二胡)の向井千惠さんと「すとれんじふるうつ」でデュオのライブを行い、「すとれんじ」の2トラ38のオープンリールで録音することになった。録音は加藤さん、写真は木川くん、常連の耕平くんやミヤさんは、今日はカウンターの中でスタッフになっている。平塚養護学校の先生達や、その子ども達をはじめ多くの人が集まってくれていた。まずボクのソロから入り、牛の革を張ったタムタムにギターのストラップを付けたタイコを首から提げ、その場で旋回し、遠心力で浮かび上がったタイコを叩いていくという定番のパフォーマンスから演奏は始まった。
床に平たく置いたバスドラの上に、タイコを積み上げてドコドコ叩き、あるいは空中から大きなシンバルをバスドラの上へ落とし、そのシンバルを叩く。楽器と楽器がぶつかり合ったり、楽器で楽器を叩いたりすることで、思いもよらない音が出てくる、その音を求めてからだを動かし、楽器やガラクタと格闘しながら、新しい音を探していく…、そんな演奏。そうしたせわしないボクとは真逆に、向井さんの胡弓は自分の居場所を動くことなく、まったくのマイペースで音を紡ぎだす。気持ちの高揚が、そのまま音高に現れて、ゆったりと呼吸するように弓を動かし、川の流れのように音がたゆたっていく。
二人の演奏が交わらないのは、二人がヴェッダということもあるけれど、その頃は音楽を作ることに無関心だったということもある。形を作ることと、型破りのことだったら、後者を選ぶ、そんな心情をボクは持っていた。2部の演奏の終盤、それまで大人しく聴いていた子供達が話しかけたり、ケラケラ笑いだしたりする。3歳~5歳ぐらいの女の子が3人。文字通りオモチャ箱をひっくり返したようなボクの演奏を楽しんでくれ、お店にいることも忘れて、オモチャ箱の世界に入り込んでしまったのだろう。「何がそんなに楽しいんだろう?」と思うような心からの笑い声に包まれて、二人の演奏は終わった。
この演奏を編集して、自主製作のLP「風を歩く」(FOOL-001)が、風狂舎からリリースされる。風狂舎は、ボクがイベントを企画するときに使ってきた名前で、FOOLレーベルは85年までの4年間に3タイトルリリースすることになる。タイトルは自由律の俳人・種田山頭火の「けふもいちにち 風をあるいてきた」からつけたもの。この句を教えてくれたのは、仙台市在住の美術家「ダダカン」こと糸井貫二さんで、その前年に友人を介して知り合い手紙のやり取りをしていた。マスタリングはピナコテカレコードの佐藤隆史さん、ディストリビューションはテレグラフレコードの地引雄一さんにお願いした。
ジャケットの写真は「すとれんじ」の木川くんの写真を使い、タイトルや曲名、クレジットなど、筆ペンを使って手書きでデザインしたので、手作り感満載のレコードになった。80年代、当時は東京のアンダーグラウンドな音楽シーンが活況を呈していて、インディーズのレーベルや、自主製作のLP、カセットレーベルなどで多くの作品がリリースされ、流通していた。自分達の感性だけを頼りに、音楽の新しい扉をこじ開けたその音楽シーンは、、「東京の地下音楽」として新たに注目もされてもいるが、ボクのデビューアルバムはさほど話題にもならず、手売りで友人・知人に売るのがやっとだった。
音楽雑誌のレビューはひどいものだったけれど、市民運動の情報紙「社会タイムス」が、ジャケット写真ともども、「無添加・純正・自然の味/音の遊戯は素晴らしい」というタイトルでレビューを掲載してくれた。「こういうレコードを聞くと “ああ、この人も音楽のジャンルやジャズなどにこだわってない人だなあ”とうれしくなってしまう。」、「このパーカッションの音はめずらしいタイプだ。というのは“たたく”ということに『力』を感じさせない、また日本のパーカッションの人たちによくある『間』の感覚もあまり感じられない。むしろ行為から次の行為へのすべり込みの生々しさが楽しい。」と、絶賛してくれた。
この鶴巻温泉の小さなスペースで、デレク・ベイリー、ペーター・ブレッツマン、エリオット・シャープ、サム・ベネットなど、数多くのミュージシャン達がライブを行った。ここでの演奏は皆いい演奏になるので、ボクもよく都内からわざわざ出掛けて何度も聴きに行った。また、小杉武久、ダニー・デイビス、ペーター・コヴァルトともここで共演するなど、この小さな店が、世界の扉を大きく開けてくれた。自主製作した「風を歩く」、小杉武久との「円盤」、ダニー・デイビスとの「ATMOSPHERE」のLP3 作は、今では海外の収集家からも注目されるようなレア・アイテムとなって、「円盤」は海賊版も出ているらしい。
「すとれんじふるうつ」は1995年に大磯へ移転し、ジャズフェスティバルを何度も企画して、ボクも「IMPROVISORS NETWORK」という企画でよく参加していたけれど、2018年、40年にわたる長い歴史を閉じ、店を譲ったということだ。