風巻 隆 「風を歩くから」Vol.21「LOGOS」~ゲント(ベルギー)
text by Takashi Kazamaki 風巻 隆
ベルギー、東フランドル地方の古都ゲント(Gent)、石畳の路地や、絵本に出てくるような三角屋根のギルドハウスが並び、中世の街並みを遺す町の中心部から、運河の橋を渡ったコンゴ通りの一角に、「LOGOS (ロゴス)」というアーティスト・ラン・センターがある。作曲家/サウンド・アーティストでありゲント音楽院の教授でもあるゴットフリート=ウィレム・ラエスと、作曲家/パフォーマンス・アーティストであるモニク・ダルジュによって1968年に設立されたロゴス・ファンデーションは、世界規模の現代音楽や、実験音楽、音響彫刻やパフォーマンスを、助成金を得ながら紹介してきたスペースだ。
大聖堂、鐘楼、運河、石畳…、こうしたヨーロッパ中世からの伝統がまざまざとあるゲントにあって、環境、テクノロジー、身体、創作楽器などをさまざまに交差させながら、音楽のあり方を根底から問い直すような新しい音楽/パフォーマンスアートをロゴス・デュオとして彼らは発表しつづけてきた。ゴットフリートはさまざまなサウンドスカルプチャーを考案し、超音波センサーやコンピュータを内蔵した自作のエレクトロニクス機材で演奏をし、モニクは光や音の造形作品やインスタレーションを作り、ヴォイスやダンスを交えた独自の奏法でヴァイオリンを弾いたり、パフォーマンスを行ったりしてきた。
1988年当時は、1階に事務所とパフォーマンススペースがあり、2階に音響彫刻のギャラリー3階が自宅で、屋根裏の4階にゲストルームがある。自宅のティールームの大きなテーブルの横の壁には、ヨーロッパが中央に位置する大きな世界地図が貼ってあり、これまでに「LOGOS」に出演してきたミュージシャン/アーティストの活動拠点に、虫ピンで印が付けられている。それとは別に、彼ら二人がロゴス・デュオとして公演したさまざまな場所に違った色の虫ピンが刺さっていて、そのどちらも、日本とニューヨークしか知らないボクの想像を超えるほど、世界的な広がりというものを見せている。
1987年の半年をニューヨークで過ごしたボクは、翌年、当時の西ドイツにあったDossierというレコード会社からサム・ベネットとジーナ・パーキンスとのデュオをA面B面にそれぞれ収めたLP『43 Ludlow st NYC』というアルバムをリリースした。88年4月には、運よくアメリカの「Modern Drummer」という雑誌の中の「Downtown Dozen」という記事で、ボクがニューヨークシーンのドラマーの一人として取り上げられたこともあって、ボクは初めてのヨーロッパツアーを企画し、ポール・ハスキンに教えてもらったスペース等にコンタクトをとって、その最初のソロライブがこのゲントの「LOGOS」だった。
ヨーロッパの秋は早く、9月の末でも寒い。成田発のエアランカでアムステルダム空港に着き、電車に乗り換えアムステルダム中央駅に着くと、「地球の歩き方」に載っていた「BOB’S YOUTH」という安宿に宿を取り、その日は街を散歩し、キャフェでハイネケンの生ビールを飲んだり中華料理屋を見つけてラーメンを食べたりした。次の日には、トラムと呼ばれる路面電車に乗って蚤の市へ行き、スエードのジャケットやベストを買った。夕食の後、「ジャズと即興音楽」と銘打った「BIMHUIS(ビムハウス)」へ行き、午後9時からウィレム・ブロイカー・コレクティーフの即興演奏とパフォーマンスを観る。
「BIMHUIS」では月曜日にアマチュアのジャズバンドが演奏する。高校生ぐらいのカワイイ女の子がサックスを吹いたり、大学生ぐらいのステキな子がクラリネットを吹いていたりする。それはもちろんニューヨークの本場のジャズマンが演奏する音楽とは全く違ったものではあるけれど、ヨーロッパではクラシック音楽に対するオルタナティブな音楽としてジャズが市民権を持っているということがここではわかる。ウィレム・ブロイカーのパフォーマンスには、行き着くところまで行ってしまったようなギャグの要素があってちょっとビックリしたけれど、ジャズを楽しむ人達がいるのはとてもうれしいことだった。
アムステルダムから電車に乗って、「LOGOS」の翌日にソロ・コンサートをすることになっていたアインドホ-フェンの「APOLOHUIS(アポロハウス)」に1泊させてもらった後、電車を乗り継いでゲントへと向かう。「LOGOS」のスペースはいかにも手作りといった感じで、広さは公民館の会議室ぐらいでキャパ30人といったところ。そこに、コンサート当日には25人も集まってくれた。持っていったLPも5枚売れ、合計7000フランの収入となる。88年当時ユーロはなく、オランダはギルダー、ベルギーはフラン、ドイツはマルクというように、それぞれの通貨が流通し、国境を越えると両替が必要だった。
ボクのソロは立ったままでタムタムを肩から下げ、バスドラの枠(リム)に付けた14″のシンバルとタムとスティックの使い方で様々な音を紡ぎだしていく。左のスティックのグリップエンドをタムに、チップをシンバルに押し当てて、右手のマレットでシンバルを叩くと、叩いているのが小さなハイハットのシンバルなのに、出てくる音は重低音でその音が揺らいだりうねりを作ったりする。また、マレットを逆に持ち替えて左のスティックを叩くとスティックを叩く木の音とともに、叩かれたスティックに伝わった振動がシンバルを鳴らす。また左手のチップへの圧力を弱めるとシズルのような持続音がでてくる。
また、あるときは、シンバルのカップという中心部分を叩く。とても高い倍音がそこから出てくるのだけれど、そこに何も持たない左手をかざしていくとシンバルからの振動を左手が反射させてシンバルの音を変化させる。それはまるで左手から目に見えないパワーが出ているかのように見え、左手を動かすことで、シンバルの倍音をコントロールすることができる。言葉で説明するとこんなに長くなってしまうけれど、音は、目の前で、瞬時にその形を変えていく。こうした演奏法は、誰に教わったものでもないし、さまざまな即興のパフォーマンスの中で、自分で発見しソフィスティケートしてきたものだ。
即興演奏をはじめて間もない頃、ボクは浅草の和太鼓工房で牛の革を買い求め、自分で細工してドラムのヘッドにした。また、革のヘッドを付けたタムタムにギターのストラップを付けて肩から下げて叩くようになり、そのタイコでボクは自分の音楽のキャリアを積み上げてきた。ダニー・デイヴィスとツアーした頃からバスドラを置くようになり、立ったまま演奏をするのがその頃のスタイルだった。楽器を自作したわけではないのだけれど、自分の音を持ちたいという気持ちがあって楽器に手を加えたことがボクを現代音楽のフィールドに立たせてくれ、さまざまな音をボクは使うようになっていった。
それは誰のものでもないタカシ・カザマキの音で、それをヨーロッパでは「アート」と呼び、誰もやらないことをやり、築き上げたものに対して彼らは最高の称賛を与える。そう、ボクは、ヨーロッパでは即興演奏家ではなく「アーティスト」なのだ。コンサートが終わって、中世の面影が遺る町の中心部へ赴き、「LOGOS」の二人と共にレストランへと繰り出す。今日はお客さんも多かったのでゴットフリートの口もいつも以上に滑らかでベルギービールの薀蓄や、メニューの説明にも力が入る。「これが、ゲントスペシャル」だと言う一品を頼むと、鮭や鱈、ムール貝がたっぷり入ったクリームシチューだった。
美味しいディナーを満喫し、ワインの酔いも体中に染み渡った頃、「ところで日本はどうだい?」とゴットフリートが聞いてくる。「いつか二人で行ってみたいと思ってるのよ。」とモニク。ああ、そうなのか…とボクは合点する。あの地図に押された一つのピンは、別のピンのための一つの取っ掛かりでもあったのだ。当時、彼らの活動に日本の聴衆がどれだけ興味を持つのかということについてボクは少し悲観的で、「新しい音楽への興味を持っている人は多いけれど、今はニューヨークの音楽シーンに注目が集まっていて、ヨーロッパの現代音楽への興味は、それほどでもないでしょう。」と伝えた。
その後、1990年に初来日を果たした彼らは、かねてから親交のあった小杉武久とともに「備前アートフェスティバル」(岡山)に参加する一方、福島県田島町での「田島パフォーマンスフェスティバル」に招待されている。東京では、六本木ストライプハウス美術館で、二日間にわたって「LOGOS-PATHOS~音楽を越境する、音(サウンド)・空間(スペース)・行為(パフォーマンス)」というイベントが行われ、ボディームーヴメントを超音波センサーを使って音に変換していく<HOLOSOUND>等の作品が披露され、また竹田賢一、向井千恵、クリストフ・シャルル、風巻隆と即興演奏で共演した。
1990年の10月、ボクがブリュッセルの「PERCUSSIO」という国際的なパカッションフェスティバルにソロで出演できたのも、彼らの推薦があったからだと思う。また「LOGOS」は、91年にはキャパ150名の三角形のコンサート・スペースを隣接した場所に開設し、92年には、「巨大都市の原生」という東京や大阪のミュージシャン/パフォーマンス・アーティスト達のツアーを受け入れ、イトー・ターリ、向井千恵、風倉匠、石井満隆、フルカワトシマサ、霜田誠二がパフォーマンスを繰り広げた。ボクがゲントに足を運んだことが一つのきっかけとなり、日本とヨーロッパとの交流が活発になったのは確かだろう。「LOGOS」はその後も、ロボット・オーケストラなどの新たなプロジェクトを立ち上げ、現在も精力的に活動を続けている。