風巻 隆「風を歩く」から Vo.25「チヴィタヴェッキア~チューリッヒ」
text & photo by Takashi Kazamaki 風巻 隆
スペインのバルセロナから夜行列車に乗り、地中海に沿ってほぼ1日かけて、イタリアのチヴィタヴェッキアという町へと向かう。チヴィタヴェッキアは古い港町で、その昔、支倉常長がバチカンを訪問した際に上陸した場所でもあり、また、この港から多くの宣教師が海外へと向かった場所でもある。豊臣秀吉の禁教令により長崎で処刑されたペドロ・バプチスタ神父をはじめとする外国人宣教師6人と、日本人信徒20名が、1862年に教皇ピオ9世により、「日本二十六聖人」として列聖されたことをうけ、1864年に「聖ペドロ・バプチスタとその同伴の日本人殉教者達の教会堂」が設立された。
この「日本聖殉教者教会」は第2次世界大戦で空襲をうけ、教会も被害を受けたが、戦後再建され、1951年から56年にかけて、日本人のカトリック画家/フレスコ画家の長谷川路可画伯によって祭壇画・天井画・小祭壇画が描かれ、今に至っている。チヴィタヴェッキアの駅は市街地から少し離れた海沿いにあり、駅と市街地の中間にある「MIRAMARE」という古いホテルに宿をとる。天井の高い部屋はとても落ち着き、窓からは、地中海の夕暮れを見渡すことができた。次の日は日曜日で、早めに朝食をとり海岸に沿った古い街道を歩いて、「聖日本殉教者教会」へと向かった。
実は、この教会の壁画をフレスコで描いたのは、ボクの母方の祖父で、まだボクの生れる前に、ほぼ一人で完成させたものだ。江戸期のキリシタン弾圧で殉教する司祭や、使徒を描いた祭壇画は、京都から長崎までの道中を、自発的に一行に加わった信徒や、信仰を捨ててまで生きながらえることはしないと語った少年のエピソードで表現し、残酷さではなく、少年を含む、信徒たちの気高さを伝えるものになっている。天井画には着物姿の聖母子像や、聖フランシスコ・ザビエル、地域の守護聖人・聖フェルミナなどの聖人たち、そしてチヴィタヴェッキアと縁が深い、支倉常長も描かれている。
左右の側面の小祭壇画には、聖ペテロや聖パウロ、聖アントニオやアッシジの聖フランチェスカといった聖人たちが、物語風に描かれている。天井の最上部近くには、曼荼羅のように一つの目が三角形に囲まれて描かれていた。日本画の手法も織り交ぜながら、独特の淡い色彩と、深く目にしみわたる青を持った一人の画家の、それは、ライフワークと言ってもいいものだろう。ボクらがそこを訪ねたときは、ちょうど日曜学校のような地域の子供たちが集まる時間だったようでギターの伴奏で子供たちが歌を歌っていた。散会を待ってその先生に自己紹介すると司祭の方が現れ、挨拶をする。
その教会へ入ったときの感動は、言いようのないものだった。何より、その天井の青の色が印象的で、これまで、絵葉書や、本で見てきたものとも微妙に違っていた。それは、地中海の抜けるような青空というよりはむしろ、湘南の、深みのある青空に近いものがあるように思えた。1967年、路可は旅先のローマの病院で亡くなり、その葬儀は、この「聖殉教者教会」で彫刻家のファッツィーニがとりしきる形で多くの知人や市民に見守られてとり行われたという。ヨーロッパの旅からしばらくたって「MIRAMARE」というホテルのキャフェは路可がよくコーヒーを飲みに出かけていたところだということを知る。
チヴィタヴェッキアから、またスイスへと向かう。スイスの日曜日の街は、どこも店が閉まっていてひっそりとしている。露店の焼栗の匂いがたちこめ、皆、何をするでもなく、店のウインドウを覗き込んでいる。どうやら今日も、一日キャフェで暇をつぶすことになりそうだ。昨日はチューリッヒの「ローテ・ファブリーク Rote Fabrik」というスペースのキャフェにいた。そこは、古いレンガ造りの工場跡をいくつかの団体・個人が共同管理しているところで、ギャラリーやパフォーミングプレイスなどがあり、壁の落書きやポスターで雑然としているところが、チューリッヒの町では、唯一落ち着ける場所だった。
そこのコンサートを企画するフレディ・ボガードという人と連絡がとれ、会いたいと伝えると、今晩あるライブで会おうとなり「カンツライkanzlei」という場所へ向かう。そこも、元は小学校だった建物を今はカルチャー・センターとして共同管理し体育館がホールになっている。「UNKNOWNMIX」という有名なロックバンドにホールは超満員だった。自分達の場所を獲得するために、アーティストやそれを支える人達が、街でデモを繰り返し、行政側を直接交渉で追いつめ、自分達にとって必要なことであることを認めさせる行動をしたたかに繰り広げてきた、その結果としてこうした場所は存在している。
「新しい音楽」といったニューヨーク発の文化さえもいつのまにか「商品化」され、企業の宣伝媒体のように使われていく日本のお寒い状況を考えると何ともやるせないが、「だったら、君がやってみればいいじゃないか。」と、事もなげにそそのかすフレディー。そう、確かにやってみればいいのだ。そう気安く思えるのも、海外にいる気軽さからだろうか。外の風はとても心地よく吹く。そう、日本にいるだけでは、分からないことが多すぎるのだ。ヨーロッパにいるのもあと二週間だし、ここスイスはもう冬本番のような寒さになっていて、町にはクリスマスのイルミネーションが、気が早くも用意されている。
11月11日、宿にしていた修道院からトラムに乗ると、顔にペインティングをした子供達と乗り合わせる。街を歩くと、そこここで仮装した風変わりな楽団が演奏をしている。知人にそのことを話すと、それは春に行われるカーニバル(ファスナハト)の開始を祝うお祭りだという。子供達にしても楽団にしても、誰かに管理されているという風ではなく、自分のやりたいことを自由にしているといった感じで微笑ましい。その日だけ、町がテーマパークになったような、そんな「お祭り」のなかに、音楽が身近にあり誰もがそれを楽しむヨーロッパの風土や、キリスト教以前の西欧の古層といったものを感じた。
アーティストや文化人のたまり場という「CARDINAL」というキャフェでビールを二杯、さっきから、客の一人が、上手くもないピアノを弾いている。やれた事と、やれなかった事を考えると、やれなかった事の方が多かったような旅だったけれど、ヨーロッパの「人の動き」が、おぼろげながら分かってきたし、様々な場所の実践に直にふれてきたことは、自分にもプラスになっているだろう。ここでもやはり、即興演奏には人が集まりにくく、レコードはなかなか売れない。「即興」のミュージシャンが多いわけでもない。ニューヨーク、ヨーロッパと動きながら、自分のフィールドを確かなものにしなくてはと思う。
12月4日、明大前のキッド・アイラック・ホールで「冬の花火」という5時間のコンサートをしようと思い、ミュージシャン達と連絡をとって、企画を進めていく。大友良英、しばてつ、篠田昌已、黒田京子、佐藤通弘、早坂紗知、大熊ワタル etc…、5つのトリオの、そのどれもにボクが出演するというもの。その頃は、北里義之さんの作るミニコミ「ORT LIVE」が、トーキョーの音楽シーンをしっかり紹介してくれていて、ミュージシャンのネットワークも広がっている頃だった。形のまだ定まらない、漠としたヨーロッパみやげをいっぱい背負って、「昭和」の終わろうとしている日本へ、ボクは帰っていった。
「冬の花火」は結局、大友良英+イム・スウン、しばてつ+渡辺由美子、篠田昌已+黒田京子、早坂紗知+佐藤通弘、大熊ワタルというゲストとのトリオ+デュオという形で行われた。演奏の前にそれぞれと簡単な打ち合わせをして「演奏への入り方」を確認し、それぞれの演奏を際立たせるようにした。キッド・アイラックのピアノはアップライトで調律も確かではないのでピアニストには少し酷な企画だったかもしれないけれど、キッド・アイラックはボクの本拠地のような場所としてずっと使ってきたところだったので、そこで行うことへの思い入れが強く、長時間のライブには多くの観客が集まってくれた。