「オト・コトバ・ウタ」(5)
「伊豆下田に一夜だけの宗教を見た」(上)
text by Yoshiaki ONNYK Kinno 金野ONNYK吉晃
1. 「ニュー・ジャズ・シンジケート」:怪物

1974年、原尞(ピアニスト、小説家、1946~2023)の呼びかけで結成された「ニュー・ジャズ・シンジケート」は、当時幾つかあったフリージャズ志向のアンサンブルの中でも、比較的大人数であっただろう。最初のポスターには十数人の名前と顔が明記されている。いかにも時代の雰囲気が伝わる侠気ある顔ぶれだ。その活動は51年後の今も継続していると言ったら驚かれるだろうか。というよりも、休む事無く続いて来たのだ。
それは庄田次郎(1949~)というミュージシャンの生き様そのものだから。
ニュー・ジャズ・シンジケートの東京での活動が一段落し、庄田が故郷の下田市に戻り、ジャズバー「チェシャー・キャット」を開店したのは、44年前の1981年。以来そこに多くのミュージシャンを呼び、また自ら日本全国、世界を股にかけて大道芸的パフォーマンスと共に繰り広げて来た。
その風体たるや、ボディビルで鍛え、日焼けした肉体、モヒカン(現在は風前の灯)に、紅白絵の具で歌舞伎か京劇のような隈取り、赤い襦袢を片脱ぎ、褌を翻し、手にしたポケット・トランペット、サックスを吹き鳴らし、ピアノを響かせる。見た目も派手だがとにかく音は大きい。何十人で演奏していようと庄田が吹くと注目が集まる。
また庄田は各地の懇意の店との連帯を忘れず、路上パフォーマンス(各地歩行者天国で)で出会った侠気の人々とたちまち意気投合し、集団即興の環に巻き込んでしまうのだ。
そして庄田は、毎年8月の第4土曜日、静岡県下田市、市民文化会館小ホールで午後三時から九時まで、二部構成の「フリージャズ・コンサート”SPIRITS REJOICE”」を開催する。関東一円のみならず関西、東北からも三十人弱が集う。
「魂の喜び」、アルバート・アイラーのアルバム・タイトルにもなったこの言葉の下に、メジャーな、コマーシャルなシーンと一線を画した、まつろわぬ民が、庄田の呼びかけに応えて現れる。各自楽器を持参し、またそれぞれの身体的パフォーマンス、あるいはインスタレーションや、ライブ・ペインティングの備えを携えて。
かくいう私も2009年からこのイベントに参加して来た。ただ、毎年ではなく平均して2年に一度、今回で十回目くらいになるだろうか。
初回には全ての参加者と初対面、驚く事ばかりだったが、すぐに馴染んで色々な共演を楽しんだ。しかしそれは第一部のみ。第二部には、庄田の用意したシンプルな曲を全員がユニゾンや適宜ハーモニーを加えながら、また庄田の指示でソロや、各種のパフォーマーに主役を預けながら、客席まで巻き込んで盛り上がる。とはいえ純粋に聴衆として来る人数は、次第に減って来たのは間違いない。つまりは演奏者、パフォーマーの相互の交歓の場としての性格が強くなって来たように思う。
庄田は今年76歳になる。最近体調を崩し、宴でも以前ほど大酒を飲み、呵々大笑ということはなくなったが、いざ演奏するとそのパワーは誰にも負けない。なにしろこの祭、”SPIRITS REJOICE”は、彼のライフワークだから。そして彼が演奏をする場では、常にニュー・ジャズ・シンジケートが発生するのだ。
それは原尞が目論んだものとは違うのかもしれない。しかし、ニュージャズの名で、その場で生まれ消えて行く音楽を呼び、常に新しい血を注ぎ込むことを否定はしないだろう。
2. 美しい日本の私:魍魎
と、ここまで私は、下田のフリーコンサートに好意的な視線をもって紹介して来た。
しかし、私がこのイベントに見たものは決して、「魂の喜び」でも、開かれた音楽の世界、素晴しき即興演奏ではないのだ。それは言葉を替えて言うなら「時代閉塞の現状」とでも呼びたいような息苦しさであった。この言葉は石川啄木(1886~1912)が1910年に書いた評論のタイトルである。いや、さらに言えば「時代閉塞」というより「我々の生きる場の齎す同調圧力と認識の限界」とでも言いたくなるのだ。
その二番目の発見は舞踏にあった。
何故第二なのか。それは第一の発見を当の昔に音楽そのものに見つけていたからだった。それはまた書かなくてはならない。下田に集った舞踏家のうちで、最も注目されるのは細田麻央である。彼女は長く庄田と親交があり、大変に信頼されている。確かにその表現力は群を抜いていた。
彼女は、かの俳優、詩人、ダンサー、芥正彦(1946~)の弟子である。芥はまた阿部薫(1949~78)をデビューさせたことでも知られる。
庄田が敬愛した故杉田誠一(1945~2024)もまた彼女を高く評価した一人だ(今回のライブは杉田への追悼と記されていた)。
が、私の裡に疑問は湧きあがる。
「何故女性の舞踏家は、結局誰も彼も同じに見えるのか?」
これは決して貶めて言うのではない。彼女が凡庸だというのではなく、私はまさに彼女を基準として見ているのだ。
言い換えれば、彼女の向こうに「日本の舞姫」「日本の舞踏(ブトウ)」を見ているのである。
それは、伝説とも神話とも創作とも言えるイメージ、原型、アーキタイプの系譜である。
恋の為に放火し半鐘を鳴らす八百屋お七(1860年代)なのか、これもまた恋ゆえに変化して僧を焼き殺す清姫(1742年初出)なのか、天岩戸の前で裸身を晒して踊り狂うアメノウズメなのか。それは、死を賭した舞である。
いや、舞とは神へ自らを奉納することであり超越的でなければならない。集団的共感を齎す「踊り」とは異なるのだ。
それに対して、男性の舞踏家を見ても、私の印象は、やはり土方巽(1928~86)の遠い谺としか思えないのだった。
はたまた、何故男性のアルトサックス・ソロはみな同じに聴こえるのか。
特にそれがフリージャズの影響を帯びている場合。
それは言うまでもなく阿部薫の呪縛ではないだろうか。アイラーでも、オーネットでも、コルトレーンでもなく。
小説家を諦めた阿部薫はアルトサックスを選んだ。間章(1946~78)と出会い、名盤「なしくずしの死」(1975)を吹きこんだ。
男性は、アルトでソロをやってそれをライフワークのように考える。あたかも修行僧の行脚のように。
円空(1632~95)や木喰(1718~1810)、あるいは西行(1118~90)、山頭火(1882~1940)など、自らを追放し、孤独を供とする死出の旅路。
日本のサックス・ソロは、いわばひとつの詩の吟行、書跡~遺偈なのである。いや、それがタナトスのベクトルならば、そこにエロスの影を見ても良い。ならばサックス・ソロは、オナニーなのか。
かつてチベット密教では、父母仏とも呼ばれる交合した仏の象を前にして瞑想し、その中で空行母(ダキニ)、すなわち智慧の象徴と合体することを一段階とした。
ならば、間章がいみじくも言った「未達のジャズ」「ジャズの死滅」というダキニを求めて、サックス奏者は「彼方」へとサウンドを射出するのか。
私は下らない妄想をしているのだろうか。
さらに余計な事を書いてしまおう。いつかは書かなければならないのだから。灰野敬二(1952~)のウタと轟然たるギターサウンドのエピゴーネンも多い。
成田空港建設に反対する『三里塚幻野祭』(1971)があった。
「高柳昌行ニュー・ディレクション」が野次られ、「頭脳警察」は「武器をとれ!」と聴衆を煽動した。
そこで灰野は「ロスト・アラーフ」を結成して咆哮した。まさに阿鼻叫喚を地でいく声の権化。
その後、彼はあたかも語り物の伝統芸能のように、弦楽器~エレキギターを手にした。そのサウンドは声の延長ともいえた。強烈な弦の「かきむしり」で、聴く者の精神にひびを入れると、そこに染込む様に語りかけた。
このオトもまたひとつのニホンである。
畢竟、土方、阿部、灰野、お七が原点ではない。
意図せざる模倣者達も、土方、阿部、灰野、お七を見て刺激されたのではない。
彼らが日本人の心性を発見した? いや日本人を発見した? 「忘れられた日本人」を?
それは宮本常一(1907~81)が1960年に世に問うた名著のタイトルなのだが。
(続く)
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