Live Evil #32「ヴァネッサ・ブレイ+山口コーイチ/ピアノな夜」
2018年4月17日@サラヴァ東京
ヴァネッサ・ブレイ(p)
山口コーイチ(p)
text: Kenny Inaoka 稲岡邦彌
photo: Izuru Aimoto相本 出
突然の知らせだった。
1ヶ月後のライヴをブッキングして欲しい。
しかも、ピアノ・ソロのデビュー・ライヴ。
ポール・ブレイを師と仰ぐピアニストの藤井郷子が、師の次女から受けた依頼。東京広しといえどもピアノ・ソロにふさわしいヴェニューが1ヶ月前に押さえられるはずがない。物見遊山なら断るべきだ。藤井さんから連絡を受けた僕は母親のキャロル・ゴス(ヴィデオ・アーティスト)にメールを入れた。「いや、真剣よ」という返事。メールには彼女の生い立ちと父親ポールとの関わり、ソロ・アルバムをレコーディング済みなどが綴られ、娘を思う心情が溢れていた。藤井さんと僕は、1999年ポール・ブレイのソロ・ツアーを共催した間柄だ。ポールは僕のアイドルであり、だからこそ1976年のトリオ・ツアーを仕掛け、1993年には自身のレーベルのためにNYでトリオとソロのアルバムをレコーディングしている。
藤井さんが八方手を尽くし、渋谷のサラヴァ東京のブッキングに成功したと伝えてきた。ポール・ブレイに私淑する渋さ知らズのピアニスト山口コーイチとダブル・ビルとのこと。限られた時間とデビュー・ライブに対する配慮か。サラヴァ東京は、ブリジット・フォンテーンの『ラジオのように』で知られたフランスSaravahレーベルのオーナー夫妻が日本の拠点としてオープンしたサロン風ライヴ・スポットである。結果的には、「才能の実験場」「楽しみながら文化の発信をするスペース」をコンセプトとするサラヴァ東京は、まさしくヴァネッサ・ブレイの試みにふさわしいヴェニューではあった。
渋谷駅から5,6分。若者で賑わう通りを経て閑静な松濤地区の入り口にあるビルの地下。一歩足を踏み入れるとそこは喧騒の渋谷とはまったく遮断された別世界となる。開店から7,8年が経過したサラヴァ東京は居心地の良いエイジングの表情を見せていた。黒のブルゾンに大胆なスリットの入った黒のタイトスカート、大きな黒のつば広のハットをかぶったヴァネッサはちょっと場違いな感じさえする雰囲気である。一方の山口は大柄な体躯をパーカーで包み、ニットのキャップにスニーカーというカジュアルな出で立ち。
帽子をかぶったまま演奏していたヴァネッサは、やがて帽子を最中に回し、ついにはステージに投げ捨てた。彼女の指先から迸るのはアブストラクトなフレーズの断片と叩きつけるようなクラスターの連なり。3歳の頃からピアノに慣れ親しんでいるとはいうものの、どこかピアノを畏怖するような接し方である。ピアノはほぼ独学で父親のピアノが好きというだけあり、背後に父親のピアノが見え隠れするが、一音の重み、存在感、語り口が父親の域に近づくには当然のことながら相当の時間と経験を要するはずである。彼女によれば、東京の印象を綴った、ということになる。
一方の山口はピアノがすでに身体の一部になっているかのように手慣れた扱いを見せた。ヴァネッサが青いりんごなら山口はベテラン・シェフの見事な手さばきだ。流れるような指さばきの中から<枯葉>と思しきフレーズから何度も<オール・ザ・シングス・ユー・アー>のテーマを浮かび上がらせたが、これは1999年のポール・ブレイの新宿ピットインでの演奏に倣ったとのこと。
それぞれのソロのあとは二人の連弾。低音部を受け持っていたヴァネッサが途中で高音部に移るなどのサービスを見せるなど、やっとリラックスした風情。低音部のヴァネッサが右手を伸ばして山口の高音部に進出したり、メロディを弾く山口に内部奏法で対応したり、山口のリズム・パターンにピアノのボディを叩いて応えたり、茶目っ気さえ見せた。
終演後、彼女から「時差に慣れるため3日前に東京入りした」と聞かされ、母親の言う通り東京デビューが「本気だった」ことを確認した。しかし、1カ月足らずでは集客に無理があったのは事実。
父親を引き会いに出されるのが嫌で音楽学校には行かず、仕事ではピアノも弾かず、前回のバンドでの初来日ではギターとヴォーカルを担当していた。父親の死後2年が経過して、やっと呪縛が解け、これからはピアノに専念するという。父兄の一人として、これからも温かい目で見守って行かねばならないだろう。