ある音楽プロデューサーの軌跡 #43 「“偉大な興行師” 鯉沼利成さんとの仕事」
text Kenny Inaoka 稲岡邦彌
僕がディレクター/プロデューサーとして現役だった70〜80年代、レコード会社にとってミュージシャンの来日は最高のプロモーションのチャンスだった。プロモーターの企画に相乗りするだけではなく、レコード会社からプロモーターに来日の企画を持ちかけたり、あるいは、サポートを負担していわゆるプロモーション来日を請け負ってもらったりもした。レコード会社の間では、ミュージシャンの来日は“一粒で3度美味しい”(グリコの“一粒で2度美味しい”をもじって)というキャッチフレーズさえ生まれた。つまり、ミュージシャンの来日が決まると、プロモーションの機会が3度ある、というわけだ。まず、来日前のメディアと店頭でのプロモーション、来日コンサートのライヴ放送、取材、3度目がコンサート・レポートやインタヴューのメディア露出、というわけだ。さらには、コンサートのライヴ・レコーディングやスタジオ録音。レコード会社からプロモーターにはフライヤーやプログラムへの名義/広告掲載料が協賛費として支払われる。レコーディングをした場合は、航空運賃の一部を協力費としてレコード会社が負担するなど、両者の関係は非常に密だった。レコード会社のプロデューサー/ディレクターにとってプロモーターと親密な関係を築くことは重要な業務のひとつだったといえよう。
プロモーターは経営方針や社長の音楽的嗜好で招聘するミュージシャンが決まってくることが多いので、必然的に複数のプロモーターと付き合わざるを得ない。僕が最初に知り合ったのは、神原音楽事務所。クラシック中心だったがジャズもわずかだったが扱っていて、担当はのちに独立してもんプロダクションを立ち上げた立教OBの西蔭嘉樹。アール・ハインズ(p) のソロを招聘し、シカゴDelmarkレーベルの『At Home』というやはりソロ・アルバムをプロモートした。西蔭氏との最大の仕事は1976年のポール・ブレイ・トリオの招聘。バップ系ジャズが好みでポール・ブレイとは無縁だった西蔭氏を説き伏せ、ゲイリー・ピーコックを復帰させ、ヤマハの合歓ジャズ・フェスでの演奏をライヴ収録した『Japan Suite(日本組曲)』(Improvising Artists)という名盤を遺した。
アール・ハインズの来日とほぼ同じ頃、シャープス&フラッツOBの鯉沼利成さんが独立して立ち上げたあいミュージックでマル・ウォルドロン(p) のソロ・ツアーを企画。独Enja のホルスト・ウェ—バーと契約したマルの『ブラック・グローリー』というトリオ・アルバムで付き合いをした。鯉沼さんは非常に進取の気性に富んだ人で後発のトリオレコードが取り上げる新しいアーチストやジャズに暖かい目を向けてくれた。本人はフランク・シナトラの大ファンだったようだが、ビジネスに個人的な趣味を介入させることはなかった(ドラマー志望だったので、スタンダーズの新譜が届くとジャック・ディジョネットのドラミングに聞き入っていた)。鯉沼さんとの最初の仕事は、1973年5月のセシル・テイラー・ユニットのライヴ録音。この時、鯉沼さんが菅野沖彦さんをエンジニアにイイノホールで録音したセシルのソロ・アルバムを買い取りライヴ録音と合わせてリリースしたところ、ソロ・アルバムがジャズ・ディスク大賞の『国内最優秀録音賞』に輝いた。ライヴ録音とソロのアートワークは鯉沼さん推薦のデザイナーが担当したが、その斬新なデザインが大きな話題となった。鯉沼さんのヴィジュアルに対する鋭敏な感覚は、あいミュージック/鯉沼ミューックで制作されたコンサート・ポスターやプログラム、鯉沼さんがレーベル・マネージャーを務めたFlying DiskやEast Windからリリースしたアルバムのカヴァーを見れば歴然としている。
鯉沼さんに最初に売り込んだ企画は、Strata Eastレーベルの看板、チャールス・トリヴァー(tp) のカルテットMusic Inc.。同じく1973年の12月のことだったが、この時予定していたピアニストがドラッグの経歴でビザが下りず大騒ぎとなった。外務省に日参してオリジナル・メンバーのスタンリー・カウエルの入国が認められ、結果的には瓢箪から駒が出た。この時、制作したのが『Live in Tokyo』で、権利を日米で分け、本国では本家Strata Eastからリリースされた。あいミュージックで制作した来日ポスターが素晴らしかったので、ジャケットにも使わせていただいた。ビザのトラブル解決に両社で対応し危機を切り抜けたことから一挙に信頼し合う関係が築かれた。その後、鯉沼さんが企画したいわゆる前衛3部作、セシルに続くドン・チェリーとアート・アンサンブル・オブ・シカゴの招聘では、鯉沼さんの号令一下、各レコード会社のディレクターが参集して何度もプロモーション会議を開き、メディア露出や広告出稿を分担、ツアーを成功に導くべく各社が協力してプロモーション活動を展開した。鯉沼さんの親分肌というかカリスマ性が発揮された側面である。
photoⓒIchiro Shimizu 清水一郎
鯉沼さんとの仕事のハイライト、キース・ジャレットの特にソロ活動でのコラボレーションは1976年に始まる。鯉沼さんは、1974年と1975年にキース・ジャレット・カルテットのツアーを組織、各年のツアーの最後にソロ・コンサートを開催していたが、キースのソロだけのツアーにはキース自身と鯉沼さんの大英断が必要だった。キースのソロは完全なインプロヴィゼーションで厳しい体調とメンタルの管理が必要とされる。決断にはECMからリリースされたスタジオ録音の『フェイシング・ユー』とライヴ録音のLP2枚組『ケルン・コンサート』の成功が必要だったことも事実である。キースのソロによるツアーはアメリカのジャズ・レーベルと組んだ日本のプロモーターと鯉沼さんの競り合いになったが、キースの要望を入れてすでに日本で2度のソロ・コンサートを開催していた実績とトリオレコードを通じたECMからの説得で鯉沼さんの手に落ちた。以来、キース・ジャレットの信頼を勝ち得た鯉沼さんは引退するまで日本でのキース・ジャレットの専任プロモーターとなった。その間、鯉沼さんがある事情であいミュージックを閉鎖、蟄居していた時期があった。来日が途切れてプロモーションの展開に支障を来たした僕は、親しくしていたプロモーターのTCP亀川衛社長を帯同、NYでキースの説得に当たった。鯉沼さんが会社を畳んで困っている、ついては亀川さんを新しいプロモーターとしてお願いしたいのだが。話を聞いたキースの返事はこうだった。「じつは自分も信頼していた幼友達のマネージャーにギャラを全部持ち逃げされたんだ。鯉沼もそういう状況なら一緒にふたりで再起の道を歩みたい。すぐ電話してくれないか」。あいミュージック時代から親しくしていた鯉沼さんの主要スタッフのひとり清野哲生にその場から電話をかけ鯉沼さんにキースの鯉沼さんに対する熱意と親愛の情を伝えてもらった。鯉沼さんがキースの意を受け「鯉沼ミュージック」として事業を再開したのは1982年のことだった。
話が飛んでしまったが、鯉沼さんが初めてキースのソロ・コンサートを組んだのは1976年11月。京都から始まり札幌で終わる8回のツアーだった。この時、“初めて”にこだわる鯉沼さんが挑戦したのはクラシック以外のコンサートには門戸を閉ざしていたNHKホール。NHKのOBでトリオ株式会社の音楽事業部(トリオレコード)担当役員を務めていた岡誠を通じてNHKを説得することに成功した。僕自身、新しいことに挑戦することは嫌いな質(たち)ではないので、ECMにツアーのライヴ・レコーディングを申し出た。実現までには相当な時間と苦労を要したが、キースと鯉沼さんにとって初のソロ・ツアー、そして初の全公演ライヴ・レコーディングと初物づくしの企画の結果が10枚組LPボックスセット『サンベア・コンサート』として世に遺ることになった。考えて見れば、そもそもECMの総師マンフレート・アイヒャーとキース・ジャレットこそ色々な意味でチャレンジャーではなかったか。経緯の詳細は拙著『ECMの真実』(河出書房新社)に記した通りである。急いで付け加えるなら、もうひとつの初物、鯉沼さんのチャレンジング・スピリットが発揮されたのは2年後の1978年12月12日に開催されたキース・ジャレットの武道館ソロ・コンサートである。武道館におけるピアノ・ソロ・コンサートは空前にして未だに絶後だと思われる。
キース・ジャレットのソロ・ツアーはその後も続いたが、音楽内容は徐々に変化していった。溢れ出るイマジネーションに乗って鍵盤の上を走っていたキースの指が内省を反映す流にしたがって緩やかになっていったのだ。そしてついには小品の形をとるようになった。1984年、ついに「Last Solo」ツアーが組まれることになった。ゲイリー・ピーコック(b)とジャック・ディジョネット(ds)とのトリオにシフトしていったのだ。しかし、「Last Solo」から4年後の 1987年、突然、「Solo Concerts Again」が開催されることになった(ただし、サントリーホールでの3公演のみ。2 公演の予定が希望に応え切れず3回目が追加公演)。じつは、その最初の公演、1987年4月11日のコンサートがキース・ジャレットの日本における100回目のソロ公演に当たったのだ。ECMのマンフレート・アイヒャーからは僕に100回目の記念公演をライヴ収録したいので録音の手配をするようにとの要請が届いた。本誌でCDの録音評を続ける及川公生さんをエンジニアに起用、録音されたのが『Dark Intervals』(ECM1379)というわけだが、その詳細については稿を改めたい。この100回目のコンサートを開催するに当たってキース・ジャレットが鯉沼さんに贈ったメッセージが当時のリーフレットに掲載されているので再録したい;
Serious Drinking nad Inner Vigilance
鯉沼氏とは、13年間にわたって、ビジネス・リレーションシップ以上のものを発展させてきた。我々、お互いに共通する関心は ”価値ある音楽” を提供することであり、そこで育まれた ”友情” は相互の信頼でどんどん深めている。また、鯉沼氏は ”耳” のあるプロモーターである。私の経験からして、他に彼のような人物を知らない。それは、あらゆる音楽ビジネスににあってもいえることだ。日本での私の公演が、今回100回目を数える。そのすべてが鯉沼氏のプロモートである。この場を借りて、私は鯉沼氏に感謝したい。キース・ジャレット
鯉沼さんとのコラボレーションがすべて順風満帆だったわけではない。最大で唯一の破綻は1987年のLive Under The Sky。近藤等則 (tp)の紹介を受けて付き合いのあったビル・ラズウェルの意を受け、超弩級バンドSXLをライヴ・アンダー・ザ・スカイにブッキングしてもらったのだ。この時、“ライヴ・アンダー・ザ・スカイ”は10回目の記念公演で、マイルス・デイヴィス、ウェイン・ショーター、ジャック・ディジョネット、ガッド・ギャング、ワールド・サキソフォン・カルテット、KAZUMI Bandなどそうそうたるバンドが顔を揃えていた。加えて、コルトレーン・トリビュート・バンドとSXLが記念公演のために編成されたスペシャル・バンドだった。バンド名SXLの由来は、Sakamoto x Laswell、つまり、坂本龍一とビル・ラズウェルという東西の両雄がコ・リーダーというか対峙する実験的なバンドだった。両雄の他に、韓国からパーカッション・アンサンブル「サムルノリ」(四物遊撃)、インドからヴァイオリンのシャンカール、アフリカ・セネガルからパーカッションのアイーヴ・ディーング、扇のカナメに座るドラマーはヘビー級チャンピオンのロナルド・シャノン・ジャクソンという強面揃い。問題はリハーサルで起きた。いつまで経っても坂本龍一が来ないのだ..。SXLのツアー・マネージャーでもあった坂本のパーソナル・マネージャー生田朗の動きがおかしい。リハが終わる頃になって坂本が突発性難聴炎で東大病院に入院したらしいという情報が入った。メンバーの間ではこの強面のメンツに恐れをなしたのではないか、との噂さえ流れる。阿部薫らとフリー・ジャズを演奏していた頃の坂本とは違い、当時の坂本には受け入れ難い音楽性だったのかも知れない。当然、鯉沼さんから吊るし上げられた。10回目の記念公演のメイン・バンドのひとつの主役が欠場になったのだ。出演を頼み込んだ僕が吊るし上げられるのは当然だ。坂本龍一の欠場が動かし難いものであると確認されると鯉沼さんの動きは早かった。当時もっとも影響力のあった写真週刊誌『FOCUS』の記者を東大病院に帯同、入院中の坂本の写真を撮影し『FOCUS』に掲載、ファンに欠場を納得させる一方で、坂本のお詫びコメントをカセットテープに録音、コンサートの冒頭で流したのだ。コンサート・プロモーターとして当然の対応とはいえ、鯉沼さんの、ファン=お客様に対する並々ならぬ責任感の発露に胸を熱くしたものだ。一方で、プロモーターとしての鯉沼さんのプライドに傷を付けたことに対しは悔やみきれないものがあった。
鯉沼さんは僕より8歳年長である。僕が現役を退いた後も鯉沼さんは武満徹を音楽監督に迎えジャンルを超越した音楽イベント「Music Joy」を開催し続けた。キース・ジャレットとチック・コリアによるモーツァルトのピアノ・コンチェルト、ジョージ・ラッセル・オーケストラ、武満徹映画音楽特集などなど。「鯉沼さん、プロモーターとしてやり残したことはないでしょう?」「プロモーター? 俺は興行師だよ!」。”興行師”という言葉に鯉沼さんのオリジナル企画に対する自負、興行に対する勝負師的な勘と読みへの自信が窺われた。偉大な興行師・鯉沼利成と音楽人としてのキャリアの一部を共有できたことは僕にとって光栄かつ名誉なことである。
追記:
1986年のいつだったか..電通のスポーツ文化事業部長から突然の呼び出しがあった。NYの菊地さん(菊地雅章)に仕事を発注したのだがいつまで経っても上がってこない。鯉沼さんに相談したら「稲岡さんに頼みなさい」と言われました。ついては、すぐNYに飛んで仕事を完遂させてきて下さい。ちょっと待って下さいよ。僕はすでに韓国のサムルノリを預かっています。再来年のソウル・オリンピックまで彼らはスケジュールが目一杯なのです。これ以上無理ですよ。しかし、鯉沼さんの推薦だから...。かくして僕は1988年のオリンピックを挟んで5年間、菊地雅章とサムルノリという日韓の超ハード・コアと苦楽(果たして、楽はあったか?)を共にすることになる。実は鯉沼さんの僕に対する密かなリベンジだったのではないだろうか?
@Dentsu,NY