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GUEST COLUMNNo. 281

空気を造形する楽器 ジョエル・ライアン by dj sniff

text by dj sniff
photos courtesy of dj sniff

 

今から21年前、大学生だった私は仲良くしていたチェリストの徳澤青弦に「すごいサクソフォンの人が来日するから」と誘われて一緒に神奈川県民ホールにコンサートを観に行った。クラブミュージックやそのサンプリングネタのジャズやソウルしか聞いていなかった私はその日に出演した大友良英とSachiko MのFilamentそしてエヴァン・パーカー、ジョエル・ライアン、ロレンス・カサレイ、ポール・リットンからなるカルテットのライブに大きな衝撃を受け、その日から即興音楽家になることを決めた。と、書きたいところだが、コンサート中ずっと「わけがわからない音楽だな」と思い、ラップトップの人たちはそのうちにビートをかけるのだろうと期待していたものの、結局そんな展開にはならずにがっかりして帰って行ったのをよく覚えている。しかしこのコンサートに出演していた人たちとは5年後、10年後、15年後に再び出会い、そのことが私の音楽人生にとってとても大きな出来事となってゆく。

『dj sniff / ep』(psi)

その中でもジョエル・ライアンは特別な存在だ。2003年に私が初めて参加した電子楽器とコンピュータ音楽の国際学会で声をかけてくれたのは彼であったし、その数年後、インターンとしてアムステルダムの電子楽器センターSTEIMに行くことになり、深夜に到着した私をゲストハウスに迎え入れてくれたのも彼だった。また2008年にSTEIMの所長でありジョエルと非常に近い関係だったミシェル・ヴァイスビズが亡くなった時、彼の妻クリスティーナと娘のローザ、ローザの世話をしていた私の妻と私、そしてジョエルで深い悲しみと喪失感を感じながらもこれからどうするかを延々と話し合った。その後、STEIMのアーティスティック・ディレクターとして新しい所長と対立し、オランダの文化助成制度に翻弄されながらも何とか新しいことをやろうとしていた私をいつも肯定し、一番サポートしてくれたのもジョエルだった。もちろんエヴァン・パーカーにも紹介してくれ、その結果パーカーのレーベルpsiからリリースした私のCDはまるで通行手形のように伝統あるヨーロッパ・フリーインプロのツアーサーキットやフェスティバルへの参加の機会をくれた。

そんなジョエルは1945年にアメリカ北東部のコネチカット州で生まれ、クエーカーと呼ばれるプロテスタント系宗派の家庭で育った。物理学を学ぶためにカリフォルニア州立大学サンディエゴ校(UCSD)に入学するが、次第に州北部のベイエリア文化や音楽シーンに惹かれ、現代音楽の作曲家ルー・ハリスンのいるサンタクルーズに移り住み、そこでジョン・ケージやテリー・ライリーのイベントに参加したり、ソニック・アーツユニオンのメンバーであったゴードン・ムンマや哲学者ノーマン・ブラウンの授業に潜り込んだりした。またFMシンセの開発で知られるジョン・チャウニングのスタンフォード大学での授業にも聴講生として参加し、デジタル・シグナル・プロセッシング(DSP)を学ぶ。紆余曲折しながらもサンディエゴに戻ったジョエルは卒論を物理学ではなくてラディカルな哲学で知られるヘルベルト・マルクーゼのもとで書き上げる。そして当時UCSD音楽学部の学部長だったポーリン・オリヴェロスの勧めでオークランドの電子音楽・実験音楽の名門ミルズ・カレッジに入学する。ミルズではムンマと同じくソニック・アーツ・ユニオンのメンバーだったロバート・アシュリーやデヴィッド・バーマンのもとで学び、同期にはメディア・アーティストのポール・デマリーニスや電子音楽家のラティーシャ・ソナミがいた。そこでジョエルは自作アナログシンセとデイブ・スミスが作った最初期のシークエンサーで即興音楽家とセッションをしたり、AppleⅡコンピューターとデジタル音響処理用の拡張カードを使って作曲作品を作ったりするようになる。卒業後はAtari社のDAW開発に携わりそのお金でヨーロッパに行き、パリの文化機関IRCAMでトロンボーン奏者のジョージ・ルイスと合流する。IRCAMでのレジデンシーが終了し、これからどうするという時期にSTEIMの所長になったばかりのヴァイスビズに招待されて、二人ともアムステルダムに移住する。ルイスは1年でオランダを離れるが、ジョエルは現在に至るまでアムステルダムに住み続け、そしてSTEIMのみならずオランダの実験的電子音楽の発展に大きく貢献をする。

STEIMに到着したジョエルはまず新入りのエンジニア、フランク・バルデやトム・デマイヤーにプログラミング言語Forthを教え、ルイスが去った後は90年代の初めまでテクニカル・ディレクターとしてセンサー制御に特化したミニコンピューター「SensorLab」の開発や国際的なフェスティバルのキュレーションなどに携わった。90年代以降はインシテュート・オブ・ソノロジーでの教職やウィリアム・フォーサイスのフランクフルトバレエ団の音楽制作など活動を外に広げてゆくが、常にヴァイスビズの信頼できる相談役として、また中心的なメンバーとしてSTEIMに在籍し続けた。残念ながらSTEIMは2020年に50年目にして閉鎖してしまったが、もともとフォーマルな組織ではなかったのでその思想や功績をたどれるような資料が驚くほど少ない。その中でも重要なものとしてジョエルの2つのテキストがある。一つは1991年に出版された学術誌Contemporary Music Reviewに寄稿した「STEIMでの楽器デザインに関するコメント(Some remarks on musical instrument design at STEIM)」[1]。もう一つは1998年にヴィスビズとサリー・ジェイ・ノーマンとともに書いたSTEIMのTouch フェスティバルにあわせて発表されたマニフェスト「タッチストーン(Touchstone)」である。どちらの文章でも直接性や即時性が欠落する電子音楽やコンピュータ音楽において、論理的な思考よりも経験的な知からの創造性、そして作曲行為よりも楽器を演奏することが重要だと説いている。2004年にpsiからリリースされた唯一のソロ作品『or air』のライナーノーツでもジョエルこう書いている:

『Joel Ryan / or air』 (psi)

常に私にとってプログラミング作業とは音楽を記述するための言語を構築するというよりは、楽器を作ることに似ている。音楽の創造性、音楽的な知とは聴くことや演奏するという過程から立ち現れる。[2]

またICCの季刊誌『インターコミュニケーション』のインタビューではこうも言っている:

私がコンピュータをリアルタイムの楽器として用いているのは、電子音楽に演奏される音楽としての意味や豊かな身振りを与えたいからです。音楽では、書くのが先で演奏が後ではなく、演奏が先で書くのは後であるべきでしょう。[3]

1980年代半ばから90年代後半までの間、STEIMの楽器を演奏することを主軸とした電子音楽へのアプローチが言語化され、世界中に名が広まってゆくわけだがジョエルはその中心的な役割を担っていた。そして彼自身エヴァン・パーカーから「STEIMの魔法使い(Wizard of STEIM)」と称され、パーカーをはじめフランシス=マリー・ウィッティ、ピーター・エヴァンズ、マーゼン・ケルバジュ、石川高など数多くの即興演奏者とコラボレーションをしてゆく。

またジョエルは先生としても慕われていた。デン・ハーグにあるインシテュート・オブ・ソノロジーはヨーロッパの伝統的な電子音楽の登竜門的存在で、特に試験なしで誰でもが入学でき、学生ビザを取得できる一年間のコースにはヨーロッパのみならず南米、アジア、中東などから若い音楽家たちが集まる。そこでは確固たるヨーロッパ的実験音楽の美学で貫かれた授業、例えばアナログスタジオやアルゴリズミック・コンポジション、エレクトロアコースティック・ミュージックやマルチチャンネルのための作曲などを一通り受けることができる。私はSTEIMで働いていた最初の2年間は就労ビザがもらえず、このソノロジーのコースに籍を置いて学生ビザで滞在をしていた。初めの半年ぐらいはせっかくだから授業にも出ていたが、だんだんと興味が薄れていった。そんな中で正直何の授業なのかはよくわからないものの、ジョエルの授業だけは特別だった。毎週みんなが集まると、ジョエルは最初に何かの話題を誰かにふり、そこからただ会話をするだけ。音楽はもちろんのこと、科学や歴史、そして文化全般など内容は多肢に渡った。ジョエルはスライドも見せないし、ノートも持ってこない。たまに電車の中で読んでいた本を見せるぐらいだった。どんな話題に対しても鋭い指摘をし、さらにそれを問いとして提示して会話が即興的に進んでゆく。適当だったのかもしれないけどジョエルにしかできない授業だった。私はこの授業が一番楽しみだったし、記憶にもよく残っている。ソノロジーを通過してきた多くの人も同じことを言う。そして私のように非ヨーロッパ圏からの移民として西洋的な価値観や差別を毎日肌で感じていた若い音楽家たちが彼の周りにはいつも集まっていたような気がする。

今回、寺内久氏主宰のUchimizu Recordsから福島県いわき市立美術館でのEvan Parker Electroacoustic Quartetのライブ音源がリリースされることになり、それに関連する形で文章を書くことになった。CDが届いてから、私が冒頭で書いた学生時代に観たコンサートが寺内氏の企画したこの時のツアーの一部であったことに気がついた。会場と日時が違うとはいえ、当時あまり面白いと思わなかったライブを今になって聴くとどんな印象を持つのか少々不安であった。しかし聴いてみるとスリリングな演奏と美しい音響が組み合わさった非常に良い作品だ。あの時は存在しないと思っていたビートはキックドラムがないだけで、ポール・リットンのテーブルトップ・パーカッションは多彩なリズムを叩き出している。そしてエヴァン・パーカーのサックスの音を中心にしながらも2人の電子楽器奏者の存在感や主体性がクリアに聴き取れ、「わけがわからない」という印象は全くなかった。ジョエルが得意とするマイクで拾った楽器の音をピッチシフトしながらリバーブをかけたり、無数のディレイを使って海の中で小さな魚の群れがまるで一つの大きな生命体のごとく動き回るような音のエフェクトが随所に登場する。

STEIMのコンサートで演奏するジョエル・ライアン(2008年)

ジョエルはよく会話の中で「私は音と音の間に空気を挿入したいんだ」と言っていた。このCDを聴くと彼が考える「空気」とは何もない空白のことではなく、音に対して摩擦や遅延を起こす質量を持ったメディウム/媒介であることがわかる。この時のジョエルはEventide H4000 ウルトラ・ハーモナイザー、AppleのMacBookラップトップを2台、Peavy 1600とJL Cooper Fadermasterのフェーダーコントローラー2台を使って演奏をしている。ラップトップ上ではMIDIデータ処理のためのOpcode社時代のMaxとシグナルプロセッシングのためのSuperCollider 1.0で書かれたプログラムが走っている。それらが生楽器の音に反応するサウンド・エフェクトのパラメーターをバネ、流体、動物の群れの行動などの力学的な法則を数値化した物理モデルで割り振ってゆく。その結果、非常にオーガニックで時には全てを飲み込んでしまうような音が生成される。しかし音の特質が様々なアルゴリズムによって決定されている一方で、相手の音に対してどの音程で返すのか、またどんなタイミングで出すのかという判断は全て自らの耳と指先で行なう。これら音楽的な決定事項を複雑なシステムの中で担うということが機械のオペレーターではなく楽器を演奏する音楽家としてのジョエルを際立たせている。ジョエルの演奏する楽器は自ら音を発するものなのではなく、外から取り入れた音を現実世界では成立しえない物理法則の元で変化させて再び外に戻していくようなものであると言える。

いわき市立美術館での公演時のセッティング
(ジョエル・ライアン撮影)

またこの作品では会場の音響的特質、つまり音の反響や共振という「空気」も大きな役割を果たしている。ライナーノーツではパーカーは会場の響きが4人の演奏をシンフォニックなものまでに拡張をし、20年前の演奏でも昨日に録音したもののように聴こえると書いている。どうやらジョエルの強い要望で美術館の入口部分の縦長で高い吹き抜けのスペースで演奏することが決まったらしい。そして全員の音のミックスもジョエルがステージ上で行ない、「多くのサウンドエンジニアはエレクトロニクスの役割を理解せず、音的に厄介なものとして扱ってしまうから私がミックスをする必要があった」と当時を振り返っている。パーカーとリットンの楽器の音に対して大きく反響する会場とジョエルやカサレイのエレクトロニクスがお互いに複雑に絡み合いながら対峙していく中で、全員が高い集中力を持って演奏に望んでいたのではないか。それは私が体験したコンサートホールではきっとなかった要素だろう。また電子楽器の音は必然的にタイムスタンプを押されたようにその時代性を背負う。DX7シンセサイザーやSP1200サンプラーの特徴のある音を聞くと私たちはどうしてもある時代の音楽や記憶と結びつけてしまう。しかし例えばポーリン・オリヴェロスのMIDIアコーディオンを普通のコンサートホールで聞くととてもレトロな音の印象を受けるのに、巨大な貯水槽の中で録音されたものを聞くとそんな感じがしない。同じようにジョエル、カサレイのエレクトロニクスも不思議と空間の音響とブレンドして時代の空気感を感じさせない。『Concert in Iwaki』と題されているものの本作は録音物やアーカイブとしてだけではなく、独立した音楽作品としても十分に成立している。

ジョエルと最後に会ったのは2年前。今回の記事のためにもメールでいろいろと過去について教えてくれた。現在はSTEIMやソノロジーでの職を退いているが、きっと日課のプールの後に中国茶を飲んで本を読んだり、コードを書いたりして毎日を過ごしているのだろう。私にとっては尊敬する音楽家であり、同僚であり、そして先生でもあるジョエルだが、彼は私を他の人に紹介する時はいつも「私の友達の〜」と言ってくれた。ミシェル・ヴァイスビズもそういう人だったので世代的なものだけかもしれないが、私にはそれが多くの人を彼に引きつける優しさに感じられ、そして息の長い音楽キャリアの秘訣だとも思っている。

 

[1] https://jr.home.xs4all.nl/MusicInstDesign.htm
[2] Joel Ryan, or air (2004), psi
[3]インターコミュニケーション. 17号、1996、NTT出版

 


dj sniff  
1978年生まれ。2012年までオランダのSTEIM電子楽器スタジオでアーティスッティック・ディレクターとしてさまざまなプロジェクトを企画。演奏家としてはターンテーブルと独自の演奏ツールを組み合わせながら実験電子音楽やインプロヴィゼーションの分野で活動。2017年まで香港城市大學で客員助教授を務め,2014年からは大友良英らとともにアジアン・ミーティング・フェスティバル(AMF)のコ・ディレクターを務める。国内では国際交流基金、札幌国際芸術祭、ゲーテ・インスティトゥート東京、アーツカウンシル東京の主催事業の企画・制作など。国外ではCTM(ドイツ)、 Jazz em Agosto (ポルトガル)、Flow Festival (フィンランド)などの音楽フェスへの招聘。現在は京都精華大学で教えている。(photo by Bobby Sham)

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