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特集『私のジャズ事始』

歴史を逆行して・・・ 田中康次郎

福井での高校時代は、クラシック音楽を愛好し、音楽之友社の「レコード芸術」を教本に、聞きかじりの知識を貪っていましたが、大学受験に失敗して東京で浪人生活を始めた1975年、発端は覚えていないのだが、ごく一部のプログレッシブ・ロックも聴いてはいたので、キング・クリムゾンに短期間だけ在籍した、ジェイミー・ミューアへの関心辺りからだったのか、意味もなく前衛を愛する事に一種の誇りを感じ、「スイング・ジャーナル」誌などではなく、杉田誠一発行の「ジャズ」誌や、日本現代・ジャズ・音楽研究会の「音楽」誌等を読み漁りました。

「ジャズ」誌での杉田誠一の評論はいつも未知の視点を与えてくれたし、間章の意図的に小難しく書かれた、冷静に解読すれば訳の分からない文章さえにも心をときめかし、「音楽」誌に至っては刺激に溢れていました。

そんな漠然とした音楽感に浸っていた私にとって、敢えて邂逅と呼んでもいい確かな転機は、池袋の立教大学正門前にあったジャズ喫茶「フリーポート」で、副島輝人のイベントがあった時に、オーネット・コールマン「ゴールデン・サークル」と、アルバート・アイラー「スピリチュアル・ユニティ」を続けて聴いた瞬間で、今にして思えば何とも重いジャズがその始まりであった。

その時の副島輝人の話は全く覚えていないが、最後にブラインド・テストとして、まだ発売前だった富樫雅彦クィンテットの「風の遺した物語」が流され、とにかく雑誌から得た知識だけは豊富だった私は、ただ1人演奏者全員を言い当てる事が出来て、景品として「スピリチュアル・ユニティ」のUKフォンタナ盤を戴き、イベント後には副島輝人と長く話をさせて貰う機会を得て、その後も懇意にさせて戴き、いつも今の新宿駅東南口近くにあった喫茶店「フランセ」で待ち合わせ、ジャズについて熱く語り、多くの事を教えて戴いた。

時を同じくして、富樫雅彦がC.P.U.を結成し5月からピット・インに定期出演したので、毎月開場前に並んで、中央最前列でカセット・デンスケを使って録音していたが、3回目の公演時に、富樫雅彦から「君は毎回並んでるね。これからは並ばずにそのまま関係者として入って来ればいいよ。」と声を掛けられた。心底嬉しかった私は、富樫雅彦の公演は殆んど欠かさずに聴き、求道的な尺八奏者であった川瀬勘輔とのリサイタルや、スティーブ・レイシーの初来日公演等、多くの演奏を録音した。

時間軸の前後は全く不明で、場所がどこであったかも、その経緯も思い出せないが、副島輝人からプロジェクト21を主導していた大橋邦雄を紹介され、更に玉井新二や関根俊郎他のプロジェクト21のメンバーや、写真家の南達雄と知り合う事が出来た。

編集長であった玉井新二の口利きだったのだろうが、「ジャズ批評」社でアルバイトも経験し、松坂比呂から仕事の厳しさで苦言を呈されたりもしたが、鍵谷幸信や清水俊彦といった執筆者と接した機会は貴重な体験となった。

そして恐らくはニュー・ディレクション・ユニットのESPディスク発売記念コンサート“もう一つの自転するもの”、まさにその会場であった安田生命ホールで、大橋邦雄が高柳昌行に引き合わせてくれたのである。

「JOJO、彼は田中君といって・・・」

どのように紹介されたか覚えていないが、当時の私にとって最も畏怖する存在であった高柳昌行の前での私は緊張で凍り付いていた事は疑う余地がない。

プロジェクト21が協賛した、副島輝人の“INSPIRATION & POWER VOL.Ⅱ”で、色々と手伝いをさせて貰ったりした暫くの時間の後に、私がお貸ししたデレク・ベイリーとエヴァン・パーカーによる、INCUS 12 “The London Concert” を契機に、高柳昌行の自宅にも伺わせて戴けるようになり、くだらない駄洒落を交えてではあっても、高柳昌行の確かな新しい視座と、非情にも感じる厳格さに触れて、私は自分の認識の甘さを思い知らされる事になる。

その厳格さに心酔し、富樫雅彦や副島輝人、代沢のマンションに半年間程居候させてくれ、いつも安酒を酌み交わし、直ぐ近所にあった、当時そんな認識はなかったが、今や伝説的な存在になった、「レディ・ジェーン」にも頻繁に通う生活を共にした大橋邦雄とも、高柳昌行の生徒で当時の私にとって無二の友であった飯島晃とさえ、徐々に疎遠になってしまった。

・・・LGBTへの認識などなかった当時、18歳の男が25歳の男の処に居候と言えば、同性愛を想起されがちであったと思うが、女学校時代に満州へ渡り、比較的恵まれた環境で育った純粋な母が、たった一度だけ大橋邦雄と電話で話しただけで、彼を完全に信頼したのである。大橋邦雄の人格は勿論であるが、昭和という時代の1970年代には、学生運動の名残もあったし、人間と人間の豊かな触れ合いがあったのである。

1991年高柳昌行の葬儀が行われた南荻窪の願泉寺で、数年振りにお会いした大橋邦雄が、通夜後に「田中も俺と一緒にここに泊まれよ!」と言ってくれ、2人で殆んど眠らずに酒を片手に語り明かす事になった。私はあの時強引に誘ってくれた大橋邦雄に心から感謝している。

それから9年の後に、あまりにも純粋で限りなく優しかった大橋邦雄は、民衆を白痴化しその力を削いでいく〈静かな権力〉の空気の重さに耐えられずに自死する事になる。

私は17年後に、菅平高原の大橋邦雄の自死の場を訪ね、同行した妻と2人で暖炉の前に座り、深夜の薪の炎の揺らぎを無言で見続けた。

オーネット・コールマンとアルバート・アイラーから、セシル・テイラーやデレク・ベイリー、ハン・ベニンク、高柳昌行等のフリージャズの最前衛から、逆方向にレニー・トリスターノ、デイブ・ブルーベック、マイ・フェバリット・シングス位しか聴いた事がなかったジョン・コルトレーン、ロックだとさえ思っていたマイルス・デイビスの凄さを知り、決して心を休ませてはくれない巨人エリック・ドルフィー等々から、果てはルイ・アームストロングからラグタイムまで遡っていった。

高柳昌行のジャズ史に関わる以下の3冊の必読書を、逆の時系列で体験する事になったのである。

1. 植草甚一「ジャズの前衛と黒人たち」
2. 植草甚一「モダンジャズの発展」
3. ジークフリート・ベーレント「ジャズ ラグタイムからロックまで」

ジャズの歴史の流れには逆行する結果ではあっても、当時の私には人後に落ちない記憶力があり、文字から仕入れた知識だけは豊富だったので、本当に良質なものだけを聴いてこれたのではないかと考えているし、なかなか面白いジャズとの関わりだと思っております。

※    失礼とは思いましたが、「氏」「女史」「さん」「君」「敬称なし」が混在するとややこしいので、敢えて敬称は全て省略させて戴きました。


田中康次郎

生年月日:1957年2月8日
出生地:福井県
1975年に高柳昌行の知己を得て、その演奏は可能な限り録音、時には公演会場への楽器運搬を手伝ったりしながら、副島輝人や大橋邦雄とも接してはいましたが、基本的には高柳昌行の傍らに居りました。1985年に福井へ戻ってからは、ファッション産業の会社に勤め、要望に応じて文章を寄稿する生活で今日に至っています。

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