#01 『マヘル・シャラル・ハシュ・バズ / maher shalal hash baz 第1集』
text by 剛田武 Takeshi Goda
Cassette Tape : midheven dubbing service
Side A
1 心と魂と思い
2 末日記1
3 ルーアハ
4 彼女は待てなかった
5 女の中で最も美しい者よ
6 夏
7 ときどきけんは
8 Don’t Think Twice
9 昔の月
10 95½ Ave.B N.Y.Ny.
Side B
1 過去の知られていない幸福
2 何年か前 広尾の天現寺交差点を車で通り過ぎたときに浮かんだ唄
3 一橋大学構内の朝の歌
4 街角のカレッジ
5 この世の下る坂道を私は上る
6 河口湖畔にて
7 蝶
8 山の羊
9 八日目の休み
10 人生の束
11 嘘の風土記はうす青い/女給の休息は苦い水飴
便利一辺倒の時代こそ、面倒臭い音楽体験をしたい。
新型コロナによる自粛生活の影響で、サブスクリプションが消費生活の中心になったと言われている。音楽ビジネスに於いても音楽ストリーミング・サービスの影響力は計り知れない。TikTokやYouTube発信のヒット曲が圧倒的に増え、サブスクを通じて日本のシティポップや環境音楽が海外で大流行する現象も起こった。若者のほとんどはCDプレイヤーやオーディオを所有せず、スマートフォンやパソコンで音楽を聴く時代。
この2~3年の間に筆者もSpotifyで音楽を聴くことが増えた。自宅のレコード棚やCDの山を掘り起こさなくても検索するだけで目当ての曲を聴くことも出来るし、SNSやネットで見て気になったアーティストや曲を即座に試聴することができる。定額料金で何曲でも何時間でも聴けるし、1曲聴いて気に入らなければすぐに別の曲へ飛ぶことも出来る。音質が劣るという話をよく聞くが、たいしたオーディオ機材を持っているわけでもないし、サブスクを聴くのはたいていスマートフォンにイヤホンなので、さほど不満があるわけではない。音楽に興味を持った10代の頃、聴きたい曲をいつでもどこでも好きなだけ聴けたらいいな、なんて夢見ていたが、サブスクはそんな夢物語の実現なのだろうか。
しかし今回My Pickを選ぶ段になって困ったことに気が付いた。この1年間にサブスクで愛聴していたアーティストやアルバムの大半が思い出せないのである。聴いた曲やアーティストをいちいちメモしたり、全部お気に入りやプレイリストに登録している訳ではない。たまたま出会って気に入って、アーティストもうろ覚えのまま聴いていることも多い。サブスクでの視聴は自分のリスニング履歴の中では曖昧模糊とした霞のような記憶でしかない。勿論音楽は形がないのだから、記憶に残らなくてもその時楽しめば十分、という考え方もあるだろう。それは正しいかもしれないが全てではない。筆者は自分の記憶に傷跡を残す、確固たる形のある音楽体験を求めるものである。そのためには「便利」という基準を放棄するべきであろう。ワンクリックで聴ける音楽ではなく、二度手間三度手間をかけてようやくありつける「面倒臭い音楽」こそ強烈なリスニング体験への道ではないだろうか。
80年代初頭に工藤冬里を中心に結成されたロックバンド、マヘル・シャラル・ハシュ・バズが1985年に自主リリースした2作のカセットテープ作品『Maher Shalal Hash Baz(第1集)』と『Pass Over Musings』が、オリジナルカセットから再現したインデックス、トラックリストインサート付きでリイシューされた。1本ずつダビングするという手間をかけて制作し、2本同時購入すると歌詞入りの冊子付の特製段ボール専用紙ケースに入れてそのまま郵送するという遊び心もあり、D.I.Yを絵に描いたような手作り感覚あふれるリリースである。
篠田昌已(sax)、高橋朝(ds)、向井千惠(胡弓)、西村卓也(g,b)といった吉祥寺マイナー時代からの盟友や、コクシネル、スウィート・インスピレーションズ、Guys’n’Dollsといったバンドのメンバーが参加して繰り広げる脱力サウンドは、同時期にリリースされた9枚組CD『Tori Kudo at Goodman 1984-6』(⇒Disc Review)とともに現在まで継承される工藤冬里の筋金入りの音楽哲学(こんなカッコつけた言葉は似合わないが)を体現している。デジタルダウンロードコード付きなのでデジタル化された音源を聴くことも可能だが、カセットテープ特有のヒスノイズが、時代の証人として「便利」一辺倒のリスニングを拒否する。
1981年浪人時代に筆者が自宅録音したカセットテープを掘り起こして聴き直している。カセットテープレコーダーを2台繋いでのピンポン録音で増幅されたヒスノイズが音楽以上に存在感を主張する。演奏を重ねるほどにノイズも重なる二重螺旋構造に「面倒臭さ」の重要性を再認識する。はてさて2022年はどこまで面倒臭い音楽体験が出来るか、期待と勝負の1年にしたいものである。(2021年12月16日記)