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インプロヴァイザーの立脚地No. 315

インプロヴァイザーの立脚地 vol.21 MIYA

Text and photos by Akira Saito 齊藤聡
Interview:2024年5月26日 月花舎・ハリ書房(神保町)にて

MIYAはフルート奏者であり、モジュラーという電子楽器をフルートと組み合わせる世界唯一の人であり、また日本の伝統音楽を演る人でもある。それぞれの活動が、彼女の原点であるフルート演奏にフィードバックされるのがおもしろいところだ。

気が付いたら迷いがなかった

気が付いたら、音楽を続けてゆくことに迷いがなかった。小学校ではリコーダーが得意で、笛に関すること、ことばではなく呼吸を使った表現に興味を持った。リコーダーの試験があって、彼女は順調に合格していった。ところが最後の試験問題に解らないところがあった。そこにはフェルマータ(音符や休符を記譜上の時間よりも延ばす記号)があった。余韻をはじめて体感した彼女は、はじめて「これが音楽なんだ」と感じたのだという。その世界を深めたい、他人と共有したい。いまにつながるモチーフでもある。

中学校では吹奏楽部に入り、高校2年生のときには英国に留学することができた。母親が英国人だし、自分自身も幼少期は向こうに住んで英語を話していた。だから、ちゃんとした英語を話せるようになりたかったし、なにより自分のルーツに近づきたかった。音楽自体が目的の留学ではなかったが、活動が盛んなところを選んだ。

1年間だけの留学ではなかなかクラスに溶け込むことは難しいものだが、仲良くしてくれた子がいた。両親がヒッピーで、参加させてもらったサマーキャンプでは、アドリブでブルースを演奏するワークショップもあった。そして、その子は普段は地味なのにビッグバンドのステージ上では違っていた。<Fly Me to the Moon>なんかを歌い、輝いていた。MIYAは強く感動してしまった―――なんだ、この素敵な世界は!

大学

帰国後、彼女は音大に行きたいと望むようになった。ピアノ演奏とソルフェージュを始めたものの、1年間ではちょっと間に合いそうもない。ちょうど洗足学園音楽大学が日本の音大としてはじめてジャズコースを設置したところで、入学のハードルも高くなかった。ジャズ自体については「興味があったし、やってみたい」程度ではあったが、ともかくも受験することにした。まだフルートが専攻の対象でなかったこともあり、高校3年生ではじめてサックスを習い始めた。

大学では、ひとつの音を大事にすることを教わった。廊下で<The Girl from Ipanema>を吹いていると、それを見た山下洋輔(ピアノ)がなにかに書いて褒めてくれた。水谷浩章(ベース)からはグループ「Phonolite」のレコーディングに誘われたりもした(『While I’m Sleeping』、2003年)。講師陣にはとても恵まれていた。

卒業と同時に同じレーベル・studio weeからデビューアルバム『Globe In Motion』(2004年)を出すことができたのも、そんな経緯があったからだ。水谷がプロデューサーを務めてくれた。さらに、その3年後には山下らを招いて『Miya’s Book; Music For Seven Days』(2007年)を出した。

欧州のインプロヴィゼーション

二十代の後半には、パーカッションの山㟁直人との共演など、ジャズと並行してフリー・インプロヴィゼーションの演奏を模索し始めていた。そして、2010年頃、文化庁の新進芸術家海外研修制度に採択され、ふたたび英国に3か月ほど滞在することができた。師事した作曲家のジョナサン・コールは王立音楽大学の教授だが、MIYAは大学に所属することなくコールのもとに習いに行くことができ、幸運だった。

日本ではライヴ活動を日常的な活動としていた彼女にとって、それがないのは新鮮なこと。毎晩のようにロンドンのCafé OTOに出かけていった。ある日、多楽器奏者のテリー・デイが声をかけてくれて、親しくなった。程なくして、彼女のもとに、いきなりロンドン中からセッションやリハーサルへのお誘いのメールが届いた。デイがあちこちに呼び掛けてくれたのだった。一気にロンドンでのつながりができたのは、デイのおかげだ。

そんなこともあって、MIYAはロンドン・インプロヴァイザーズオーケストラに参加させてもらった。スティーヴ・ベレスフォード(ピアノ)、ロル・コクスヒル(サックス)、デイなど、錚々たる面々を擁した即興のグループであり、ブッチ・モリス(コルネット)が発展させた即興の方法論「コンダクション」を用いた演奏をしていた。異なる背景を持った人たちが集まって音楽を作り上げるもので、楽しかったという。

ロンドンだけでなく、世界各地にブッチ・モリスの手法を継承するインプロヴァイザーズオーケストラがある。ロンドンでの体験がきっかけとなって、彼女はベルリンでも参加することができた。接点のあったウォルフガング・ゲオルグスドルフとはベルリン行きの前にたまたま広島のお好み焼き屋で隣り合っており、「匂いオルガン」とでも呼ぶべきOSMODRAMA(※1)を制作・演奏するユニークな人だ。

東京でのインプロヴィゼーション

帰国したMIYAは、その経験を発展させるべく、既に東京の即興シーンで活動していた岡本希輔(MARESUKE)とともに東京インプロヴァイザーズオーケストラを立ち上げた。もとより自分自身の活動からジャズ方面には人脈があったが、即興方面はそうでもなかった。

彼女にとって、インプロヴァイザーズオーケストラとは、いろいろな背景を持った人たちが集まってコミュニケーションを図り、共鳴するポイントを探すもの。その共鳴の自由も各々にある。理想の社会の縮図であるとも言えるものだ。だから、コンダクターによってサウンドががらりと変わる。欧州でできた縁とも関連付けたかったし、留学中のサンクトペテルブルクで即興演奏を行っていた山田光(サックス)が連絡してくれるなど、内外の縁がさらに拡がっていった。

なんどかライヴを積み重ねてゆくうちに、難しさもみえてきた。たとえば、欧州と日本とのコミュニケーションのありようはずいぶん異なる。日本では主張を深追いせず雰囲気に委ねてしまうところがある。演者によっては、それまでの主張と実際の演奏とがまったく違っていた。日本にはこのようなオーケストラという言語がないのではないか。互いに尊重し、自分自身も出すサウンドのありようを追い求めるうえで、そのあたりがうまくいかなかった。その一方でおもしろいと感じた人たちもいて、また新しい形の出発点になっている。

いまも英国の仲間たちとは連絡を取り合っており、年に1回は共演したいと思っているという。たとえばベネディクト・テイラー(ヴィオラ)は盟友と言える存在だ。インドのジャズユニットKENDRAKAにMIYAとテイラーとがゲストに入り、日本、インド、マレーシア、スイスをツアーしたことはひとつの成果である(2012-13年)。テイラーには、東京インプロヴァイザーズオーケストラでも指揮をしてもらった。スティーヴ・ライヒのグループにも在籍するローランド・サザーランド(フルート)もおもしろい存在だ。英国の面々を受け入れるプラットフォームを作りたい。

書道家の白石雪妃と知り合ったのもこのころだ。直書観音というユニットを作り、即興をモチーフにした表現を模索した。ただ、当時はライヴの前に即興だというコンセプトを観客に説明しないと、その内容にクレームが付くことがあった。体験型のワークショップを開くなど工夫もしたが、いまでは即興なのだと敢えて説明する必要もない。時代が変わりつつあるのかなと感じているという。

A Story of Jazz

かつてジャズのライヴを演ろうとするとき、ライヴハウスからオリジナル曲を拒否されることがあった。求められるのはスタンダードナンバーばかり。MIYAは、そのことへの回答として「A Story of Jazz」と題したシリーズを始めた(2011年~)。ジャズ・レジェンドたちはなにをやったのか、フルートで演るとすればどうなるのか。毎回特定のミュージシャンを取り上げ、ソロとトークを交えてその本質に迫ろうとした。そして年に1回はゲストを招いて総括するようなコンサートを行った。

民俗神楽

2013年になり、MIYAはパートナーである詩人の寳玉義彦が生れた福島県南相馬市に滞在していた。そこで、彼女は、その土地にしかない音楽があることを意識するようになった。それでは南相馬でしかできないことをやってみよう―――そう考えたMIYAが注目したのが、江井神楽(えねいかぐら)という民俗神楽である。すでに人から人への伝承は途絶えていたが、たまたまヴィデオ映像が残っていた。

MIYAは、フルートでその試みを始めた。扱える横笛はフルートだけだったからだ。2年が経ち、別の地域の民俗神楽を観に行ったところ、出演者たちはそれぞれ自分の笛を持ってきていた。民俗神楽にはその土地特有の笛がある事を知った彼女は、自分の地域に戻り、かつて笛を吹いていた人の家に足を運んだ。そこには、神楽で使っていた笛があった。そして、その笛を吹いたら、それまでの悩みが嘘のように一瞬で吹き方がわかった。笛が吹き方を教えてくれるようだった。

とはいえ、自分自身はあまりにも日本音楽のことを知らない。そんな問題意識もあって、ずっと気になっていた能楽師の一噌幸弘の演奏を聴くため、下北沢のLady Janeに足を運んだ。店主の大木雄高にMIYAを紹介された一噌は、いきなり「じゃあ、飛び入りしますか」と応じた。レコ発ライヴなのに、このフットワークの軽さ。彼女は驚き、フルートを持ってこなかったことを後悔した。後日CDを送ったところ、一噌から電話があった。驚きつつも民俗神楽で困っていることを伝えると、「能管を演ってみますか」との返事。トントン拍子に、一噌に師事して能楽の古典を学ぶことになった。楽しかった。

能管、龍笛、フルート

いまのMIYAにとっての横笛は能管、龍笛、フルートだ。

自分の表現に欲しいパワーは、フルートだけでは出しにくいときがある。能管を使ってみて解ったことだが、能管は言ってみればフォルティッシモで吹きっぱなしであり、笛がリズムをも作っている。また、民俗神楽では土地の竹で独自の笛を作るのが本来の形だが、江井神楽に残っていた笛は既成品の篠笛だった。MIYAは、江井神楽では能管を使って演奏することに決めた。

寳玉の母方の実家は神社であり、奉納演奏も取り行っている。雅楽の龍笛も吹けるのではと言われる機会があって、龍笛の稽古に通うようになった。雅楽も継続して学んでいる。

それぞれの楽器については、違うことだけが発見ではない。新たな世界を体感できれば、そこで得たものをフルートのほうに持ってくることができるのだ。実際、パワーのある能管を吹いたことで、フルートのコントロールにあたり限界値が上がったという。

場の特性も重要だ。フルートの良さは余韻にあって、それは演奏する建物の構造に依存するところがある。一方、日本の伝統音楽は外で演奏することが多く、フルートの演奏はなかなか難しい。建物の中であっても、畳のある部屋などでフルートを吹くと余韻が生れず、とても演りにくい。逆にいえば、演奏に応じた場を探す楽しみもあるということである。

電子楽器

灰野敬二(ギター)、ナスノミツル(ベース)、吉田達也(ドラムス)によるグループ・サンヘドリンにゲストとして参加する機会があった(2016年、新宿ピットイン)。その灰野の推薦で、一楽儀光(モジュラー)、美川俊治(エレクトロニクス)を加えた4人での演奏も実現した(2019年、秋葉原グッドマン)。

特にモジュラーのような電子楽器を体感したあとでは、フルートの語彙が限定されていることを意識するようになった。音程の幅も質感も、そうだ。もちろんフルートの音を極めたい一方で、音の種類を増やすことにも興味を覚えた。共演をきっかけにMIYAと仲良くなった一楽が楽器店で助言してくれたりもした。それまでアコースティックにこだわっていたが、スピーカーまでを視野に入れた音作りはまた別のおもしろさがある。

PCを試してみたが、MIYAの使い方ではうまくいかない。どうしても処理速度が壁になり、ちょっとした遅延が生じてしまうのだ。一楽が、だったらモジュラーを演ってはどうかと助言してくれた。使ってみると、電流を呼吸と同じようにとらえることができるように思えた。すなわち管楽器と同じであり、自分のサウンドを電気的に拡張できる。そして、モジュラーを使うと、フルートの音の解像度が極めて高いものになることは大きな発見だった。いろいろと試行錯誤した。

たとえばルーパーは先に演ったことを後で処理するものであり、ChatGPTのようなものだ。モジュラーはそれとは性格を異にしており、言ってみれば、対照的に未来からのアプローチができる。モジュラーを使うとどうしても偶発的なことが起きるものであり、サウンドはあるていど未来に依存せざるを得ない。音の波は物理法則のもとで生まれるとはいえ、それを完全にねらい通りに生成できないのは、変数があまりにも多く、行きつくまでの手段がわからないからだ。

モジュラーとフルートの奏法の可能性を深めるためには、いろいろな人と共演するのがよいのではないか。2023年11月にポラリス(神田錦町)にライヴを観に行ったとき、たまたま居合わせたBar Isshee(千駄木)の店主・石田俊一にそんなことを話すと、その場で「じゃあ、ウチでマンスリーやりますか」と決まってしまった。

Bar Issheeでの「月刊MIYA」は2024年に正式にスタートしたが、その前段階(前年末の「第0回」)では、緊張したMIYAがモジュラーのつまみを触ったところ、自分の身体にも電気が流れたように感じた―――「身体を流れる電気と電子楽器には相関性がある」という発見だ。そしてまた、フルート音から電気的に変換した波でシンセサイザーやエフェクターをコントロールできるし、電子機器の補助により身体を鳴らすだけでは到達不可能なレベルの音を作ることもできる。MIYAは、モジュラーフルートの演奏とは「情報的身体の拡張」なのだと認識するようになった。そして、その成果をアコースティックの音にフィードバックできるのは日本の伝統楽器と同様の思想だ。

一方、東北沢のOTOOTOでは以前からソロのシリーズを続けている。中村としまる(ノー・インプット・ミキシング・ボード)が音響を手掛けた場でもあり、電子楽器を演るホームグラウンドとして考えている。かつて四谷三丁目の喫茶茶会記で定期的に行ったフルートソロのシリーズの延長でもある。観客の反応を直に得られるし、同じ場でなにかを続けることは重要だと考えているという。

インプロヴァイザーたち

ミュージシャンとしての活動の出発点から水谷浩章、山下洋輔といった大先輩のあと押しがあったが、同世代の人との共演は意外に少なかった。最近やっと出会えた存在が山口廣和(ギター)である。山口、石川広行(トランペット)、小美濃悠太(ベース)とともに、今年(2024年)、荻窪のVelvetSunでライヴを行った。今後も続ける予定だ。

「月刊MIYA」ではいちばん共演したい人に声をかけている。これまで(2024年6月まで)、田中悠美子(義太夫三味線、大正琴)、Momose Yasunaga (モジュラー、ヴォイス)、中村としまる(ノー・インプット・ミキシング・ボード)、伊東篤宏(オプトロン)、マクイーン時田深山(箏)、野本直輝(シンセ、コンピュータ)が参加してくれた。

もちろん英国のベネディクト・テイラー、ローランド・サザーランド、テリー・デイらとも再演したいと思っている。

ディスク紹介

(*1)OSMODRAMA「Smeller 2.0」に関するゲオルグスドルフ自身による解説は以下のサイトを参照のこと。https://osmodrama.com/smeller/

(文中敬称略)

齊藤聡

齊藤 聡(さいとうあきら) 著書に『新しい排出権』、『齋藤徹の芸術 コントラバスが描く運動体』、共著に『温室効果ガス削減と排出量取引』、『これでいいのか福島原発事故報道』、『阿部薫2020 僕の前に誰もいなかった』、『AA 五十年後のアルバート・アイラー』(細田成嗣編著)、『開かれた音楽のアンソロジー〜フリージャズ&フリーミュージック 1981~2000』、『高木元輝~フリージャズサックスのパイオニア』など。『JazzTokyo』、『ele-king』、『Voyage』、『New York City Jazz Records』、『Jazz Right Now』、『Taiwan Beats』、『オフショア』、『Jaz.in』、『ミュージック・マガジン』などに寄稿。ブログ http://blog.goo.ne.jp/sightsong

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