インプロヴァイザーの立脚地 vol.14 長沢哲
Text and photos by Akira Saito 齊藤聡
Interview:2023年10月21日 本駒込にて
長沢哲は傑出した打楽器奏者でありながら打楽器奏者らしからぬところがある。そのギャップこそが長沢の本質だ。
即興との出会い
長沢は福島市で生まれ育った。父親は、家にいるときには必ずクラシックのレコードを流す人だった。コーヒーの香りとともに音楽が自然に耳に入ってきたことが、間違いなく長沢にとっての原体験だ。小学1年生のとき、母親の幼馴染がピアノ教師をやっていたこともあって、個人レッスンを受けることになった。ピアノを続けるとともに、高学年になるとヤマハ音楽教室のグループレッスンも受け始めた。それはグループアンサンブルや作曲を行うプログラムだった。
ピアノもずっと続けていると基礎ができて、楽譜はある程度こなせる。長沢は、思いつくままにピアノで遊ぶことの楽しさを覚えた。目をつむり、音を出して物語のように拡げてみたりもした。この感覚はもういまと同じなんだと言う。
ヤマハ音楽教室は、受講生が作曲を競う「ジュニアオリジナルコンサート」を開いている。長沢は上に進めなかったが、同じクラスの子が東北大会でいいところまで勝ち上がったこともあり、大会を観に行った。おもしろいことに、曲の披露だけではなく、余興の時間があった。客席の子が手を挙げ、当てられると登壇して4小節や8小節程度を弾き、受賞者がそれを受けて、すぐに数分間の曲にまとめる。もとの素材に戻ってくる子も、どんどん別の方に展開してゆく子もいた。客席の長沢は、「うわっ、おもしろい、やりたい」と思ってしまった。
たまたまドラムス
中学時代は野球部に入り、ピアノの練習はやめてしまった。野球部も途中で退部した。高校に入り、バンドをやっている先輩がカッコ良くみえたこともあって、自分たちも「バンドをやろう」と盛り上がった。友人の家でいろいろ決めるという約束だったが、長沢が遅れて着いたときには勝手にメンバーが決められていた。長沢はドラムス担当である。小学生のときに鼓笛隊で小太鼓に触ったことがある程度だったが、まあいいかと引き受けることにした。
実際、バンド活動は楽しかった。スタジオに入ってRCサクセションやビートルズなんかの曲を演る。そのころ長沢が好きだったのは、ディープ・パープルやレッド・ツェッペリンなどの英国のハードロック、さらにさかのぼってジミ・ヘンドリックスやクリーム、それにピーター・ゲイブリエルが在籍した時代のジェネシスなどプログレッシブ・ロック。『リズム&ドラム・マガジン』(当時は季刊誌)を楽しみに読み耽り、テレビ番組(『MTV』や『ベストヒットUSA』)でたまに好きなミュージシャンの姿を見つけては喜ぶ高校生だった。
ジャズ?
そのうちに気付いたことがある。ディープ・パープルのイアン・ペイス、レッド・ツェッペリンのジョン・ボーナム、クリームのジンジャー・ベイカー、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのミッチ・ミッチェルといった好きなドラマーたちの記事を読むと、必ずと言っていいほど「ジャズドラムの影響を受けた」と書かれているのだ。
じゃあ聴いてみようと思い、かれは近くのCD屋に足を運んだ(当時、福島市内で輸入盤CDを売っている唯一の店であり、かれにとっては、さまざまな音楽を聴く機会を得られた大事な場でもある)。ほとんど知らないドラマーばかりだったが、かろうじて名前を聞いたことのあるトニー・ウィリアムスのレコードを見つけた。そのころには新生ブルーノートから聴きやすい曲を演るアルバムを出していたはずだが、長沢は古い方から聴いてゆこうと思い、『Spring』を入手してみた。ところがまったく聴きどころがわからない。わけがわからないし、つかみどころもないし、おもしろいかどうかの判断すらできない。かれは一旦「もういいや」と止めてしまった。
しばらくして、すこしジャズのことを下調べして、マイルス・デイヴィスの『Relaxin’』を買ってみたところ、とても良かった。気を良くしてジャズを少しずつ聴くようになった。『Spring』をおもしろく感じられたのは何年も経ってからだ。
大学に入って、親くらいの世代のジャズ好きの人と仲良くなり、その人がCDを2枚貸してくれた。バド・パウエル(ピアノ)も阿部薫(サックス)も初めて名前を耳にするミュージシャンだ。パウエルはカッコ良いと思ったが、阿部の『彗星パルティータ』はちょっと聴いていられないどころか苦痛で、以前と同じように途中で止めてしまった。ただ、そのあとジョン・コルトレーン(サックス)のことが好きになり、後期のフリーキーなサウンドに馴染んだあとにあらためて聴いてみたところ(返す前にカセットテープにダビングしておいた)、とても良いと感じた。やはり2年くらいかかった。
好きなように演りたい
二十歳のころにはジャズを演りたい気持もあったし、いまも聴くのは好きだ。ただ、自分で演るというところまで納得するには至らなかった。ジャズがちゃんとジャズであるために必要なことが面倒くさいし、その作業自体に魅力を感じない。それが長沢にとっての理由だ。それよりも、もっと好きなように演りたい。
しばらくは、フリーフォーム、自分の曲を演るバンドの2本線を続けていた。ドラムスだけによる即興のソロをはじめたのは28歳のときだ。自分独りで演りたいと思ってのことだが、初回の演奏を終えて、「一生続ける」と思ってしまった。
2005年、35歳の誕生日前日に、荻窪のカフェギャラリー「ひなぎく」(*1)においてソロを演ったとき、ファーストセットで良い演奏がまったくできず凹んだことがあった。休憩時間に長沢は店の外に出て、帰りたい、どこかに行きたいとさえ思った。ともかく頭を空っぽにしてセカンドセットに臨んだところ、自分の出した音にすうっと吸い込まれてゆく感じで演奏できた。まるで自分自身を上空から俯瞰して見ているようだ。絵描きであるならば、キャンバスから離れて立って全体を見渡し、必要なところに必要な色を置いていく感覚だと思った。はじめて得る感覚で、7つのショートピースを演奏した(*2)。いまもその感覚がベースとなっているという。
三十代のころ、普通のドラムセットを使いたくなくなってきて、実験をはじめた。もとよりトリロク・グルトゥやミノ・シネルへの憧れからハンド・パーカッションを試みてもみたが、自分にはスティックのほうが向いていると気づいた。そして店に置いてあるドラムセットではなく、自分のものをすべて持ち込む形にした。
このころはギターの小沢あきとの共演や、ベースの西村直樹との即興演奏デュオが大事だった。
小沢との共演は、長沢の曲を演るデュオユニットになり、7、8年続けた。長沢にとって、これらの自分の曲は「僕なりのポップミュージック」というキーワードを意識して作ったものでもあって、すべて「Song of~」と題してもよいようなものであってほしいと思っていた。だから、いかに「うた」であるかが重要だ。かれは曲によって右手でグロッケンシュピールを弾き、メロディを取った。長沢にしてみれば、「うたごころ」があると言われるような場合、ビブラート、音程や音量の微妙な上げ下げが効いていることが多い。打楽器は基本的に減衰音であり、いちど出した音に変化を付けることができない。そして、ここでは無機質な音を出すグロッケンを使って、情感あふれる小沢のギターの上で「うた」を歌わなければならない。長沢は、音量やタイミングの微妙なコントロール、さらにはタッチの微妙なコントロールを追求した。タッチの重要な点は、スティックやマレットを楽器にどう接触させるかだ(深く、浅く、固く、柔らかく、など)。それにより、音質や減衰をコントロールする。ほとんどグロッケンを使わなくなったいまでも、その経験が活きている。
また、西村とのデュオは、ヴァイオリンの HONZI、ピアノの永田雅代とのカルテットにも発展した。
即興での共演
2011年の3月11日を経て、10月から、江古田のCafé Flying Teapotにおいて「Fragments」というイヴェントのシリーズを始めた。41歳のときだ。毎回異なるゲストを呼んで演奏してもらい、自身でソロを演り、最後に全員で共演する形。2015年3月まで、これを毎月、40回以上続けた。それまであまり即興演奏で共演する人たちを増やすことがなかったが、一方で、ソロを軸にしていろいろな人と関わりたいという気持ちもあったからだ。ファーストセットでゲストの演奏を聴くと、その場で影響を受ける。自分自身でもまったく飽きることがなかった。
長沢は、即興演奏が3人以上になると、「ある種の社会性や楽器の特性による役割分担」が発生しやすいと考えている。もちろんそれもおもしろくはあるが、かれが特に好むのは共演者との一対一の関係だ。「Fragments」は、そうした考えをかたちにしたものでもあった。
招いたゲストの演奏はそれぞれ興味深いものだったが、なかでもかれにとって印象的だったのは、最終回の加藤崇之(ギター)だ。長沢は、事前になってるハウス(入谷)に加藤の演奏を観に行った。身体を動かしながらアコースティックギターを弾く加藤が正面を向いたとき、音がまっすぐ飛んでくるさまを幻視してしまったという。長沢は驚いた。
ダンスの木村由とは、「Fragments」での初共演がきっかけとなり、「風の行方 砂の囁き」というデュオのシリーズを毎月続けた(長沢が東京を離れるまで)。これは、踊りとの共演も音楽との共演と同じ感覚でできるのだという発見を与えてくれた。長沢は、「木村さんとの共演は、どちらかの身体が動かなくなるまで続けたいと思っています」と話す。
この間は自分のグループを持たなかったが、たまに自分の曲を演りたいときには、影山朋子(ヴィブラフォン、マリンバ)や田井中圭(ギター)に声をかけた。
長崎
2015年、夫人の希望もあって、彼女の実家がある長崎に移り住んだ。
九州は、長沢のような音楽活動を続けるにはなかなか大変な場所だ(というより、東京などの一部の都市を除いては)。それでも共演を続けたいアーティストは少なくない。ミドリトモヒデ(サックス)、宮崎真司(ギター)、谷本仰(ヴァイオリン)、河合拓始(ピアノ)、松岡涼子(舞踏)といった人たちと、よく手合わせしている。
ソロ演奏は、旧香港上海銀行長崎支店記念館の古い建物で行っていたが、コロナ禍で使えなくなってしまった。いまは福岡の箱崎水族舘喫茶室をホームグラウンドだと考えている。生音の響きがとても良くて、ピアニッシモも安心して出すことができるという。
休止と再開
コロナ期に入ってからしばらく経ってどうも調子が悪くなり、2020年の12月に旧香港上海銀行長崎支店記念館でソロを演ったとき、もう人前で演奏することはないと思ってしまった。理由はよくわからなかったが、それからライヴ活動をぴたりと休止した。だが、ともかく練習だけは続けていた。その間、自分にとっての音楽の原点とは何だったのか、あらためて思い出してもいた。誰に聴かせるわけでもなく、楽器に向かってイマジネーションを音にする。つまり、それは「ひとり」ということだ。
やはり理由はわからないが、また何かやろうかなという気持ちになってきたのは2022年になってからだ。まだソロには自信が持てなかったこともあり、舞踏の松岡と組んで、6月に久しぶりの演奏を行った。なんとか現場に戻ってくることができたと安堵した。
翌7月になり、ニューヨークに住む藤山裕子(ピアノ)からメールが届いた。なんと、ニューヨークで開催される「Contemporary East」に出場しないかという誘いである。演奏休止の直前に日本で藤山と共演したとき、打ち上げの場で、いつかニューヨークに呼ぶからねと言われてはいたものの、本当にそうなるとは思ってもいなかった。海外に渡ったこともないし、なにしろ復帰直後のことだ。かれは一旦断ろうと思ったが、夫人が背中を押してくれた。
10月、久しぶりの東京ツアー。新しい出会いを求めて、ネットで音源を聴いたり、人に相談したりした。旧知の木村由(ダンス)に加え、矢萩竜太郎(ダンス)、遠藤ふみ(ピアノ)、岡川怜央(エレクトニクス)と初共演したのはそのような理由である。そして11月に渡米し、ソロ、シルヴィ・クルヴォアジェ(ピアノ)とのデュオ、さらに藤山(ピアノ)、武石聡(ドラムス)、永井晶子(ピアノ)、ネッド・ローゼンバーグ(木管)、グラハム・ヘインズ(コルネット)、レジー・ニコルソン(ドラムス)、キム・ドヨン(伽耶琴)、渡辺ゆかり(フルート)からなるコンダクテッド・アンサンブルにも参加した。上坂悠真がコンダクターを務めた。
帰国した長沢は元気を取り戻した。
打楽器
長沢にとっては、ドラムスを演奏する理由は、現在もっともまともに扱える楽器だからである。だから、もし他の楽器のほうがうまく扱えるようになれば、それを使って今のような音楽をすると断言する。
とはいえ、店に置いてある楽器では長沢の理想とするサウンドを作るのが難しい。かれはたくさんのタムなどドラムセット一式を毎回持ち込み、音程感が出るように、キーをもとにひとつひとつのチューニングを行う。打楽器だからといってリズミックな打音だけを展開するのではなく、メロディックにもハーモニックにも演りたい。たくさんのタムがあるのは、ひとつの音に加えて複数による豊かな音を出すことができるからだ。
はじめて楽器を買った22歳のときのこと。うれしくていろいろと試していたら、「ドラムってこんなに音程感が出せるんだ」と気が付いた。これはスタジオでの借り物では聴こえてこないことだ。もともとピアノを弾いていたし、チューニング次第でドラムスでもそのようなことができるのだと気が付いた。いまの演奏に向かう考えはここに端を発している。ピアノは指を使い、ドラムスは両手両足を使うというちがいはあるが、「ひとつのアクションでひとつの音が出る」という点は共通している。だから、長沢はピアノもドラムスもまったく同じ感覚で演奏している。
なお、かれの奏法のベースになっているのは、大学時代にティンパニなどのクラシック・パーカッションを使って学んだものである(右手のグリップについては、数年前に大きく変えた)。
不思議なことだが、ブランクの前と後とで音を出す時の感覚がまったく変わったという。他の人は気が付かないようなものだ。かれ自身にも説明が難しいが、ブランクの前は「音楽をやろうとしていた」が、復帰したあとは「音だけでいいかなという感覚」である。長沢は、この方向に進めばいいんだなと思っている。
インプロヴァイザーたち
富樫雅彦(パーカッション)の音には二十代半ばのころに出会った。メロディックでもハーモニックでもあり、「自分がイメージできるよりもはるかに素晴らしいことを実現できている人がいたのか」という衝撃を受けた。かれは富樫のCDを集め、新宿ピットインでの富樫のライヴにも足を運ぶようになった。実際に多大な影響を受けてもいるし、自分自身でも共通項はたくさんあるだろうと考える。齋藤徹(コントラバス)も、またニューヨークではクルヴォアジェも、長沢のプレイは富樫を思わせるものだと口にした。
だが、本質的にはかなり違うのだと長沢は断言する。ソリストとして考えた場合、富樫のフレージングは単旋律を主としており、それは管楽器的なものだ。いっぽう、かれ自身はそれよりもギターや鍵盤に近いような和音の積み重ねを大事にしたいと思っている。もとより富樫の音楽は非常に幅広く多面的ではあるが、ジャズがひとつの大きな基盤になっている。だが、長沢自身にはジャズの基盤がまったくない。
長沢は、長崎に転居する前にやっておこうと思い、2015年の春にソロ演奏を録音した。このCD『a fragment and beyond』を入院中の齋藤徹が聴き、「ものすごく気に入っています」との連絡をくれた。それがきっかけとなり、長沢から依頼をして共演につながった。齋藤の影響をことばで言うのは難しいが、「徹さんの音そのものが強烈」だった―――それは、メロディやリズムが生まれる以前に音ひとつで強く存在できる音だった。もちろん楽器も人間も異なるが、あのような強い存在の音を出したいと感じた。CDとは異なり、生身のインパクトは強く残るものだ―――加藤崇之を聴いたときにそうであったように。作り出す音の性質が異なっても、仮にそれがピアニッシモであっても。
他には、たとえば、池田陽子(ヴィオラ、ヴァイオリン)、阿部真武(ベース)がおもしろいと思っている。そして、いまの長沢にとってもっとも重要な共演者が遠藤ふみ(ピアノ)だ。ブランクから復帰したとき、かれには自分の進むべき道がはっきり見えたような気がした。その道の先にいたのが遠藤だった。同じ時間と空間において、互いの音は別のものでありながらひとつのものとして共有できる、貴重な存在だという。
(*1)「ひなぎく」の前は「梵天」というジャズバーで、現在は「6次元」というカフェとなっている。
(*2)このとき津田貴司が聴きに来て、フィールドレコーディング用のマイクで録音してくれた。7つのショートピースはそのままCD-R作品となった。
ディスク紹介
(文中敬称略)