インプロヴァイザーの立脚地 vol.18 石田幹雄
Text and photos by Akira Saito 齊藤聡
Interview:2024年2月24日 渋谷・公園通りクラシックスにて
石田幹雄のピアノについて、「こんな感じ」だと説明することはむずかしい。その愉快なもどかしさの鍵は、石田のいう「中庸」「立体」「色味」かもしれない。
北海道
1981年生まれ。2000年に北海道大学に進学し、ピアノが弾きたくてJazz研究会に入った。それまではクラシックピアノを弾いていた。
大学を出てからも、いくつもの転機があった。秋田 “カニ” 祐二(ベース)が、石渡明廣(ギター)に引き合わせてくれた。そして石渡のブッキングにより、西荻窪のアケタの店、新宿ピットイン、横濱エアジンで、津上研太(サックス)、古澤良治郎(ドラムス)、石渡、秋田との共演が実現した。空気感を含め、またとないものを得た。刺激的だった。
同じころ、札幌のジェリコでギターの加藤崇之の演奏をはじめて観た(ベースの金井英人とのデュオ)。その後、加藤が冬の釧路に来て永塚博之(ベース)、藤井信雄(ドラムス)と共演したとき、話をした。「インプロしか演らない」と話す加藤の目に、石田は驚いた。
横浜JAZZプロムナードにはじめて出たのもこのころだ(2005年)。交通費を出すからと人に勧められ、瀬尾高志(ベース)、竹村一哲(ドラムス)とのトリオでコンペティションに出演し、<I Got Rhythm>(スタンダード1曲が課題)と石田のオリジナル曲<低音限界>を演った。<低音限界>は後輩のトロンボーン奏者に「どこまで出るの」と吹いてもらった低音をヒントにして書いた曲だ。そして、かれらは優勝した。賞金で交通費も返すことができた。
並行して、ゴスペルのサークルでも演奏していた。20人から30人くらいのクワイヤがいて、週2回、木曜と土曜の朝に練習し、年末に本番。古い曲に触れて、ジャズやアメリカ音楽に対する大きな気付きを得た。
東京でライヴをやる場合には北海道から出かけていく形だったが、「お客様扱い」ではない立場で活動してはどうかと助言してくれる人がいた。それに、近い世代のミュージシャンたちに会いたくもあった。東京に引っ越した理由はそんなところだった。
東京
東京生活を始めたからといって、いきなり仕事がたくさん入るわけでもない。瀬尾や竹村もまだ北海道にいる。他の人のライヴを観に出かけていくと、先輩から「弾いていくか」と誘われ、入ったりもした。
やがて自身のライヴもできるようになってきた。最初のバンドは、佐藤帆(サックス)、工藤悠(ドラムス)とのトリオである。また、国立のNo Trunks、稲毛のCandy、西荻窪のサンジャック(移転)、高円寺のペンギンハウス(閉店)で、月に1回ほど演らせてもらえるようになった。やがて西荻窪のアケタの店や、サイドメンでの新宿ピットインの昼の部が演奏場所に加わった。
ペンギンハウスでは4つの対バンのトリでピアノソロを弾いていた。ギャラはなく、観客は対バンのメンバーだけ。他のバンドにはプロもアマチュアもいて、おもしろいときもそうでないときもあった。大きかったことは、シンプルに音楽に向き合えたことだ。この過程で得たものが、のちのピアノソロ作『時景』(2018年)につながっている。
人様と一緒に演奏するときにどうすればよいのかという自分への問いかけはつねにあった。一方、ひとりであれば融通が効く。
演奏のありかた
演奏のありかたについて、二十代のころは特に「突き詰めて考えすぎた」という。はじめてだれかと一緒に演るとき、どのように関わるのか。その人はどのように出てくるのか。人との音楽の交換にあたり、曲というものが障害になるように考え、即興をその手法とした。ただ、いまなら曲も介在させられるし、他の方法だって考え付くことができる。
一方、曲をもとに演奏するときには、曲のもつ世界を尊重した演奏を志向するという。それは、ジャズの方法論的に展開するアドリブとは異なるし、石田も自分自身について「ジャズ的ではないのかな」と言う。もちろん好きな曲はあるし(少ないけれど)、時代の勢いや音楽家の欲求の発露を含め、ジャズとは大いなる発明であったのだろうと考えている。ジャズのエネルギーは個人的なかたちとしてあり、それが石田にとっておもしろい側面だ。
大事なことは、それがジャズであるのかどうかではなく、好きなことを演ること。そのために好きな人と演る。メンバーの構成としては、ソロを除けばデュオが多い。トリオも好きだ。たとえば、須川崇志(チェロ、ベース)、三嶋大輝(ベース)、吉田隆一(バリトンサックス等)、後藤篤(トロンボーン)といった面々。安東昇(ベース)、藤井信雄(ドラムス)とのトリオはもう結成から十年以上になる。
インプロヴィゼーション
自分の音楽についてなにが足りないのか、こういうことを大事にしたほうがよいのではないか。もちろん、そのようなことはつねに自問自答している。
たとえば……。
―――もし即興演奏をするならば、演奏過程での思考の向かう先が音楽そのものであれば、それは音楽のための音楽にしかならず、つまらないものになる。そんなことを考えているうちはインプロはインプロではない。つまり、内にこもった音楽はおもしろくないということだ。だとすれば、なぜインプロなのか。それは「人であること」ではないか。「この人」だけでも音楽になることだってある。若いころには、そういったことをなんとなく意識してはいても、十分に向かい合うことができないでいた。生きた音は聴いていて気持ちがよいし、ミュージシャンのありかたで感じ取ることができるものだ、と石田は言う。
―――かつて、一生懸命に演っているときに「石田君のありかたは中庸だね」と言われたことがある。石田はおもしろく受けとめた。なにかの領域の真ん中あたりにいるということではない。どちらかといえば、「中庸」は「ただある」といったような素の佇まいの感覚に近い。
―――若いころ、石渡明廣が描いた絵を見せながら「立体」という概念の話をしてくれたことがある。石田が立体感について考えをめぐらすようになったのはそれがきっかけだ。聴いていていまいちな音は、その人の空間に対する干渉が弱いのかもしれない。そのようなとき、音のイメージは「べったりとしている」。そして、聴いていておもしろい音は、空間に対する気持ちのよいところをピンポイントで突いてくると同時にずっと拡がってゆく。だれもそれを意識してつかみとることができない。「中庸」もまた立体の多次元のなかにある。
―――「Circle Of Fifth」という完全五度の音程のつらなりからなる方法論があって、倍音の相互関係も見出される。このつらなりを移動してゆけば、1周ではなく何周もして遊ぶことができる。たとえばFから1周するとE#、2周するとDにシャープが3個、これを繰り返すと調号が増えてゆき、7周するともとのFにシャープが12個。単一の音ということではFもF#12も同じ周波数のはずだが、音楽は教科書ではない。両者がなにかちがうのかどうか、そのあたりにおもしろみがある。
ここには色相環との類似性があるかもしれない。それに、仮に同系色だけでも色相環を作ることができるのかもしれない。単一の赤色だけを抽出してみれば同じだとしても、ではその色味はどのような赤色からどのようにできたのか。加算か、減算か。たとえばブラジル音楽にしても倍音の広がりが他とはまったくちがい、これは音楽が息づいている風土の光にも影響されているにちがいない。「赤」のイメージひとつとってみても、その人にとっての光のありようでまるで異なるだろう、と。つまり、十二音に単純に還元される話ではないのだ。
かれはそんなことを考えつつ、家の中でピアノでずっと遊んでいたりもする。
共演者たち
吉田隆一や後藤篤との付き合いは長い。だから、かれらが若いころから指向しずっと実践してきたことが形になり始めていることを、石田も現在進行形で感じることができている。その変化に付き合うのが楽しくて、なおさら共演を続けている面もある。
吉田と出会ったのは、東京に出てきてわりとすぐの時期だ。当時近所に住んでおり、ヘンなことをやっている人がいると聞いていた。程なくしてデュオで『霞』を吹き込むことになった(最近もアケタの店で録音し、2作目としてリリースする予定がある)。
松風鉱一(リード)とは北海道で出会った。渋谷毅オーケストラでばんけいジャズフェスティバルに出たとき、主催者に薦められて、瀬尾、竹村とのトリオでピアノを弾く石田を観た。松風は「いいピアノだ」と思ったという(*1)。松風は石田に「いつか一緒に演ろうね」と声をかけ、石田が東京に移ってからもアマチュアのビッグバンド向けに譜面に落とす仕事をまわしてくれたりもした。そんなふうにやさしい人だったが、音楽に対してはまったく譲らず、いつも自分がみるべき方向をみている人でもあった。そのことは、松風が亡くなるまで参加していた「松風鉱一カルテット+石田幹雄」において感じていたことだ。
ディスク紹介
(*1)筆者による松風鉱一へのインタビュー(本誌No.290、2022年6月)。松風は石田をはじめて観た場所をサッポロ・シティ・ジャズだとしているが、石田によれば、おそらく松風の勘違いだろうとのこと。
https://jazztokyo.org/interviews/post-77250/
(文中敬称略)
石田幹雄、フリー・インプロヴィゼーション