Interview #127 (#61 Archive) Keith Jarrett- Part 2
*このインタヴューは、2008年に本誌に掲載されましたが、サーバー移動の際データを喪失したため永らく閲覧できない状態にありました。今回、創刊200号を記念し、アーカイヴとして2回分を一挙に掲載するものです。記載の内容は2007年11月のインタヴュー当時のものです。
キース・ジャレット(pianist/composer)
Interviewed by Nobu Stowe(須藤伸義)
Interview Questions by Kenny Inaoka (稲岡邦弥)/ Nobu Stowe
Photo by RoseAnne +Richard Termine/ECM(stage)
@ キース・ジャレット邸, Oxford, NJ 2007年11月28日
取材協力:Rose Ann Jarrett/ Steve Cloud/ Steve Lake (ECM)/ Tina Pelican (ECM USA)
♪ 作曲について(続)
NS: 引き続き作曲について、質問をして行きたいと思います。
KJ: OK。
NS: キースさんの作曲には、いわゆる“ジャズ”以外の音楽からの影響が多分に聴かれます。とくに J.S. バッハから近代に至るクラシック音楽の影響が現れていると思います。例えば、JT誌の堀内宏公さんはキースさんのオーケストラ作品『ザ・セレスティアル・ホーク』(ECM:1980年作品)とコリン・マクフィー(注1)の諸作品との類縁性を指摘されました。
注1:コリン・マクフィー(1900~1964年)は、カナダ出身の作曲家。バリ島(インドネシア)の音楽を現代クラッシックに取り入れた手法で有名。
KJ: それは興味深い指摘だが、コリン・マクフィーからの直接的影響は無いと思うよ。マクフィーの作品は好きで、彼の協奏曲などを演奏したが...。
NS: ルー・ハリソン(注2)やペギー・グランヴィル=ヒックス(注3)からの影響は?
注2:ルー・ハリソン(1917~2003)は、アメリカ出身の作曲家。マクフィーと同じく、ハリソンもバリ島などの非西欧的音楽からの影響をクラッシクに盛んに取り入れた。12音階をより細分・拡大したマイクロトーン音楽の作曲でも有名。
注3:ペギー・グランヴィル=ヒックス(1912~1990)は、オーストラリア出身の作曲家。
KJ: 彼らの作品も好きで演奏したが、作曲上の影響は無いと思う。少なくとも、直接的には。(注4)
注4:キースが、ハリソンやグランヴィル=ヒックスの作曲を演奏した作品に、『ハリソン:ピアノ・コンチェルト』(NEW WORLD: 1988年作品)、『ホバネス:ミステリアス・マウンテン』(MUSIC MASTERS: 1989年作品)や『ハリソン:セヴン・パストラーレ』(MUSIC MASTERS: 1992年作品)がある。キース演奏のグランヴィル=ヒックスの作品<エトゥルスキャン・コンチェルト>は、上記の『ハリソン:セヴン・パストラーレ』に収録。
NS: では、どの作曲家から直接影響を受けましたか?
KJ: うーん。J.S. バッハとショスタコビッチ、そしてその他大勢の作曲家だよ。(笑い)『ラディエンス』(ECM:2002年作品)録音の前に自分のスタジオで練習しながら、(作曲・即興上の)思考回路を変える努力をしたんだ。具体的に言うと、前にも弾いたことがあるような雰囲気・パッセージが出てきた時、意図的に演奏を中断するようにした。“癖”(habit)で演奏することを止める努力だよ。昔好きだったんが、今ではそれ程でもない音楽を演奏しない事に決めたんだ。だから『ラディエンス』は、僕のそれまでの作品と一線を引く作品だと思う。“止める”(stopping) という行為のおかげで。
NS: 自分の慣れ親しんできた“スタイル”を“止める”という事ですか?
KJ: 違うよ、演奏を“止める”という事だよ。
NS: あぁ、分かりました。即興演奏を意図的に“短く完結させる”という事ですね。
KJ: そういう事だよ。そういうスタイル上の変化において誰に影響を受けたかとあえて憶測すれば、アラン・ぺターソン (Allan Peterson)の名を挙げる事ができる。ぺターソンは、スウェーデン出身の自己流(self-taught)の作曲家だよ。一般的な評価はそれ程高くないが、かなりのオリジナリティーに溢れる作品を書く人物だ。評価の高くない理由の一つは、彼のオーケストレーションは無骨で、洗練とは程遠いからだ。
注5:アラン・ぺターソン(1911~1980)は、17の交響曲他を残した作曲家。ぺターソンの作曲の特徴として、複数の調律によるポリフォニーの活用が挙げられる。
NS: 要するに、モーツァルトのオーケストレーションとは違うという事ですね。
KJ: そうだ。ぺターソンのオーケストレーションは、モーツァルトの洗練には程遠い。しかしぺターソンの音楽は、僕が新たな領域に挑戦するに当たって、大いなるヒントを与えてくれたんだ。彼独自の音楽的語法にかなりの影響を受けた。ぺターソンの音楽は大抵の人をクレイジー(な気分)にすると思うが、一度彼の音世界にはまると容易には抜け出せない。僕が“今”創造したいのは、まさにそのような音楽なんだ。人をクレイジーにする音楽を創りたい。大抵のオーディエンスは抵抗するだろうが、その向こう側に聴こえる“新たな地平”に到達する事は可能だと思う。しかし、一聴クレイジーな音楽のせいで、新たな問題が発生した。その問題は、“咳”と“写真”だ。咳と写真のせいで、僕の集中力が中断されるケースが、最近多いんだ。そのおかげで、オーディエンスを“新たな地平”に連れて行くことが、僕にとっても、オーディエンスにとっても、必要以上に困難なんだ。スタジオでの演奏と違い、コンサート・ホールでの生演奏で“新たな地平”に行くためには、僕と聴衆双方の集中力が必要なんだ。
NS: でも咳の問題は、今に始まった事ではないと思うのですが?昔の聴衆も咳をしたと思いますが...?
KJ: たしかに咳の問題は、昔もあった。しかし、30年ほど前、1970年代において咳は、ほぼアメリカ固有の問題だった。その当時ヨーロッパでは、咳はほどんど聞かれなかったし、日本においては皆無だった。それが現在、咳は世界中で聞かれる。ヨーロッパや日本も、アメリカ並みに悪くなったという事だよ。だが最近のアメリカ人のマナーは、ヨーロッパや日本の観客より良くなっているかもしれない。現在のアメリカの観客、とくにニューヨークの観客の集中力は、日欧の観客のそれより優れていると思う。
NS: しかし『カーネギー・ホール・コンサート』(ECM:2005年作品)録音時、複数の観客の咳のせいで、 “咳タイム”をキースさんがリクエストしたことを覚えているのですが...。(笑い)(注6)
注6:問題の咳が起ったのは、キースの演奏の途中ではなく、演奏の合間。キースが、次の曲(インプロヴィゼーション)を弾くために集中している時だったと思う。キースは、冗談気味に「咳をするなら、“咳タイム”をとるから演奏の前にしてくれ」のようなことを言ったと記憶している。
KJ: いや、会場に緊張感(Electricity)がある時に “仕方なく” 出る咳は、僕の言っている咳と違って問題では無いんだ。今の状況について言えることは、日本のオーディエンスが咳をする可能性がいちばん高いということだ。まるで、何かの回路が入れ替わったみたいに。
NS: どうしてですかね?
KJ: 色々理由があると思うが...。例えば、僕の音楽は昔みたいにロマンチックじゃないとか、聞き辛いとか。しかし、これは悪い癖は世界中に伝達するという実証だよ。咳を我慢するより、咳をすることの方が簡単だ。簡単なことは伝播しやすい。世界中に。しかし、簡単なことは大抵良くないことだろ。(笑い)
NS: 確かにそうですね。(笑い)
KJ: (日本人は)昔に比べて、我慢強く無くなった気がするよ。
NS: そのようですね...。僕はアメリカ暮らしが長いので、それが何故だか分かりませんが、稲岡編集長に聞いてみます。
KJ: そうしてくれよ!(笑い)ただ、日本が他の国に比べてとくに劣っていると言っているわけじゃないよ。しかし昔の日本に比べて、今の日本の状況は良くないことは事実だ。ひとつ推測できることは、僕の音楽が昔ほどロマンチックやメロディックじゃないからだと思う。
NS: だけど、まだ大抵のオーディエンスはキースさんの公演を最後まで鑑賞しているじゃないですか!(笑い)キースさんの音楽をセシル・テイラーpのそれと比べるつもりはありません。が、シカゴでセシルのソロ演奏に最後まで残っていたのは、全体のオーディエンスのたった3分の1です。(注7)
注7:この時の公演では、セシルがピアノを弾き出してから10分も経たない内に、客がゾロゾロ席を立ち始めた。しかし、セシルは何も気にしない様子で、ピアノを最後まで弾き倒していった。客がいなくなったお陰で前の席に移ることができ、個人的には、かなり楽しめたコンサートだったが...。
KJ: いや、確かに。(笑い)
NS: また作曲について質問したいと思います。キースさんの作曲には、クラッシック音楽からの影響とともにに民族音楽からの影響も、色濃く聴かれます。具体的には、どの様な民族音楽から影響を受けたのですか?(注8)
注8:キースの民族音楽からの影響がとくに色濃く現れている作品として、色々な楽器演奏を一人で多重録音した『スピリッツ』(ECM:1986年作品)が挙げられる。
KJ: 誰でも、数種以上の民族音楽を研究・修練すれば、世界各地に散らばる伝統的音楽の共通性に気づくだろう。同じ音楽だが、スペイン人が聞けばスペイン音楽に聞こえ、日本人が聞けば日本の伝統音楽に聞こえるユニバーサル(凡世界的)な民族音楽があるということだ。僕はその(ユニバーサルな)民族音楽を習得し得たと思う。
NS: たとえば、心理学者のカール・ユング(注9)が提唱した、人類共有の“元型”(アーケタイプ)に根ざす音楽があり、それをキースさんが習得し得たということですね。(注10)
注9:カール・ユング(1875~1961)は、スイスの心理学者・精神科医。全人類が共有する深層心理“集団的無意識”の存在を仮定し、分析心理学の理論を創始した。
注10:元型とは、個人を超えた集団的無意識の領域に存在する、全人類の心に普遍的に存在する先天的な力動作用点。民族学上凡世界的に見られる“神”や“英雄”といった心理的イメージを元型の作用と解釈した。
KJ: そうだ。
NS: 大変興味深いです。じつは、良く友達とキースさんが用いるモードについて、それがアラブ的、スペイン音楽的、またはユダヤ的音楽旋法に基づいているか議論をします。大抵は “キース・ジャレット的”という事で落ち着きますが...。(笑い)たしかにキースさんの音楽に聴かれる民族性は、聴く人によって色々な文化に属する音楽に聞こえますね。
KJ: そうだろう。具体例を挙げよう。ここ最近数回の日本でのソロ・コンサートで、すごく日本的なフレーズが浮かんできたことがあった。
NS: 日本的? ペンタトニック(5音階)という事ですか?
KJ: そうだよ。面白いのは、日本的なペンタトニックのフレーズを弾いている最中に、スペイン的なフラメンコの フレーズが突如頭に浮かんできたことだ。それで何度か、日本的なままでいるか、フラメンコに行こうか、少し躊躇する場面に直面した。僕は、意図的に音楽を、例えば日本的やフラメンコ的な音楽に持っていかない。しかし、このようなことはよく起るんだ。ブラジルでのソロ公演の後、現地のあるコンサート・プロデューサーから「どうして、ブラジルでも知る人ぞ知る“何々”という音楽様式を知っているのか」と尋ねられたことがある。「いや、そんな音楽様式は知らない」と答えたが、彼はすごく訝しがって「だって、さっきの公演であんなにオーセンティックに演奏されたじゃないですか」と返してきた。でも、本当にそんな音楽様式は知らなかったんだ。自分が創った音楽でも、その創造過程が分からないことがたびたびあって驚かされるんだ。これは、世界中の民族音楽の底流が繋がっていることを実証していると思う。
NS: そのご自身でも分からない“創造の過程”が、キースさんの音楽に対する“直感的”なアプローチを端的に表していると思います。ゲイリー(ピーコックb)とのインタヴューでも言ったことですが、僕は、キースさんの即興スタイルをユングの心理学的類型(注11)に当てはめ “外向的直感型”と勝手に分類しています。キースさんのフレーズを聴くと第1音を発した時点ですでにフレーズの最後まで完結している印象を受けます。これは、例えば“内向的感覚型”のポール・ブレイpの1音づつが点で徐々に結び付き、フレーズの全体を形作っていく即興方法と根本的に違う創造過程です。
注11:カール・ユングが提唱した、心理学的類型論。外向・内向の2つの主要型と思考・感情・感覚・直感の4つの下位類型から成り立つ8つの基本類型(例:外向性指向型・内向性感情型)で人格(パーソナリティー)を理解・分析する理論。
KJ: 付け足せば、ポールは、僕よりずっと大脳的(思考的)だと思うよ。
NS: そうですね。キースさんの即興方法は、同じ外向的直感型のインプロヴァイザーであるジャンゴ・ラインハルトgやチャーリー・パーカーasの方法論にかなり近いと、個人的に解釈しています。
KJ: ジャンゴとバード(チャーリー・パーカー)は、僕の即興方法を表現するに当たってすごく良い例えだと思うよ。そういったタイプ論に拠る“創造の過程”とは別の話だが、もしチョイスがあるのならピアノを弾きたくないと思う時が多々あるんだ。ピアニスト的なフレーズではなく、ホーン・プレイヤー的なフレーズをピアノで表現したいんだ。どのピアノでもできるというわけではないが、時々ホーン的なフレーズが表現可能なピアノに巡り合うことがある。そうなればしめたもので、ホーン奏者のようにビートの前後を自由に行き来することが可能になる。ピアニストは大抵律儀にビート上で演奏するからね。
NS: キースさんのリズムの自由度はすごいですからね。短音のフレーズと長音のフレーズを自在に織りつつ、抽象的なフレーズとメロディックなフレーズをスリリングに交差させて行かれますね。絶対のスイング/グルーブ感を維持させながらも、ジグザグに。その様な意味でも、ジャンゴやバードの即興との接点を感じさせます。
KJ: リズム/フレージングにおける自由度は、偉大なホーン奏者の演奏にとくに顕著に現れていると思う。たとえば、ウェイン(ショーターts/ss)のソロを聴いてみればいい。マイルス(ディヴィス)とツアーをしている時、自分のソプラノ・サックスを演奏はしなかったが常に持ち歩いていたんだ。ある日、マイルスが寄ってきてこう言った(マイルスの“シワガレ声”を真似しながら)「ヘイ、キース。ゲイリー(バーツts)に音符を曲げる(bend)するように言ってくれ」と。マイルスは、僕がソプラノを空き時間とかに練習していたのを聴いていたのだろう。僕はこう言ったよ「ノー、マイルス。ゲイリーは、僕に彼のサックスすら触らせてくれないんだ。ピアニストの分際でホーン奏者にそんなことは、絶対言えないよ!」と。(笑い)たしかにホーン奏者はピアニストに比べてリズム/フレージングにおける自由度を獲得する割合が高いかも知れないが、それでも成し遂げるのは難しいということだよ。しかしリズムにおける自由度を獲得するということは、音楽を演奏する上で大変に重要なことだと思うよ。
NS: たしかに仰るとおりですが、ピアニストは左手でリズム・キープをするように“義務教育”を受けますから。ソロで演奏する時も、コンボで演奏する時も、大抵左手でビートを追う“義務”もあって、ビートから自由に逸脱したフレーズが弾き辛い状況にあると思います。個人的にその様な“義務”が最初からないホーン奏者を羨ましく思うことが多くあります。演奏形態にも拠りますが、ホーン奏者は自分のビートをミスったとしても、ドラマーのライド(の定型ビート)に会わせることさえできれば、演奏に辻褄が合います!
KJ: 確かにそうだな!(笑い)(ピアニストにとって)潜在的に良いリズム感の有無は演奏の質に決定的な差をもたらす。とくにソロ演奏において顕著だが、グループ演奏においても、先ほど挙げた理由で重要な意味を持つと思う。ホーン奏者は、他のプレイヤーのリズム感に助けられやすいせいで、そこまで潜在的なリズム感に縛られないのかも知れないな...。とくにドラマーのライドにね!(笑い)スイスのテレビ局の要請で、チャーリー・ヘイデンbとデュオで演奏する機会があった。たしかその時まで、チャーリーとデュオ演奏したことは無かったと思うよ。常にポール(モチアンds)が演奏に加わっていたと思う。番組の収録後チャーリーがこう言って来た「キース、君にそんな良いリズム感があるなんて知らなかったよ!」。僕もこう言い返した「同感だよ!チャーリーにそんな良いリズム感があるなんて知らなかった!」。(笑い)ポールのライド(に拠るタイム・キープ)のお陰で、お互いのリズム感に対して無知だったんだ。
NS: それは、興味深いです。
KJ: ピアノは打楽器だ。だから、ヴォイス(肉声)の延長であるホーンと違って、ヴォイスを表現することは難しい。しかし僕はできる限り、ピアノでもってヴォイスを表現したいんだ。
♪ キースの初期の演奏について
NS: 分かりました。次にキースさんの初期(early)の演奏について質問をしたいと思います。
KJ: 僕の、何の演奏?
NS: アーリー(early)です。60年代とかの。
KJ: オー、アーリー(early)か!
NS: すみません。日本人なもので、“L”と“R”の発音の区別が難しいのです。知っての通り、日本人はライス(Lice:ノミ)を食べますからね!
KJ: OK!(笑い)
NS: キースさんの初期の頃の演奏と作曲に、ヴィンス・グアラルディpとの共通点が、僕には聴き取れるのですが...彼の音楽は好きでしたか?(注12)
注12:ヴィンス・グアラルディ(1928~1976)は、サンフランシスコ出身のジャズ・ピアニスト/作曲家。チャールス・シュルツ作の『ピーナッツ』のTV音楽担当で有名だが、リーダー作を始め、カル・ジェイダーvibの作品でも納得の行く“ジャズ演奏”を残していると思う。グアラルディの名を挙げた事を不思議がる人が多くいるかも知れない。しかし、ぜひ『ジャズ・インプレッションズ・オブ・ブラック・オルフェ』(FANTASY:1962年作品)などの作品に耳を通してみて欲しい。このアルバム収録の<アルマ・ビレ>のテーマ部のメローディー、リズム感などを聴けば、僕の言いたいことを分かってもらえると思う。
KJ: 言いたいことは、分かる気がするが...いや、とくに好きではなかったよ。
NS: そうですか...。
KJ: たしかに似ているところはあるかな?何故だか分からないけれど...。カントリー・ウェスタンの影響かな?
NS: 作曲上の共通性もありますが、演奏上もヴィンスの左手を使ったグルーブの出し方が、キースさんに影響を与えているのでは?と、考えていました。たとえば『ケルン・コンサート』(ECM:1975年作品)の演奏などに。しかし、ヴィンスの音楽は、とくに好きではなかったということですね...。
KJ: いや...アニメ用の音楽としては好きだったかな。彼の音楽には、グッド・フィーリングがあったしね。
NS: ヴィンスは、印象に残る曲を多く残したと思います。
KJ: たしかにそうだな。OK...。「ヴィンスの音楽を好きではなかった」と言うべきではないな。いま現在、彼のアルバムは一枚も手元に無いし、自宅でとくに聴こうとは思わないが、結構好きだったよ。ただ、彼からの直接的影響は無いと思う。しかし、彼の音楽にグッド・フィーリングがあるのは認めるよ。
♪ 若手ミュージシャンについて
NS: 若手のミュージシャンの音楽を聴いたり、動向に注意を払ったりしていますか?
KJ: えーと...。(苦笑い)
NS: じつはゲイリーにも同じ質問をしました。ゲイリーは、とくに気に入った若手は思いつかないと言っていました。(注13)
注13:ゲイリーとのインタヴューはJT誌上で読むことができる:
https://web.archive.org/web/20120209151213/http://www.jazztokyo.com/interview/v55/v55.html
KJ: いや。じつは、最近意図的に若手の演奏に耳を傾けるように“努力”しているんだ。だから、君の質問に対する答えは「イエス」だ。しかし、同時に「ノー」でもある。と言うのは、いつも若手の演奏を聞くたびに、がっかりさせられっ放しだからだよ。最近までの数年間、僕は音楽を聴くことを止めていたんだ。ピアノの練習か、自分の録音以外の音楽は。しかし、最近キッチン用のステレオを新調してね。それまで置いてあったステレオは、かなりヒドイ音しか出なかったからね。その新しい装置で、ラジオを食事中などに聴いているんだ。最近のジャズ・シーンの動向を探る目的もあってね。しかし、(若手の演奏を)聴きすぎて、ちょっと飽き飽きしている状態なんだ。と言うのは、最近の若手の音楽から受ける印象は、“誰かのモノ真似”か、僕が “誰かのモノ真似であって欲しい”と願う気持ちだけだからだ。(笑い)
NS: 仰ることは良く分かります。僕自身のことですが、クラッシックで音楽の基礎を学び、いわゆるジャズの勉強は独学でした。もちろんキースさんからの影響が多大ですが。しかし、キースさんのフレーズやソロの取り方をコピーして学ぼうと思ったことはありません。僕が一番注意を払ったのは、キースさんの音楽・即興演奏に向かう姿勢です。しかし、僕の友達を見ていて思うのは、現在主流の“ジャズ教育”というのは、先代のミュージシャンのフレージングやヴォイシングなどを分析・コピーして習得することに重点を置いているという事実です。作曲や編曲において、この方針はある程度有効だと思いますが、オリジナリティを含む自発性が最重要な即興演奏“ソロ”をコピーから覚えるというのは、間違っている気がします。たとえば、チック・コリアpのソロを分析して覚え、チックに似たソロが取れるようになったとしても、チックのソロを超える即興は、オリジナリティを含め、絶対にできないと思います。
KJ: まったく、君に同意するよ。ウィントン(マルサリスtp)の悪しき影響だよ。(注14)
注14:キースは、ウィントンのジャズに対する姿勢が相当気に入らないらしく、英語でのインタヴューで、何度も彼に対する非難を繰り広げてきている。
NS: バークリー音楽大学を始めとする、“ジャズ学校” の台頭もかなり影響していると思いますが...。たしかに誰でもコピーすれば、比較的簡単に “ジャズっぽい” フレーズを弾きこなせるようになると思います。こういったメソードは、商売である “ジャズ学校” においてたしかに効率的かも知れません。しかしジャズに限らず、音楽・芸術でいちばん重要な自発性に基づくオリジナリティ発展の面から、やはりマイナスだと思います。
KJ: 数週間前ラジオを聴いていて、ふとあるピアノ・トリオの演奏に耳を惹かれた。何故かと言うと、一聴驚くほどビル・エヴァンスp・トリオの演奏に似ていたからだ。ピアニストは、ニュアンスも含めビルにそっくりだし、ベーシストは、スコット(ラファロb)みたいだ。そしてドラマーですら、ポール(モチアン)に似ている。だけど、録音状態が(エヴァンス・トリオのそれにしては)良すぎる。そんなことを考えている時、演奏が少しギアを変えハードになった。その時点で、もうエヴァンス・トリオでないことが明白になった。しかし、僕は、こう考えざる得なかった:「何故そこまで、ビルの真似をする必要があるのか!?」と。録音の機会を持つということは、どんなミュージシャンにとっても“特別なこと”だと思う。そのやっと手に入れた、特別な機会に他人の真似を、数分間にしろ、実行することに、一体どの様な意味があるのだろう?
NS: 僕にも分かりませんが、彼らにとってはやはり何か意味があるのでしょうか?
KJ: でも、その放送がウィントンによるプロデュースだと知って、個人的にはすごく納得がいったね。こんな愚行を聞いたこともないし、聞くとも思わなかったよ。歴史を学ぶことは重要だが、他人のモノ真似をすることは、たとえそれが偉大な先人のモノ真似でも、本当に何も意味がないと思う。
NS: エヴァンス・コピーもたくさん耳にしますが、現在ジャレット・コピーのピアニストもたくさん存在しています。とくに、ヨーロッパに多い気がします。
KJ: 知っているよ。
♪ トータル・インプロヴィゼーションについて
『ラディエンス』 と『カーネギーホールコンサート』
NS: 僕は、キースさんのスタイルが好きなので、そういったピアニストに親近感を覚えなくもないのですが...。唯一つ、疑問があります。その様なジャレット派ピアニストは、トリオ/グループでのキースさんの音楽性を継承しようとするが、なぜ誰もキースさんのソロ・インプロヴィゼーションを継承しようとしないのだろう、と。(注15)
注15:筆者が知る限り、キースの開拓した“トータル・インプロヴィゼーション”形式の録音を残しているのは、リッチー・バイラークpと(自分で言うのも何ですが...)僕自身しか知らない。リッチーの“トータル・インプロヴィゼーション”に近い作品として、稲岡編集長プロデュースの昨年惜しくも他界された富樫雅彦perとのデュオ作『津波』(TRIO:1978年作品)などが挙げられる。
KJ: 確かにその通りだな!(笑い)
NS: どうしてでしょうかね?トータル・インプロヴィゼーションは、修得が大変難しいという証でしょうかね?
KJ: そうだな...僕のソロ・インプロヴィゼーションのメソード(トータル・インプロヴィゼーション)は、僕の “専売特許”という事かな?(笑い)
NS: 一つの“モード”に集中する必要があるという事ですか?
KJ:: そういう事さ。だからモーツァルトの楽曲に挑戦していた時は、彼の楽曲以外長い間弾かなかった。
NS: たしかに、キースさんの “専売特許” ですね。トータル・インプロヴィゼーションは、即興演奏に本来的な意味の “作曲” を要求します。このメソードをマスターするためには、まず良い作曲家である必要があると思います。良い作曲家、それも即興で作曲できる音楽家は、良い即興演奏家に比べても、格段に数が少ないと思います。
KJ: ソロ(トータル・インプロヴィゼーション)を行うということは、誰にでもできることではない。また、才能があったからといって、容易に修得できるものでもない。トータル・インプロヴィゼーションと通常の演奏は、まるで別次元の音楽だ。またいおわゆる “フリー・インプロヴィゼーション” や “ジャム” ともまったく違う。僕がソロに良く用いる手法に “ヴァンプ” がある。
NS: モーダルなグルーブを基にした即興方法ですね。
KJ: そうだ。“ヴァンプ” は、どちらかと言えばグループでの表現(ジャム?)に近く、僕も良く使う方法だ。しかし『ラディエンス』において、“ヴァンプ”(注16)を極力避ける努力をした。自身の模倣から自らを解き放つために。そして、新たな即興の可能性を探るために。結果として、一定の成果を挙げることができたと自負している。その新たな成果のおかげで、ケニー(稲岡編集長)の友達は『ラディエンス』を高く評価しているのだと思う。僕の他の作品に比べてユニークなのは確かだ。
注16:オスティナート。感覚的に、ロックで言うところの “ジャム” に近い演奏になる。
NS: 分かります。
KJ: しかし『ラディエンス』で挙げた成果のお陰で『カーネギー・ホール・コンサート』では、また “ヴァンプ” を使う決意がついた。精神的に自分の模倣から解き放たれていたことも重要だったが、カーネギー・ホールの聴衆がすごく “包括的” (inclusive)だったことも影響している。“何でも自由にできる” という雰囲気が、会場や自分自身にあったということだ。君はその場に居合わせたのだから、僕が言いたいことを経験したはずだ。
NS: はい。その通りの状況でした。
KJ: 僕自身も含めた全員が、同じ理由でカーネギー・ホールの会場に居合わせていた。僕は、この観客なら僕が何をしようとも理解し、付いて来てくれると確信した。だから、自分に課していた新たな “ルール”(ヴァンプを用いない)からも解き放てた演奏が可能だったんだ。だから、僕が演奏するつもりの無かった、メロディックなフレーズや、調性的(tonal)でグッド・フィーリングなパッセージなども、素直に現れたのだ。
NS: たしかに『ラディエンス』は、『カーネギー・ホール・コンサート』に比べ抽象的ですね。しかし、一般のフリー・インプロヴィゼーションとは、やはり一線を画しています。抽象的ですが、構成はしっかりしていますし、“歌心” を決して失っていません。
KJ: 僕のソロを “作曲” として見て一作選べと問われれば、僕は『ラディエンス』を推す。
NS: 『ヴィエナ・コンサート』(ECM:1991年作品)はどうですか?
KJ: うーん...。君の言いたいことは分かるが、やはり『ラディエンス』を取るだろう。というのは、『ラディエンス』は短い楽章で成り立っている。そのせいで、より “作曲” 作品としての完成度が高いと思うからだ。僕は、ソロにおいて、決して前もって音楽の進行を決めない。『ラディエンス』を構成している短い楽章のモチーフは、すべて自発的に浮かび上がってきたものだ。結果的に『ラディエンス』は、交響曲に近い楽曲になり得たが、それは計算して起ったことではない。『ヴィエナ・コンサート』にもかなり満足しているが、それは “作曲” という観点からではなく、長尺のインプロヴィゼーションの発展・展開の妙に拠るものだ。
NS: 分かる気がします。
KJ: 『カーネギー・ホール・コンサート』も『ラディエンス』と同じように短い楽章から成り立っている。ひとつ言えば、『カーネギー・ホール・コンサート』の最初のアンコール曲<グッド・ナイト・アメリカ>まで、ひとつの “作曲” 作品として捉えてもらいたい。というのは、1曲目のアンコール前後で、音楽・演奏の雰囲気がまったく違う事実による。僕は、<グッド・ナイト・アメリカ>をコンサートの締めくくりとして演奏したんだ。仕事を成し遂げたという達成感と一緒にね。
NS: その後の4曲のアンコールは、観客へのサービスとして演奏されたのですか?その場に居合わせて光栄でしたが。
KJ: いや(笑い)。その後の4曲のアンコールは、僕自身の成果という以上に、観客との一体感を堪能するために演奏した。(笑い)
♪ ブラッド・メルドーについて
NS: 次の質問に移ります。多くの批評家や、キースさんとも関係の深いチャーリー・ヘイデンを含むミュージシャンが、ブラッド・メルドーpを若手ピアニストの旗手として評価しています。キースさんのメルドーに関する評価は?
KJ: 残念ながら、そのチャーリーを含む人々の意見は、「間違えている」と言わざるを得ない。
NS: じつは、僕もあまりメルドーの音楽に感心していません。
KJ: メルドーは、たしかに彼自身の個性を持っている。しかし、問題はその個性の質だ。彼の音楽性は...何と言おうか...。
NS: えーと...。
KJ: どうぞ。君の方が、メルドーの問題を適切に表すことができるかな...?
NS: 僕の見解としては...キースさんと同じく、メルドーの個性を認めることには、吝(やぶさ)かではないのです。しかし、彼の音楽、とくにソロ(アドリブ)は、あまりにも機械的に聴こえます。これは、彼の出発点がつねに思考的な音楽理論(セオリー)に基づいていることに起因していると思います。音楽理論に頼り過ぎているせいで彼の音楽には、ジャズの一番重要な要素である “自発性” が希薄です。よって、彼のインプロヴィゼーションは、予定調和的です。自発性の無いジャズ、予定調和的なインプロヴィゼーションは、面白みに欠けます。
KJ: 僕が(メルドーの音楽性について)言おうとしたことは、まさに今、君が述べたとおりだよ!彼の音楽はあまりにも大脳(思考)に頼りすぎる。大脳に頼るピアニストと言えば、ポール・ブレイが思いつくが...とくに彼の初期に聴かれるプレイに。ただ、ポールの初期のプレイは素晴らしい。
NS: ゲイリーやスティーブ・スワローb、それにピート・ラロカds やバリー・アルトシュルds らとのトリオ...アルバムで言えば『フット・ルーズ』(SAVOY:1962年作品)の頃のプレイですか?
KJ: そうだ。たしかにポールは大脳的だが、彼は同時に “フリー・スピリッツ” でもある。彼の精神的自由度が、ポールの音楽をスリリングなものに昇華していると思う。しかし、ポールは大脳的だ。そのせいで、彼の音楽から自発性が下がる傾向にある。一方メルドーは、大脳的だが “フリー・スピリッツ” ではない。よって、彼の音楽から自由な自発性が感じられない。ひとことで言うならば、メルドーは “哲学者”だ。
NS: 僕は、メルドーを “理論家” だと思います。彼の音楽からは、音楽理論が透けて見えます。
KJ: まさに、そのとおり。
NS: 音楽理論にしろ、素晴らしいテクニックにしろ、それらはすべて “音楽” を創造するための “道具” であって、芸術創造の目的である “音楽” ではありません。僕がメルドーの音楽に感心できない理由は、彼の目的が “音楽” ではなく、その “道具” である理論に、向かい過ぎているからだと思います。たとえば、デイヴ・リーブマンts/ssもそのような音楽家の一人だと思います。(注17)
注17:批判しているように聞いてしまったが、デイヴ・リーブマンはジョン・コルトレーン以降のサックス奏者では、好きな方です。
KJ: デイヴ・リーブマンか...良い例えだ。(笑い)
NS: メルドーにしろ、リーブマンにしろ、素晴らしいプレイヤー(楽器演奏家)であることに間違いはありません。
KJ: たしかに彼らは、素晴らしいプレイヤーだ。しかし...。
NS: しかし “即興演奏家” として彼らの音楽を判断した場合、今ひとつの物足りなさを感じるのも事実です。
KJ: そのとおりだよ。
NS: えーと...。(笑い)
KJ: 何か?
NS: じつはしばらく前に、稲岡編集長とメルドーの音楽性について議論したことがあったのです。幸いキースさんは、全面的に僕の考えに賛同してくれました。(笑い)
KJ: そうだったのか!(笑い)メルドーは、理論に走りすぎる。彼は、自分の理論を音楽を通して “証明” しようとし過ぎている。その証明(理論)が、彼の音楽創造の目的になってしまっているところに、問題がある。そういうことを、行うべきではない。僕自身もよくライナー・ノートなどで、理論的な証明を試みる。しかし、僕は決して音楽(創造)をその証明の “場” として使わない。
NS: 最大の問題は、メルドーの音楽に耳を傾けると “音楽” ではなく “理論” が聞こえてくることです。僕は、“音楽” を聴きたい。
KJ: そのとおりさ!もし推測するならば...経験を積んでいるせいで、僕は推測することが得意なのだが...彼の音楽創造の目的を変えない限り、メルドーのキャリアは、長くは続かないだろう。一面的に理論に根ざした音楽は、決して長くは続かない。(音楽創造には)多面的なアプローチが不可欠なんだ。理論(証明)を目的に音楽を創ろうとすることは、一方向を向いただけで旅をすることに等しい。
♪ 若手ピアニストについて
NS: 分かりました。次も同じような質問ですが、若手で有望なピアニストは誰かいますか?
KJ: 若手か...うーん...。誰も知らないな。
NS: そうですか。ゲイリー(ピーコック)にも若手で有望なベーシストは誰かいるか聴いたのですが、彼も答えに困っていました。
KJ: うん。誰も思いつかないな。若手の演奏を聴いていないと言うわけじゃないんだ。つい先週もラジオでたくさんのピアニストを聴いたところさ。でもいつも受ける印象は、「違うな」、「彼も違うな」、「彼でも無いな」...そして「おっ、このピアノは結構いけるな。でもちょっと待てよ...なんだハンク・ジョーンズpか」と言うところさ。(笑い)
NS: そうですか。(笑い)たしかにハンク・ジョーンズのピアノは、今でも良いですね。
KJ: ハンクは、良いピアノを弾くよ。
NS: 次の質問です。その前に、ミロスラフ・ヴィトゥスbの『ユニバーサル・シンコペーション』(ECM:2003年作品)は聴かれましたか。
KJ: いや。
NS: そうですか。じつは稲岡編集長の友人が『ユニバーサル・シンコペーション』における、ヤン・ガルバレクts/ssの “新たな地平を切り拓いた” プレイを聴いて、キースさんとヤンとの新たなコラボレーションの可能性について聞いて欲しいとのことなのですが...。
♪ ヤン・ガルバレクについて
『ヌード・アンツ』(ニューダンス)
KJ: 多分、その可能性は無いだろうな。ヤンの最近のプレイを聴いていないので、回答しづらいのだが。じつは昨日の晩、ヤンの娘が音楽を担当したフィルム(映画?)を観たんだ。でも、その作品を見終わるまで、ヤンの娘がミュージシャンになっていた事実すら知らなかった。個人的な見解だが、ヤンはたしかに才能と個性に溢れ、自分自身の進むべき道を良く理解している音楽家だ。しかし、彼の進みたい方向は、いわゆる “ジャズ” ではないと思う。
NS: と、言うのは?
KJ: 彼は、確たる “ヴォイス” だ。
NS: ヴォイス?
KJ: 自分の “音” を持っているということだよ。しかし、彼がその “音” を使いたいのは、ジャズではないと思う。と、言うのは...『ヌード・アンツ』(ECM:1979年作品)を知っているね。(注18)
注18:日本での通常表記の『ヌード・アンツ』を使ったが、英語タイトルの『NUDE ANTS』は、『ニュー・ダンス』と本来は発音すべきで、キースもそう発音していた。
NS: じつは、ここに来るためのドライブ中、そのアルバムを聴いていました。
KJ: それは、グッド・タイミングだなあ!その中の曲<サンシャイン・ソング>でのヤンのソロ(アドリブ)についてなのだが...。
NS: 素晴らしいソロだと思います。
KJ: OK。君が、その演奏について精しいのなら、話は早い!しかし、それはクレイジーな話だが。
NS: クレイジー?
KJ: 個人的見解として、<サンシャイン・ソング>における演奏は、スモール・コンボにおける最良のグループ・ダイナミズムを体現していると思う。エモーショナルな静けさから、バンドが次第に音楽の高みへと有機的に上って行く様が克明に刻まれている。その過程でのヤンのソロは、次から次へと素晴らしいフレーズでもって、まるで列車の行進を思わす僕を含むリズム・セクション(キース/パレ・ダニエルソンb/ヨン・クリステンセンds)の白熱した演奏をバックに、音楽を昇華させていく。
NS: 仰るとおりです。
KJ: セットの直ぐ後、ヴィレッジ・ヴァンガードの楽屋であるキッチンで、その演奏のプレイバックをした。ちなみに、『ヌード・アンツ』の録音は良くないよ。“ナグラ”(注19)で録音したものだが...。
注19:“ナグラ”は、スイスの技術者ステファン・クダルスキーがデザインしたオープン・リール使用のアナログ録音機の名機。
NS: でも演奏は、録音の質を考慮に入れても “素晴らしい” のひとことだと思います。
KJ: とにかく、演奏終了後すぐにキッチンでプレイバックしたんだ。皆、興奮してその演奏に耳を傾けていた。だけどヤン一人、斜めに構え、顔をうなだれているんだ。納得の行かない表情で。僕は、訝しがって「何でそんなに浮かない顔をしているんだい?こんなに素晴らしいソロは、聴いたためしが無いよ!」と聞いてみた。でもヤンは、意気消沈気味に「そうかな?」と、答えただけだった。
NS: それは(ブラック)ジョークと違うのですよね?
KJ: 勿論。ヤンは、真剣だったさ。
NS: 解せませんね?
KJ: 今、考えれば、こういう事だと思う。僕のバンド(ヨーロピアン・クァルテット)に在籍中、ヤンはバンドの音楽に飲み込まれ、彼の意図したプレイヤーとは別種の演奏家にならざるを得なかったんだ。もちろん、そのバンドの音楽性は、ヤンに大きな衝撃を与えたのだったが...それは、彼の進みたい音楽的方向ではなかったということだよ。
NS: しかし、方向性が違うとはいえヨーロピアン・クァルテットで、ヤンのプレイは少なからぬ芸術的ピークを達成し得たと思いますが。
KJ: そうだ。しかし、その芸術的ピークは、ヤンを悩ませたんだ!
NS: 悩ませた!?
KJ: そうだよ。その当時、僕自身もヤンの真意を理解しづらかった。でも、現在までに僕が理解したことは.. .彼は、まずノルウェー人だ。彼には、自分の進みたい道がある。彼の表現したい音楽がある。しかし、彼は僕のグループ在籍中に、自分が、ただの “ジャズ・プレイヤー” になってしまったと感じたんだ。
NS: ただの “ジャズ・プレイヤー” ??(ヨーロピアン・クァルテット在籍中の)彼のプレイは、素晴らしい個性に溢れていたじゃないですか!
KJ: それは承知の上さ!でも、ヤン自身の演奏したい音楽ではなかったということだよ。そのせいで、多分、彼は少し鬱になっていたのだと思う。僕は、当時のヤンが、本当に演りたかった音楽が何であったか知らない。ただ、確実なのは 、ヤンのヴィジョンとヨーロピアン・クァルテットのヴィジョンとに距離があったという事実さ。
NS: 要するに、キースさんとヤンのヴィジョンとの隔たりが原因だったと...?
KJ: (ヨーロピアン・クァルテットの)レパートリーは、僕の作曲だったから、もちろん僕のビジョンが優先的に反映されているが...しかし、ヤンは、僕の決めたフレームの中だったにせよ、素晴らしい演奏を繰りひろげたことに間違いはない!(笑い)
NS: 驚きです。僕は、ヤンのヨーロピアン・クァルテットにおけるプレイは、素晴らしいと思っています。
KJ: そうだよ。この話は、僕の経験した中でもかなり“奇妙”な話だよ。(笑い)僕はヤンに、こう問いただしたね。「何!?本当に何が、問題なんだい???」。(笑い)
NS: OK。(笑い)でも、ヤンは最高のサックス奏者のひとりに違いありません。
KJ: 僕も、同感さ!(笑い)そこでだ。じつは、デューイー(レッドマンts)について、ある意味で今の話と相対する話があるんだ。
NS: それは、ぜひ伺いたいです。
KJ: デューイーは “チェンジ”(コード進行)に沿って、ソロ(アドリブ)を取ることが好きじゃなかった。だから彼が僕のコンボ(アメリカン・クァルテット:キース/デューイー/チャーリー・ヘイデン/ポール・モチアン他)に在籍していた頃、僕は彼のために “フリー” で演奏できるパートをつねに用意したんだ。大抵のアレンジは、僕が最初にコード進行に沿ってソロを取った後、デューイーが “フリー” なソロを取るというものだった。でもある時、それまでコードを無視して吹いていた曲で、デューイーがチェンジに沿った見事なソロを披露したことがあった。それまで、彼にそんなプレイができるなんて知らなかったんだ。
NS: でも、彼は良いプレイヤーだと思いますが。
KJ: うん。しかし、彼のそのようなプレイを聴いたのは、後にも先にもその演奏限りだった。またデューイー自身も、そんなプレイができるなんて思っていなかったのじゃないかな。というのも、演奏の後、デューイーにこう聞いたんだ。「さっきのプレイは、一体どうしたってことだい!?今まで散々、コードに縛られたプレイをするのはイヤだ、と言っていたじゃないか!だけど、あのプレイは何だい!」。(笑い)デューイーは、ひとことこう答えたね「ドン・バイアスtsのことを考えていたんだ」。丁度その日、ドン・バイアスの訃報が入っていてね。(注20)
注20:ドン・バイアス(1912-1972)は、オクラホマ出身のスイング~モダン・ジャズ期にまたがるテナー・サックスの名手。ライオネル・ハンプトンvibなどのビッグ・バンドで活躍した後、ニューヨークに進出。ビ・バップ黎明期よりミントンズ・プレイハウス他を中心に、チャーリー・クリスチャンgやディジー・ガレスピーtpらと共演。1966年以降は、ヨーロッパを中心に活動。
NS: ドン・バイアスは理論に精通していて、コード進行を踏まえた上で、見事なソロを取りますからね。
KJ: そうだ。デューイーはドンのことだけを考えていたせいで、自分のいつもの “ポリシー” から解放された素晴らしいソロを披露したということさ。それまで、デューイーからチェンジについて学ぶなんて思っていなかったけれど、間違いだったよ!(笑い)
NS: デューイー参加の『サバイバーズ・スイート(邦題:残氓)』(ECM:1976年作品)は、個人的に好きなキースさん作品のベスト5に絶対入ります。とくに、デューイーの素晴らしい “フリー” ソロが入る<コンクルージョン>は、絶対の傑作だと思います。(注21)でも、確かにデューイーは、チェンジに沿ったソロをあまり取りませんね。
注21:もし、キースの “前衛性” を疑う読者がいたら、ぜひこの曲を聴いて欲しい。前衛と保守の理想的な融合が示されている。
KJ: 彼自身でも、そんなことができると思っていなかったのじゃないかな?でも、無我の境地でドンの重要性(チェンジに沿った素晴らしいソロ)を無意識的にせよ考えていたお陰で、自分の殻を打ち破った演奏ができたのではないかな?
NS: 仰る通りだと思います。次の質問です。サックス・プレイヤーを入れたコンボで、また演奏する気持ちはありますか?
KJ: いや、ないよ。トリオで演奏することにすごく満足しているからね。“3” は、完璧な数字さ。クァルテットで演奏をするにおいて一番嫌いなことは、ひとりのメンバー(サックス奏者)が参加しない時間が生ずることだ。それは、グループの “自発性” にとって、マイナス要因だ。トリオでなら、常に全員が演奏に参加することができるからね。
♪ バラード演奏について
NS: 分かりました。あと2つ質問があります。
KJ: どうぞ。
NS: ダウンビート誌他の批評家ジェームス・ヘール氏から聞いた話です。数年前に彼が、モントリオール(カナダ)で聴いたキースさんのトリオでの<ユー・ビロング・トゥー・ミー>は「自分のジャス・リスナーとしての人生上、一番心を動かされた演奏のひとつだった」と、語っていました。
KJ: 彼の言いたいことは分かるよ。たしかにその時の<ユー・ビロング・トゥー・ミー>は、最高の演奏ができた。
NS: じつを言うと、<ユー・ビロング・トゥー・ミー>は、僕の知らなかった曲なのです。この曲をよく演奏するのですか?ジェームスは、ぜひアルバム化して欲しいと言っていました。
KJ: <ユー・ビロング・トゥー・ミー>は、他の何曲かとともににトリオが時々演奏するレパートリーに入っている。今まで何回か演奏したが、演るたびに演奏が良くなって行く曲だ。他のそういった曲に、<テネシー・ワルツ>も挙げることができる。
NS: <テネシー・ワルツ>!ぜひトリオ演奏を、聴きたいです。(注22)
注22:<テネシー・ワルツ>は、最近(2008年2月2日)ニューアーク(NJ)で行われた、ジャレット/ピーコック/ディジョネットの25周年記念公演の第2アンコールとして演奏された。この時のコンサートは、僕が今まで聴くことができたこのトリオのコンサートの中でも(通算6回目)、最高の出来だったと思う。
KJ: <ユー・ビロング・トゥー・ミー>は、古いポピュラー・ソングだが、僕の人生において特別な意味を持つ曲ではない。その曲の一番有名なヴァージョンが、“嫌いだ” という以外は。なぜその曲を演ろうと思ったか忘れてしまったが、トリオで最初に演奏した時「この曲は、イケる」と感じたんだ。
NS: 僕は常々キースさんの天才性は、“感情表現” の深さに色濃く出ていると思っています。とくにバラード演奏において、キースさんが到達できる感情表現の深さは、他にあまり類を見ないレヴェルです。たぶんジェームスが感動したのも、その深遠な感情表現だと思います。
KJ: 重要なのは、僕の演奏は、つねに歌詞を念頭に置いているということだ。
NS: つねに歌詞を頭で口ずさみながら、演奏をしているのですか?
KJ: そうだよ。とくに、バラード演奏においてね。僕は、自分の演奏するバラード曲の、最低限でも(歌詞の)重要なフレーズを知っている。じつは、一緒に演奏し始めて20年くらいたったある日、ゲイリー(ピーコック)がこう聴いてきた「キース、歌詞を覚えた上で、演奏しているのか?」とね。「もちろんさ!」と答えたら、ゲイリーは「知らなかったよ!俺なんか、コード進行しか覚えていないよ」と “白状” したんだ。だからこう言ってあげたね。「ベーシストで良かったね。ピアニストだったら、大変なことだったよ!」と。(笑い)
NS: それは大変なことです。僕も(ピアニストとして)、歌詞を勉強しないといけませんね!(笑い)
KJ: いや、それはあくまで、僕の “考え” だから。それに、僕は自分が良く演奏する曲を聴きながら育ったんだ。また、若い頃、よくヴォーカリストの伴奏を勤めたんだ。だから、歌詞を覚える機会はたくさんあった。ヴォーカリストの伴奏を勤めることは、じつは好きな方なんだ。もちろん、良いヴォーカリストのね。大抵の曲は、“存在する理由” があると思う。バラード曲において、歌詞はものすごく重要な “存在理由” だ。美しいメロディーとか、魅力的なコード進行といった“フェイク・ブック” 以外の存在理由としてね。才能あるヴォーカリストによる、ある曲の “解釈” に耳を傾ければ、その曲が存在するに値する “個性” というものが理解できるはずだ。歌詞による存在理由が理解できなければ、その曲はただのストラクチァー(構造物)になり下がってしまう。
NS: 仰ることは、分かりますが...僕が、キースさんのバラード演奏で最高だと思う演奏に『スティル・ライフ』(ECM: 1986年作品)に収録の<アイ・リメンバー・クリフォード>が挙げられます。この曲には、歌詞が付いていなかったと思いますが...?
KJ: そんなことは無いよ。(笑い)
NS: え、そうだったんですか!
KJ: カーメン・マクレエvoが、素晴らしいヴァージョンを残しているよ。
NS: それは、勉強不足でした!(笑い)
KJ: (笑い)
♪ ウンブリア・ジャズ・フェスで一体何が起こったのか
NS: えーと...次の質問は、稲岡編集長の要請によります。とてもしづらい質問なのですが...。
KJ: OK。
NS: 2007年度ウンブリア・ジャズ祭において、一体何が起ったのですか? (注23)
注23:インタヴュー中にも言ったことだが、この時の “事件” はyoutubeで見ることができる。
KJ: それは、とてもシンプルなことだよ。
NS: 大体のことは把握しているのですが。
KJ: それ以外の事実は、ほとんど無いと思うよ。要するにこういうことだ。僕は、もうほぼ25年間もゲイリーとジャックと一緒にトリオで活動している。観客のマナーの悪さは、今に始まったことじゃない。だから、25年間というもの、オーディエンスに忍耐強く “丁寧に” コンサートにおいて何が大切か説明してきた。しかし、ウンブリアで直面した観客のマナーは、本当に我慢の限界を超えるひどさだった。たしかに、僕がそれまでやってきたように、何度もマイクへ向かって、辛抱強く「静かにしてくれ」と観客に言い聞かせることはできた。しかし、覚えておいてもらいたいのは、コンサートで “演奏” するという “精神状態” というのは、決して “丁寧な”(polite)状態ではない。(その状態は)ボクサーがリングに上がる時に持つ “ファイティング・スピリッツ” を考えてもらえれば、理解しやすいはずだ。だから、マイクに向かって“丁寧に”「静かにしてくれ」と観客に言い聞かせることは、音楽をダメに(fuck up)してしまうんだ。今まさに、戦いに臨もうとしているボクサーが、観客に向かって丁寧に「すみませんが、写真を撮らないでいただけますか?」と頼んでいる姿を想像できるかい?できないだろう!でも、僕は、ずっとそういうことをやってきたんだ!
NS: そうですか...。
KJ: 僕は、この “出来事” についてのメディアの報道に少なからぬ不満を持っている。たとえば、次の日のフランスの新聞だ(ル・モンド誌他)。“ジャレットが「写真を撮るな」と観客を罵倒!(Jarrett said “Do NOT take the fuckin’ pictures!”)。でも、これは本当に一方的な報道だ!何故なら、観客の愚行についての記述が欠けているし、僕の行動が、それ(観客の愚行)によって引き出された事実の考慮にも欠けているからだ!この件について、メディアが本当に報道すべき事実は、ステージ上で起こったことではなく、観客席で起ったことのはずだ!ステージに上がるまで、僕らは、上機嫌だったさ。でも、あの日の観客の態度には、本当に我慢の限界を超えさせられたよ。観客は演奏が嫌なら、席を立つ選択がある。だが、僕らには、そんな選択は無い。ギャラを貰うために、ピアノを我慢して弾く手もあったかも知れない。でも、そんな精神状態で良い音楽が創造できると思うかい?できるはずは無いし、そんな馬鹿な我慢をすることは、正しいことだとも思わない。事実、今まで “丁寧に” マイクに向かって(観客)にお願いしたり、英語が通じるオーディエンスには “教育” しようとしたりして来たんだ。だから、そんな “丁寧さ” が、いかに “効果が無い” かを知っている。僕は、ピアノの配置のせいで、観客席に背を向けていられるが、ゲイリーとジャックは観客の愚行(カメラのフラッシュ)に耐えなければならない。とくに、ゲイリーの目は光に過敏なんだ。僕は、ゲイリーが眩しそうに耐えかねている姿を見て「何とかしなきゃ」と思い直接行動に出たんだ。観客はゲイリーとジャックの(演奏にかける)“努力” を尊敬の念を持って迎えるべきだと思う。だから、マイクに向かって強く言ったんだ!
NS: youtubeでその場面を見ました。
KJ: そのファイルの存在は知っているよ。その出来事が起った街 “ペルージア” について何も文句は無いし、素晴らしい街だと思う。ただ、あの日のフォトグラファー達には、本当に我慢がならなかった!
NS: それは、プロの写真家ですか?
KJ: 違うよ。携帯電話の写真だよ。フラッシュ付きの。たとえば、一人の観客は座席に隠れつつ、フラッシュを使い、カメラを取り続けていたんだ。コンサートの主催者からの(写真を撮るなという)要請にもかかわらず。この件について、君の前にインタヴューを受けた時、こうリポーターに聞いたね。(今話したような状況を理解した上で)「本当のニュースは、ステージ上にあるのか、それとも観客席にあるのか?」とたずねてみたね!ゲイリーとジャックは、こんな仕打ちに耐えるべきではないし、僕も “丁寧” にマイクに何度も向かうのはゴメンだ、と思った。だから、一発ガツンという行動に出たんだ。効果はあったさ!(笑い)この話は、考えれば本当におかしな話だよ。(笑い)
NS: その時の状況が、大変良く理解できました。今の質問が、用意してきた最後の質問です。お陰さまですべて回答をいただき、大変ありがとうございました。
KJ: それは良かった。
NS: ついでと言ったら申訳ないのですが...本当にこれが最後の質問です。稲岡編集長からです。(ご子息の)ゲイブリエルは、今何されているのですか?(注24)
注24:キースは、ゲイブリエルperとのデュオで、ビデオ映像作品『日本空からの横断PART.2 日本海縦断ルート』(ポニーキャニオン:1988年作品)の音楽を担当。ちなみにプロデューサーは、稲岡編集長。現在でもAmazon等で入手可能。
KJ: ゲイブリエルは、元気だよ。ボストン近郊でドラムを教えているよ。
NS: 本当に大変ありがとうございました。
KJ: ノー・プロブレム!
後書き:インタヴューは当初1時間を予定していたが、終了したのは予定を1時間近くオーバーした午後6時。こんなことを書くとキースから “呆れられる” かもしれないが、僕の最大のジャズ・アイドルであるキースと2時間近くも話せたことは、本当にまたとない経験になった。終了後「時間をオーバーし過ぎたかも」と不安になったが、キースは親切に外のゲートまで送ってくれた。帰りのバルチモアまでの3時間は、インタヴューを聞き返しながら帰った。
*初出:JazzTokyo #2008 / 再掲載:JazzTokyo #200 (2014年7月27日)