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InterviewsNo. 251

#181 川島誠 インタビュー:みんなの「心」が集まって生まれる即興演奏

Interviewed by 剛田武  Takeshi Goda

Photos by 南達雄(メイン写真/山猫軒)、船木和倖、 turbo(それぞれクレジット有)

 

●BIOGRAPHY

川島誠 Makoto Kawashima  (alto sax)
1981年4月10日生まれ。2008年からアルトサックスの即興演奏をはじめ、2015年、P.S.F. Recordsからソロ・アルバム『HOMO SACER』を発表する。自己のレーベルHomosacer Records(ホモ・サケルレコード)主宰。

Homosacer Records公式サイト http://kanpanelra.wix.com/homosacerrecords

 

●DISCOGRAPHY
<Solo & Duo>
『UNIFICATION』Makoto KAWASHIMA SOLO CD-R
CD-R : HomoSacer Records HMSD-000 (2011)

『HOMO SACER』Makoto Kawashima
CD : P.S.F.Records PSFD-211 (2015)
LP : Black Editions (2019)

『浜千鳥』川島誠, 西沢直人 ‎Duo
CD : Homosacer Records ‎HMSD 001 (2016)
Makoto KAWASHIMA Alto Saxophone
Naoto NISHIZAWA Percussion

『酒游舘』Makoto Kawashima SOLO Live CD-R
CD-R : HomoSacer Records HMSD-002 (2016)
Recorded At – Shuyukan on June 25, 2016.

『Dialogue』Makoto Kawashima
CD : HomoSacer Records HMSD-003 (2017)
Recorded At – Ogose Yamanekoken

『You Also Here』Makoto Kawashima
CD : Homosacer Records ‎HMSD-004 (2018/11)
1 2016.12.13 Kid Ailack Art Hall
2 2017.1.29 Downtown Music Gallery (New York)
3 2017.2.14 Kawagoe I.M.O. 2:02
4 2018.9.8 Hanno Amigo

<Compilation / Split>
V.A.『Tokyo Flashback P.S.F. 〜Psychedelic Speed Freaks〜』
2CD : SUPER FUJI DISCS FJSP271/272 (2017)
Disc 2 Track 8. 川島誠 / 窓からの輝き

Harutaka Mochizuki, Kawashima Makoto 『Free Wind Mood』
LP : An’archives ‎[An’14] (2018)
Side B. Makoto Kawashima
Recorded on November 18, 2017 酒遊館

 


まもなくアメリカのレーベルBlack Editionsから川島誠がP.S.F. Recordsから2015年にリリースしたソロ・アルバム『HOMO SACER』がアナログLPでリリースされる。故・生悦住英夫の独特の音楽観が貫かれたこのレーベルの最後のリリースであるこのアルバムが、海外でも注目される日本の即興/地下音楽の現在を象徴する作品として紹介される意義は大きい。海外リリースと連動して川島のアメリカツアーも計画されているという。

本インタビューは、当初の海外リリースに合わせて2018年2月18日(土)東京 吉祥寺 くぐつ草にて行われた対話を基に構成された。時折頭を垂れて言葉を探しながら口にする朴訥とした語り口は、サックスプレイに通じる情念の迸りを感じさせた。最近ますます活発に活動する川島の音楽の背景にある経験と思想を存分に語ってくれた。


●少年時代

Q:生まれは?どんな家庭で育ったのですか?

A:1981年4月10日埼玉県の小川町という所で生まれました。一人っ子で、美容師の両親と3人暮らし、週末は、嵐山の祖父母の所で寝泊まりしていました。祖父は江戸っ子で厳格な人でしたが、田舎の坂道をよく肩車して電車を見に連れていってくれた記憶が鮮明に残っています。

Q:音楽環境は?

A:家に茶色いアップライトピアノがあって、それを良く即興で弾いていましたね。母親が吉田拓郎をよく歌ってくれて、「人生なんてララララー」の所で、笑い転げていたのを覚えています。最初に触れた楽器はピアノでした。祖母は三味線、祖父は尺八をやっていました。曽祖父が彫刻家で作品をよく見せてもらい、日本の美意識とか侘び寂びを感じさせてもらっていたような記憶があります。

Q:どんな子供でしたか?

A:素直で良い子だったみたいです 。お菓子をねだることもしない、一個と言われれば一個持っていくみたいな。学校の勉強も嫌いじゃなかったですね。あとは、父親の影響でブルース・リーやジャッキー・チェンの映画が好きでよく真似したり。活発で、冗談を言って人を笑わせるのも好きでしたね。反面、極度な恥ずかしがり屋なので、初対面の人だと緊張して喋れなくなってもじもじしてしまう、好奇心旺盛だけど人見知りな子でしたね。

Q:最初の音楽の記憶は?

A:母親がギターで「帰ってきた酔っ払い」を弾いて一緒に歌った記憶ですね。「オラは死んじまっただー」を延々と繰り返して、あの時は子供ながらになんて歌だと衝撃を受けました。天国の階段を上がっていく人の姿が見えて、人間ってこんな風に死んでいくのかなって真剣に考えていました。

Q:小・中学生の頃の音楽体験を教えてください。

A:一番印象に残っているのは学校での音楽の時間ですね、合唱なんかはほんとに一生懸命練習していました。合唱コンクールで優勝した時は嬉しくて号泣しましたね。一人ではこの感動は絶対できないなと思った事を覚えています。中学2年の時に、近所のお兄さんに教わってギターを弾くようなりました。

Q:10代の頃どんな音楽を聴いていましたか?

A:中学生の最初の頃はX-Japanが好きで聴いていましたね。テンポの速いハードロックが好きでした。あとはBON JOVIとか奥田民生とか、母親の影響で井上陽水、吉田拓郎もよく聴いていました。

Q:楽器演奏やバンド活動は?

A:中学生からずっと今も母親からもらったヤマハのフォークギターを弾いていて、こたつでギターを抱いたままよく寝てしまっていましたね。学校でも昼休みになると音楽室に走ってって、クラシックギターでBON JOVIとか歌っていました。中学2年でバンドを始めて、BON JOVIやX-Japanのコピーバンドでリードギターをやっていました。17歳からはNIRVANAやヴェルヴェット・アンダーグラウンドに衝撃を受けて、ヴォーカル&ギターに転向してオリジナルの曲を作りはじめました。それから10年近くバンドはやっていました。

Q:住まいはずっと同じ場所(埼玉県川越近郊)ですか?

A:そうですね。祖父母の家に行ったり、県内では引越しを数回したりしていますが、あまり遠くには行っていません。ずっと川越近郊ですね。

Q:住んでいる場所から受けた影響は?

A:凄くあると思います。ずっと田舎暮らしなので、ちょっと行けば田んぼだらけだし、子供の時は通学路が青春でした。片道1時間以上歩いて通学していましたから。時々畑仕事をするおばあさんが夕焼けを見ながら歌を歌っていて、それが「赤とんぼ」とかで、一緒に歌ったりしていました。あれは良かったな。そういう幼少期の記憶の断片が奥底にあり、影響しているのかもしれませんね。

 

●アルトサックスとの出会い

Q:アルトサックスを始めたのはいつ?きっかけは?

A:バンドが解散して2007年だったかな、ひとりで何かやりたくて、たまたまジム・ジャームッシュJim Jarmuschの映画(『Permanent Vacation(1980)』)を観ていて、そこに路上のサックス吹きとしてでた、ジョン・ルーリー John Lurieの音が衝撃的で、あの音はどうやって出しているんだろうって興味持ったのがきっかけですね。その時は名前すら知らなかったので、「あの映画に出てきたサックス吹き」ですね。その当時、サックス吹きは他には誰も知らなかったですね。

Q:翌年27歳の頃からアルトサックスで即興演奏をはじめたきっかけは?

A:当時、自分の感情を抽象画で表していた時期でした。
絵は昔からよく描いていて、サックスを始めるくらいの頃に何か表現をしたいなと思っていた時で、壁中に白い紙を貼りまくって、木炭を置いておいて、目が覚めたらまずスーって何か描くんです。そういうのをずっとやっていて(笑)。いつ完成するかもわからないけど、朝起きたら少しずつ描いて、で、何か一つになったり、破いて捨てちゃったり。別にそれを作品として取っておくとかではなくて、日常的な日課にして行けば、自分がそのままでいられるというか。なにか(表現活動を)していないとダメなんですよ、たぶん。

Q:それを音楽で出来ないかと考えたのですね?

A:絵は簡単に破けるということが分かっちゃったから、それが寂しくなってきて、最終的には全部しまってしまい、サックスでやってみようと、同じ感覚でやり始めました。日課として。音は生きている感じがしたし、ずっとそこにもいてくれないから、楽しかった。絵に比べて、リアリティを感じました。

Q:サックスは完全な独学ですか?最初から今のような吹き方でしたか?

A:完全な独学ですね。誰に教えて貰えばいいのかもわかりません。いろんな影響を受けてきたので、吹き方はかなり変化していると思います。最初はかなりソフトでした。

Q:どのような練習をどのくらい(一日何時間とか)しましたか?

A:意識して何時間やろうとかはしないですね。あの音はどう出すんだろうと思えば、その音が出るまでやる、という感じで。普段はサックスは指慣らし程度で、ギターの方が触れている時間が長いです。メロディーをギターで作る場合もありますが、そのままサックスに持ち替えても、同じメロディーがすぐ吹けるので、耳で音を覚えるのは、同じ事なのかもしれません。だけど、LIVE中(緊張状態)にふとでてきたメロディーが一番美しく、尊い。

Q:現在は?

A:現在もいわゆる練習ということは意識してはやりませんが、歌が好きなので、今「ムーンリバー」のメロディーを吹けるように練習しています。僕の場合、実際楽器に触ることだけが練習ではありませんし、技法を向上させるということにはあまり重点を置いていないので、僕にとっては「生きている」様々な体験こそが、そのまま創造と変化の要素になり、それを表していく事で、演奏の向上につながっているのだと思います。

ぼくの音楽は「歌」が重要です。でも歌は、心を打つ「なにか」がないとなかなか出てこなくて、それは凄く悲しい出来事の場合が多いのですが 、その気持ちもずっとは留めておけないものです。LIVE(極度な緊張状態)がある意味、一番自分と対話(Dialouge)ができる、唯一の練習の場でもあるし、自分の今の状態がそのままわかるので、その「場」で自分を試しているのだと思います。完璧な演奏というものは僕にはできないし、精神状態は常に変わっていくものなので、演奏も毎回全然違います。

即興では、自分の知らない自分まで引っ張ってきて、次元の違うところで表現できるところがいいですね。やっていくうちに、感覚がすべてと繋がっているような感じがして、聞く人や場所によって戻ってくるものが全然違う事もわかりました。

Q:他の楽器や歌もやられると思いますが、アルトサックスが特別な理由は?

A:アルトは僕にとっては身体の一部になる唯一の楽器。精神と融合した魂のようです。楽器を構えるだけで、自分じゃないものが背後に現れる。他の楽器ではそれはできません。

酒游舘
撮影 船木和倖

●山猫軒と阿部薫

Q:サックスの即興演奏を始めてからの活動場所は?

A:昔からカフェ巡りが好きだったので、雑誌で紹介されていた埼玉県の越生町の山奥にある山猫軒というカフェ&ギャラリーに行ってみたんです。そしたら、阿部薫さんの写真が大きく飾られていて、高柳昌行さんのCDが置いてあるし、びっくりして、オーナーの南達雄さんに尋ねたら、写真は南さんが撮ったものと聞いて二度びっくり。阿部さんと会った事がある人と初めてお会いしたので、いろんなお話をしていくうちに、演奏を聴いてもらうようになり、いつのまにかレコーディングやライヴの活動拠点になっていました。確か2010年頃のことです。

Q:阿部薫を知ったのはいつ頃、どういうきっかけですか?聴いたときどう思いましたか?

A:阿部さんをはじめて聴いたのは、サックスを始めて間もない頃、知り合いが僕のやっている事に似ているとか言って貸してくれました。スタジオ・セッションでした。なんだこれ?という印象でした。無機質で、血が通ってないような冷たい感じがしてすぐ止めました。最初はよくわからなかったです。だけどそれからずっと阿部さんの存在が気になっていて、もう一度聴いてみようと思い、ジャケ買いで『なしくずしの死』のレコードを買って聴いたら、一瞬にして凍りついてしまって・・・。これは本当に人間が鳴らしているのかと、びっくりして、涙がこぼれましたね。嘘がない、ほんとに美しい音だと思った。ぼくが思っていることや考えていることを全部わかっているような感じで、阿部さん の魂に直接触れたという感じがしました。生身すぎて怖かったし、それがとても嬉しかった。

Q:阿部薫を実際に観てきた南さんは、川島さんの演奏に感想やアドバイスをくれましたか?

A:ほとんどないですね。感想とか言う人じゃないんで。南さんは基本オープンな人だし、南さん自身は演奏する人じゃないので、僕には何も言えないってことはよく話していましたね。余計なことは言いたくないんだと思います。山猫軒をたくさんいろんな人に利用してほしいと言ってくれています。山猫軒は音の反響が素晴らしく、自然な雨音や鳥の声が聞こえて、自然体で演奏できる唯一の場所です。阿部さんも上から見ていますしね。

Q:そこで生まれたのが1st CD-R『UNIFICATION』ですね。

A:自分のやりたい事がはっきりしてきたので、一度「統一」をするために、山猫軒で記録を残したいと思いレコーディングしました。その日は意識をある程度カットしたかったので、照明を全部落として暗闇でレコーディングしました。音が青い閃光のように見えていました。それは自分の最初の記録として納得できるものだったので、リリースする事にしました。

『UNIFICATION』

●生悦住英夫とPSFレコード

Q:PSFレコード/モダーンミュージックを知ったきっかけは?

A:いつだったかはっきり覚えていませんが、聴きたい音楽が全然なくて、唯一阿部さんのCDが買いたくて、お店を探していたら、PSF/モダーンミュージックと出てきて、面白そうなところなので実際店舗に行けば色々話しが聞けるかなと思い、自分のCDも聴いてもらいたいと思ってすぐ行きました。2011年か12年だったと思います。そのとき初めて生悦住英夫さんと話したのです。

Q:印象はどうでしたか?

A:よく喋る店員さんだなと思いました。顔を知らなかったので、最初は誰かわかっていませんでした。まさか生悦住さん本人だったとは。話してくうちにわかりましたが、凄く気さくでなんでもはっきり言うし、楽しかったですね。

Q:自分の音楽を聴かせた理由は?

A:生悦住さんに、山猫軒の音源は、気に入ってもらえるような気がしていたので、もしかしたら店に置かせてくれるかもしれないと思って持っていきました。というか、直感で生悦住さんが気に入れば、きっと良い音楽なんだろうなと思っていました。それで、自分を試してみたかったんだと思います。

Q:PSFからCDをリリースすることになったエピソードを教えてください。

A:PSFから出そうねと、最初の頃から言われていたのですが、僕自身、なかなか良い演奏ができなくて、生悦住さんにいつも、もう少し心がねー、力みすぎと言われて。そのくらいの時から、「心」とか「情」とか自分に足りないものを気にしはじめました。生悦住さんが演歌のCD-Rをたくさんくれて「これ聴いて」と。船村徹や田端義夫やちあきなおみをよく聴いていました。

ある時、阿部さんのお母さんの家に生悦住さんと訪れて、酒盛りしていたら、お母さんが「薫のアルトを川島さん吹いてくれない?薫が川島さんに吹いてほしいと言ってる」と言われて、その場で阿部さんの手の跡がついたマーク6を吹き、お母さんは感動して泣いてくれました。そしたらお母さんが、阿部さんの使用したリードを「使って」と、僕にくれました。お母さんにとって凄く大切な「想い」を僕に託してくれた事が凄く嬉しくて・・・。こういう気持ちが「音」になるんだと思って、すぐに山猫軒で阿部さんのリードでレコーディングをしました、大雨の日でした。

Q:どんな気分でしたか?

A:阿部さんの手の跡、癖、が触った瞬間伝わってきました。ボロボロの命がけで使っていたんだなと、すぐわかりました。そして、本当にお母さんの近くにいつもいるんだなと思いました。寒気も凄くした。お母さんと話していると、息子を愛する想いが凄く伝わってきました。そんな想いが、リードをもらったとき、自分に託されたような気がして、生悦住さんや、南さんや、みんなの想いがそこに一つに集まってきたんだと感じました。

Q:演奏中は?

A:僕はずっと天井を見つめていました。その時またあの青白い閃光が天井に見えて、なにかと1つになっている気がしました。そこには生悦住さんや阿部さんや、阿部さんのお母さんや南さんや、みんなの「心」がここにあるんだと思い、凄く安心した気持ちでリラックスして演奏できたんです。

その録音を生悦住さんに聴かせたら、「素晴らしい!!これを出そう!!」と言ってくれて、あの時は本当に嬉しかった。ちゃんとわかってくれるんだって。涙が溢れました。それが『HOMO SACER』になりました。

『HOMO SACER』

Q:阿部さんのリードで吹いていた時に見えた「青い閃光」とは具体的にどういうものですか?

A:これは山猫軒のときだけのものだと思います。青い閃光は山に囲まれた自然の中の音の摩擦。意識の摩擦というか。

Q:普段演奏しているときは何が見えているのですか?

A:良く見るのは化け物です。それは影だったり、妖怪だったり。自分の内と、まわりから受け取る外が化け物として出てくる。僕がやりたいのは多分それをある程度具現化するということなのだと思っています。人間の中にある目を背けたくなる本性というか。それは具現化したりメロディーになってでたりする。

Q:メロディーは美しいけれど、中には怪物や醜悪なものが混ざっている、という感じ?

A:まあ、人間ってまっすぐな気持ちでいるとそうなっちゃうのかなと。化け物が見えないときもありますが。

Q:生悦住さんの言葉で特に印象に残っているのは?

A:とにかく「心が入って」いないとだめでしたからね。あとは「自然感覚」を表現してねとよく言われました。少しでも力んだりすると、すぐわかってしまうし、起承転結がわかりやすいとだめだし。たくさん話していたからまだ色々ありますが、だいたい同じ事を言われていた気がします。川島君の音は「歌心を感じる」と言ってくれたのは凄く嬉しかったです。

 

●松坂敏子とカフェパスタン

Q:阿部薫がよく出演していた福島カフェパスタンで演奏しましたね。当時存命だったオーナーの松坂敏子さんとのエピソードをお願いします。

A:初めてパスタンのママと話したのは、阿部さんのお母さんのところへはじめて生悦住さんと行った時に、松坂さんからたまたまお母さん宛に電話があったんです。僕と話した瞬間、「あなた、パスタンでやりなさい、声を聞けばわかる」といわれて、その年(2015年)にはじめてパスタンのステージに立ちました。

パスタンは阿部さんがずっとやっていたところだったので、興味はずっとありました。でもパスタンのステージに上がるということは自分にとっては「試される場所」です。松坂さんは阿部さんの音にずっと寄り添い、感じてきた人だから、音を聴いてもらうことは、どうしても阿部さんとの比較になると思ったし。正直怖かった。でも松坂さんは、阿部さんどうこうじゃなくて、純粋に僕の音を気に入ってくれて、たくさん褒めてくれました。とても嬉しかった。本当に音を愛している人なんだと思いました。

Q:松坂さんから何かアドバイスはありましたか?

A:僕がパスタンのステージに上がる前に、松坂さんのご自宅の庭で練習しろと。手作りの庭で、野花がたくさん生えていて、とても美しい庭でした。ここで練習をしてからステージに上がれって言ってくれて。「それは絶対あなたのためになる」って言われたんですよ。「自然感覚」ということを習ったのは松坂さんからかもしれません。

Q:お客さんはどうでしたか?

A:ライヴに来てくれた客さんは昔からパスタンに来ている方たちが多くて、異質な空気でした。誰も笑わない。阿部さん達を生で観てきた方達が観ているので緊張しました。でも、お客さんの1人が「気持ちが伝わってきた。ありがとう。嬉しかった」と言ってくれたのは嬉しかったですね。ママは「あんた阿部薫の生まれ変わりなんじゃないの」と言って、僕は「違うし、嫌だよ」と笑い合いました。

Q:その後、阿部薫さんの命日に出演しましたね。

A:その次の年にまたママから電話があり、すごく体調が悪そうな声で「私が死ぬ前にもう一度あなたの音を聴かせて。あなたの他にも何人か連れてきて9月9日にやりなさい」と言われました。死ぬ前になんて、最初は冗談かと思っていました。それで、今井和雄さん、ヒグチケイコさん、橋本孝之さんをお誘いしました。みんな、なにかが乗り移っているような、それぞれの想いが伝わってきた演奏会だったと思います。
また近いうち来るね、と別れたその翌年の1月2日、棺に入ったママとの対面になりました。棺の中のママの顔は笑っていなくて、「遅いわよ」と怒られているようでした。でも献奏を終えると、ママの顔が笑顔に変わったように見えた。僕の気持ちがそう思えたのかもしれない。松坂さん、お世話になりました。ありがとうございました。僕にとってパスタンはずっと大切な場所です。

Q:他の人から阿部薫に似ていると言われたことはありますか?

A:特にはないですね。最初のCDRは特に、阿部さんの影響はあると思います。でも生悦住さんは、僕の音にオリジナルな物を感じてくれたんで、凄く嬉しかった。まだまだと言ってくれたことも。

Q:比較されて嫌な思いをしたことは?

A:それは一回もないですね。自分のやりたいことは最初から伝わっていたというか。阿部さんのことは演奏の時は意外と意識しないです。

 

●演奏の場と意識

Q:川越駅の歩道橋で野外演奏されていますが、その意図は?

A:歩道橋で演奏するのはなにかしら人の意識に変化があるのではと思ってやっています。なるべく空気に馴染ませないようにしたり。大勢の中から自分を客観的にとらえる事ができるのも重要です。

歩道橋は人に対してですが、山猫軒は、草木や、動物とか川とか星とか、自然に対して、というか、自然から自分に向けて吹かせてもらっているという感じですかね。そこでも、自分を客観視しているのだと思います。自分も人間なので、「街」と「山」とその変化を、感じたいからですかね。

Q:「空気に馴染ませないように意識している」とは、街の空気と同化しない異質な存在でありたいということですか?

A:まあそうですね。日常には異物感というか、そういうのがあった方が面白いと思います。それによって人の意識に変化させたいというのがライヴの目的のひとつでもあります。

Q:「自分を客観的に捉える」とありますが、客観視とは具体的には?

A:宇宙から見た自分を一つとして認識したいという事です。

Q:演奏中、吹いている自分とそれを見ている自分がいるという感じですか?

A:そうですね。もっとマクロ的な視点ですが。

Q:最初に川島さんのライヴを観たのは2016年12月、閉館する直前の明大前キッドアイラックホールでした。灯りがひとつだけで他に何もない空間で演奏するのを観て、そこに居る魂を清めて送り出そうとする儀式に思えました。今でもそういう連想をしてしまいます。宗教ではなくて神性な感じがあり、聴き手も集中しないといけないので、その儀式に参加している気がします。それについてどう思いますか。

A:「儀式」として意識したことはありませんが、それに近いことをやっているのかもしれませんね。キッドアイラックの時は「終わっちゃうのかー」と思うと、自然とありがとうと想いを込めるわけで。自分の中に「ここで出すべき音」というのがいつもあると思います。

Q:川島さんのライヴを観ていると音以外の部分、姿や動きからすごく大きな印象を受けます。音をさらに伝えるパワーがある。その動きは何処から出てくるのでしょうか?

A:単純に音を出すのは身体の「動き」なので、低音なら低音、地面を這わせたほうが伝わりやすいという。動きで音って決まるので。それに従っています。

Q:一方でサックスを構えたまま動かない時もありますね。音を出していない時、身体も止まっている時、音は鳴っているのでしょうか?

A:音は常に鳴っていますし繋がっています。

Q:ライヴだと止まっている川島さんのちょっとした動きから音が聴こえる気がしますが、CDで聴くと音が無いところは文字通り無音ですよね。それでも音は鳴っている?

A:音が無くなることはないですね。

Q:演奏の終わり方はどう意識していますか?即興演奏は終わり方が難しい気がしますが、いつ終わるとか決めていますか?

A:終わりは意識しないです。音は常に鳴っています。でもどこかでやめないと倒れてしまうので、だいたい一回の演奏は20分というのが自分にはあって、自然にそれくらいに終わります。

Q:実際に演奏を観ていると、これを1時間続けたらぶっ倒れるな、と思います(笑)。

A:そうですね。浦邊雅祥さんと共演した時は1時間ぶっ通しで死ぬかと思いました。

Q:計っている訳じゃなくてもソロは20分で終るのですね。エンディングにはこういうフレーズ、というのは?

A:ないですね。起承転結をつけるのが好きではないので。

六本木スーパーデラックス
撮影 船木和倖

●暗闇にあるもの

Q:ライヴ中の照明はたいてい暗めですし、写真や、たとえば今座っているテーブルでも川島さんは影や暗闇にいることが多いですね。

A:そうですね。なぜかいつも暗いですね。

Q:それはなぜでしょう?

A:昔から、子供の頃から隅っこが好きでした。暗いとこが好きなんですよ(笑)。家の中も薄暗いし常に。朝まず起きて、カーテンを開けて締めますから。一応日の光を見て、締めて、また豆電球を付けます。昼間でも夜の状態を作るのが好きで。すごく贅沢な暮らしをしている(笑)。

Q:季節ではいつが好きですか?

A:なんだろう。秋冬の方が家にいるのが好きなんでしょうね、暖かいから。でも夏は夏でちゃんと外へ出たくなるし。結構アウトドアとかも好きです。バーベキューとか。

Q:常に暗いところで生活しているわけではない?

A:家は暗いですけど、外には毎日出ているし時々土手で日向ぼっこもしますよ。また帰れば暗いですけど。

Q:暗いところにはなにがあるのでしょうか?

A:存在。

Q 阿部薫には『北<NORD>』というアルバム(阿部薫/吉沢元治DUO)があるし、評論家の間章はことあるごとに極北を目指せと書いていたので、僕には即興演奏に限らず音楽表現は「北」じゃなきゃいけない、というイメージがあります。そういう気持ち、ことさら極北を目指すという意識はありますか?

A:ないですね。どこ向いても北ですから。

Q:確かにそうですね。それに「極北」を念頭に即興演奏すると、その段階で箍がはめられていますね。

A:そうですね。これが正しいというものはそもそもないですから。それ(極北)を目指した作品を作るというコンセプトなりがあるのであれば、それは良いかと思います。僕はやらないですけど。

 

●死との対峙

Q:日常生活では身寄りのないお年寄りを支援する仕事をされています。その仕事に就いたきっかけは?

A:ずっと飲食業だったのですが、店をやる気もなかったし、もっと社会問題になっているような現場に身を置いて、現実を見たいとずっと思っていたんです。そんな時、求人雑誌を見ていたら「NPOで身寄りのいない方の支援」とあって、はじめは興味本位でどんなところか知りたくて、面接を受けました。ヘルパーともケアマネージャーとも違う家族代わりになる仕事ということで、知識も資格も何もなかったですが、そのまま10年経っちゃいましたね。

Q:以前インタビューで「日常的な生活が、自分の感性に影響を及ぼし、音楽にも反映している」と語っていましたが、具体的な影響の例を教えてください。

A:具体的にはやはり「死」と接した時ですね。色々な形の死と触れますが、基本的に身寄りがいない方ですから、親族に連絡してもほとんどの場合、火葬場にも来ません。そういう時に自分一人でお見送りする事が多々あります。ご遺体と向かい合う時、人間は「一人」なんだ、といつも感じます。僕も「一人」であり、「一つ」であると思います。それは、演奏に全体的な意味で反映していると感じます。

Q:最近では?

A:生悦住さんが亡くなったときもそうだったのです。生悦住さんが亡くなる前日にレコーディングしたんです。まさか前日になるとは思いませんでしたが。それが『Tokyo Flashback』収録のトラックになりました。「窓からの輝き」というタイトルなのですが、亡くなる3日前にギタリストの近藤さんと一緒にお見舞いに行った時、生悦住さんのいた部屋の窓は凄く陽が当たっていて、芝が綺麗で暖かかった。それが自分の中に凄く残ったのですぐに生悦住さんに聴かせるために録音しました。

V.A.『Tokyo Flashback P.S.F. 〜Psychedelic Speed Freaks〜』

Q:お見舞いに行ったときの生悦住さんは?

A:意識はあったんですが、言葉がなかなか出てこなくて、なんか言いたかったのだろうけど、あまり聞き取れませんでした。

Q:そういう出来事や場所のことを思いながら演奏しているのですね?

A:自分の中でお祈りしているようなところはあるのかもしれませんね。

Q:お年寄りの仕事以外で、日常生活から大きな影響を受けることがあれば教えてください。

A:雨の日に、愛猫に癒されている時は最高に幸せを感じています。

 

●他者との対話

Q: 他のアーティストとの交流は?

A:そうですね、あまり頻繁には会わないですが、生悦住さんの追悼ライヴ(2017年6月25日(日)六本木SuperDeluxe『Tokyo Flashback P.S.F. 発売記念~Psychedelic Speed Freaks~生悦住英夫氏追悼ライブ』)の時にPSFに関わったみなさんには、馬頭將器さんをはじめ、本当にお世話になりました。橋本孝之さんや内田静男さん、アキ(à qui avec Gabriel)さんやヒグチケイコさん、あと今井和雄さんも、共演したりお世話になっていますし、近藤秀秋さんは兄貴みたいだし、西沢直人さんともレコーディングしたり飲んだりしています。最近では望月治孝さんと海外からレコードを出したり、齋藤徹さんと共演したりしました。あとは灰野(敬二)さんにも色々お世話になっています。

Q:先日「共演よりも一人でやりたい」と言っていましたがなぜでしょうか?共演CDは西沢直人さんとの『浜千鳥』だけですが、それ以外にもライヴで他の人と共演はしていますよね。

A:共演者とやるのも重要だと思うけど、ひとりでやって自分との対話というか、まだそれが自分には必要なんですよ。自分でもなぜかわからない。

Q:共演が嫌というわけではないのですね?

A:嫌な時もありますけどね。

Q:共演相手に求めるものは?

A:ひとりであってほしい

Q:「共演=対話」というイメージを持つ人も多いでしょう?

A:一人と一人でいられた方が良いと僕は思っていますが、合わせようとか、向かい合って二人でいいもの作ろう、みたいな、そういうのがなんか気持ち悪いと思ってしまいます。文字通りの対話ではなく、もっと魂と魂との対話が無ければダメだと思うんです。

Q:そういう意味では西沢さんは?

A:西沢さんは逆なんです。僕を研究して狙って音を出します。機械的でもあり、なんか面白い。自分にはできないし。でも最近は人っぽさを感じてきましたね。

Q:先日山猫軒でのデュオは個と個として演奏している印象がありましたが。

A:魂の対話はできていると思うので、個は見えると思いますよ。

Q:西沢さんには違った面白さを感じる?

A:そういう面白さを持っている人とはやりたいですね。『浜千鳥』は湖が見えていたから、鳥の足が水を蹴る音が、西沢さんの金物の音みたいで丁度いいかなと思って。

●演奏の先にあるもの

Q:現在制作しているCDはいろんな場所の演奏を繋いだものだと言っていましたね?

A:今までやって来てないことをやろうと思っているのです。僕はソロが結構多いので、いろんな人の、僕がいいなと思う部分を、僕がプロデュースして、短いテイクの短編集というか、いろんな人のいいなと思う部分を出せればな、と思っています。そういうのってあまりない気がして。20秒くらいのフレーズでもいいし、組み合わせというか、ひとつにできればいいなと。素材集みたいな

Q:プロデューサーかエディターとして?

A:どちらもですかね。自己プロデュースが多かったので。いいな、と思う人はたくさんいるけど、いいなと思う部分だけの作品は無かったので。ある意味人間ではなく音として素材を組み合わせて行ったときに、いろんな人だけど素材だけで聴くとまた違う繋がりが出来てきたりして面白いと思います。

Q:サックス・プレイヤー川島誠ではなく、Presented by川島誠みたいな?

A:そんな大げさなものではありませんが、主導していくことに意味はあります。

Q:ライヴの企画とかは?

A:ずっと地元で何かやりたいと思っていて、川越にレレレノレコードという面白いお店があって、そこで企画をする事になりました。川越には即興のLiveはやってるところがないので、地元で新しく何か発進していけたら良いなと考えています。第一弾はソロ&リフレクションという事で、僕と橋本孝之さん、山沢輝人さん、山㟁直人さんの4人でソロを中心にやります。いずれは地元で自分でなにか場所を作って、やりたいですね。

Q:近いところではそういうこともやって行きたいと。演奏者だけじゃない部分、企画者とかプロデューサーといった才能を伸ばすのは面白いと思いますよ。

A:オーガナイザー的な役目は実は嫌いではなくて、昔かそういうのをやることも多かったんです。ファッション・ショーとか、障害者に向けた劇とか音楽イベントとかやっていましたから。

Q:一匹狼というイメージがあるけど、そうじゃない部分をぜひ見せてほしいと思います。

A:全く違う面もあるので。けっこうアクティヴなんですよ。

Q:最後に答が無い質問だと思いますが、川島さんが演奏を続けていくその先にあるものは何でしょうか?

A:正直何もわからないですね、今は。予感というか、人間はいつか死んでいくのでずっとこのままではいられないということは判っているので、なんか、考えたくないのかな。音が聴こえない世界も来るかも。

Q:自分の中から音が無くなる?それとも世界全体から音が無くなるのですか?

A:音を自分の中で、意識する必要がなくなるかもしれないと言う事です。

 

剛田武

剛田 武 Takeshi Goda 1962年千葉県船橋市生まれ。東京大学文学部卒。サラリーマンの傍ら「地下ブロガー」として活動する。著書『地下音楽への招待』(ロフトブックス)。ブログ「A Challenge To Fate」、DJイベント「盤魔殿」主宰、即興アンビエントユニット「MOGRE MOGRU」&フリージャズバンド「Cannonball Explosion Ensemble」メンバー。

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