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InterviewsNo. 241R.I.P. セシル・テイラー

#170 能楽一噌流笛方15代目 一噌幸弘

一噌幸弘(いっそう・ゆきひろ)

安土桃山時代より続く能楽一噌流笛方15代目、能楽古典の演奏の他に、篠笛や田楽笛、リコーダー、角笛などを演奏、能楽の音楽をベースとした世界に類を見ない作曲、演奏活動を行っている。共演者は、東京フィルハーモニー交響楽団、金聖響、佐渡裕、石川さゆり、デーモン閣下、村治佳織、山下洋輔、セシル・テイラー、エヴァン・パーカー、ペーター・ブロッツマン、デレク・ベイリー等ジャンルを問わず、俳優、舞踊家等、各界アーティストとの共演、自作曲の提供、楽曲アレンジも多数。テレビ朝日「題名のない音楽会」、NHKラジオ深夜便「にっぽんの音」等メディア出演。2011年第24回音楽賞クラシック部門コンサート・パフォーマンス受賞。日本文化藝術財団第二回「創造する伝統賞」受賞。重要無形文化財総合指定保持者
公式サイト http://issoyukihiro.com/

Interviewed by Kenny Inaoka 稲岡邦彌 @大泉学園、2018年4月25日

 

♪ 白州での演奏にはコール・アンド・レスポンスがあった

JazzTokyo:一噌さんがセシル・テイラー、富樫雅彦さんの3人で録音したテープを聴いたことがあるのですが。どういう経緯(いきさつ)だったのですか? たしか東京FMのスタジオで録音されたということでしたが。
一噌:あれは、1992年でしたね。その前に同じトリオで山梨県の白州でライヴがあったのです。
(注:1992年8月1日 白州・夏・フェスティバル ‘92)

JT:舞踏家の田中泯さんを中心に行われている音楽祭ですね。僕は出かけたことはないのですがいろいろ情報は得ています。特に、デレク・ベイリーのインタヴューを面白く読んだ記憶があります。。
一噌:トリオを組ませたのは田村さんという方だったと思います。

JT:同じ頃に、WOMADを日本に持ってきたステーションの田村光男さんでしょうね。3人で演奏するのはもちろん初めてですよね。リハはあったのですか?
(注:WOMAD=World of Music, Arts and Dance、ウォーマッド。1982年イギリスのミュージシャン、ピーター・ゲイブリエルが第1回開催、日本では1991年の横浜みなとみらいでの開催が初回)
一噌:セシルが能管は聴いたことがないというので、パーティで能楽の神楽を披露したら、感心しながらもずっと考え込んでいましたね。そして、コンサートの当日に、セシルから細かい指示があり、メモしたのですが、例えば、6回上行フレーズを吹いてくださいとか、12回下行フレーズを吹いてくださいとか、短いフレーズを6回、トリルを24回吹いてくださいと言われました。富樫さんには、ドラムのロールを36回、ハイハットを12回、マレットでタムを24回打ってくださいなどです。これは全部6の倍数だと気付き、とても興味深かったです。それを僕と富樫さんがソロでやったり、二人でやったり、とかも指示がありました。

JT:富樫さんの反応はどうでしたか?
一噌:何なんだ、これは、あいつ訳わかんないこというなって...。半分、腹を立てていたような...。

JT:ユダヤやキリスト教なら6、や12が基本になっているのは理解できるのですが。ダヴィデの星、12部族、12使徒...。
一噌:セシルは我々に指示した6回や12回などの6の倍数のフレーズに合わせて袖から出て、踊りながらだんだんピアノの椅子に近付いていく。つまり、6の倍数のフレーズに合わせて踊りの型が全部決まっていたのです。そして、自分がピアノの椅子に座ったらあなたたちは退場してくださいと言われました。私の感覚では30分くらいあったのではと思うほど長い登場曲でした。それからようやくピアノのソロが始まる。ベーゼンドルファーを用意させていましたし、このソロはさすがに素晴らしかったですね。そして、2部は三人で即興演奏でした。

JT:僕が、セシル・テイラー・ユニットの演奏をライヴ録音したのは1973年でしたが(注:『アキサキラ〜ライヴ・イン・ジャパン』)、2部は似たような感じでした。詩の朗読を伴っていましたがセシルのダンスが中心でした。「オバタラ、オバタラ...」と呪文のように繰り返していたのがいまだに耳にこびりついています。

一噌:『アキサキラ〜ライヴ・イン・ジャパン』のセシル、サックスのジミー・ライオンズ、ドラムスのアンドリュー・シリルの3人のフリー・インプロは素晴らしい演奏だったと思います。例えば、お互いが繰り出すフレーズに、三者が互いにまったく反応しないで、我が道を行く演奏が斬新で面白いと思いました。終わり方も全員で終わるのが普通の演奏ですが、ジミー・ライオンズが抜けてから、セシルとアンドリュー・シリルのデュオが続き、突然カットアウトするようにセシルがピアノを終えました。それでセシルが急に終わったものだから、アンドリュー・シリルがドコドコドコドコっと少しこぼれるようにしてエンディングを迎えました。これは斬新で感動的な終わり方でした。
なので、白州の2部のフリー・インプロでも3人でこのような展開になるかと思いましたが、それが違ったんです。いわゆるジャズでいうコール・アンド・レスポンスがあったのです。例えば、僕が笛である高速フレーズを吹くと、すかさずセシルがピアノで同じ音型のフレーズを弾き返してくるのです。そういうことが何度かありました。『アキサキラ〜ライヴ・イン・ジャパン』の演奏は、トリオが3人で最初から最後までそれぞれがそれぞれの演奏をやりながら走り抜けましたが、白州では、それとは違う感動的な展開になりました。

JT:たしかに『アキサキラ〜ライヴ・イン・ジャパン』では、3者が並走するという感じでしたね。
一噌:それでいてユニットとしてグルーヴ感は出ているという、素晴らしい演奏でしたが。白州ではコール・アンド・レスポンスがあったのです。もちろん、僕もセシルのピアノに応えましたが。とにかく僕のフレーズに反応してくれたことが嬉しくて、感動的でした。それまで聴いたCDでは相手の演奏にもろに反応するというような素振りはあまりなかったですからね。

JT:富樫さんはどうでしたか?
一噌:富樫さんは最初からあまり機嫌が良くなかったですね。セシルは急に予定変更になるので、セシルの事を「自分勝手な奴だなあ」って感じで。でもさすがに演奏は素晴らしかったですよ。

JT:几帳面な人だし、プロとしての矜持がありますからね。ブラシは使わなかったのでしょうか。富樫さんのブラシの切れ味とスピード感は素晴らしいものがありますからね。
一噌:はい、大変芸術性の高い方です。

 

 

 

♪ スタジオ録音はCD化されなかった...

JT:白州のあとに僕がテープを聴いたスタジオ録音があったのですね。
一噌:そうです。東京FMのスタジオでした。

JT:白州で成功したあとですから期待も大きかったでしょうね。リハや打ち合わせはあったのですか?
一噌:僕がピアノのそばに呼ばれて、指慣らしのような演奏に1時間半ほど付き合わされたんですね。ミラー奏法というのですか、鍵盤の真ん中あたりから右手と左手を左右対称に高速で運指していく奏法。これを延々と続けるのですね。ミラーフレーズの音は少しずつ変えていたようですが。僕もそれに合わせて吹きまくりましたが。セシルがもって来たピアノの上の紙にはG#、D、F、C、A♭など音名が書かれてありました。コード進行ですかと尋ねると、そうではないという。実際に音を出してみるとその周囲の音を出しているようでした。

JT:富樫さんはどうしたんですか?
一噌:富樫さんはずっと待ちぼうけですね。

JT:富樫さんがいちばん嫌がるパターンですね。菊地雅章とゲイリー・ピーコックとのトリオ録音の時にも、菊地さんとゲイリーが二人だけで英語で打ち合わせをする。それがなんども続くうちに富樫さんがキレて職場放棄した。そのCDでは1曲、富樫さん抜きの演奏が収録されていますよ。
一噌:だから、富樫さんの好きな蝶々や昆虫の話を持ちかけて。そっちで盛り上がりましたね。指慣らしが終わると3人でスティックを鳴らされたり、とにかくあっちへ行ったり、こっちへ行ったり散漫でね。そんなリハでした。コール・アンド・レスポンスどころの話ではない。「それでは本番いきます」の声がかかると、スタジオを暗転させて、お香を焚く...。

JT:富樫さんはふてくされているし...。
一噌:一応、いろいろ指定もあったのですが、セシル本人が本番になると決めたことと違うことをやりだすし...。セシルはまだやりたい事がまとまっていないようでしたね。

JT:それで終わってしまった。
一噌:そんな感じですね。指図する人もいないし。その後、そのテープがどうなったかも分かりません。

Photos: 河村写真事務所

♪ 70年代のセシルの音楽には都節音階という日本の音階がふんだんに出てくる

JT:一噌さんとは渋谷の「メアリー・ジェーン」で何度かお会いしていますからフリージャズがお好きなことは知っているのですが、能楽師の一噌さんがそもそもセシル・テイラーを好きになったきっかけは?
一噌:楽器のスタートはもちろん能管ですが、小学校で習った音程のある楽器リコーダーに魅了されてバロック音楽を知り、中学校でマクラフリンにはまりました。マハヴィシュヌ・オーケストラやシャクティー、パコ・デ・ルシアとアル・ディメオラのスーパーギタートリオをよく聴きました。高校でエレクトリック・マイルスからシュリッペンバッハ、ブロッツマン、エヴァン・パーカーなどヨーロッパのフリー・ジャズの洗礼を受け、そして、セシル・テイラーという感じですね。音楽ってこんなに自由にやっていいんだと一気に解放されました。

JT:セシルはアルバムでいうと。
一噌:最初に聴いたのが『Dark to Themselves』で、素晴らしく感銘を受けました。デイヴィッド S.ウエア、ジミー・ライオンズ、ラフェ・マリクの3管編成でドラムスがマーク・エドワーズのライヴですね。
70年代のセシルの音楽には、都節(みやこぶし)音階という日本の音階がでてきます。都節音階とは、江戸期にでてきた音階で、歌舞伎の音楽のひとつである長唄などでつかわれます。ラ・シ・レ・ミ・ファ・ラや、ラ・シ・ド・ミ・ファ・ラですが、この頃のセシルの音楽にはソロでも記譜されたものでも都節音階がふんだんに出てきます。『Dark to Themselves』の中にも都節が出てくるんですね。ラシドラシラファミとか。都節のフレーズが何度も登場します。3管の指定された演奏の中にも、セシルのクラスターのソロの間にも、シ・ラ・ファ・ミ〜が出てきます。そして、終わり方が能楽でいう「音取り」(ねとり)なんですね。
あれだけ強烈に自在に弾き倒しておいて、最後が能楽の「音取り」のようになって終わる。おおっ!と思いましたね。どこかのインタヴューでも歌舞伎に興味がある、と発言していました。舞いから入ったのかもしれませんが。都節で言えば、『ジャズ・コンポーザーズ・オーケストラ』のセシルのソロの中や『エア・アバーヴ・マウンテンズ』にも登場します。

注)
『Dark to Themselves』(Enja) 1976
『Jazz Composer’s Orchestra』(JCOA) 1968
『Air Above Mountains』(Enja)1976

JT:歌舞伎や能楽に通じていないと都節や音取りには気が付きませんね。セシルとダンスの結びつきはよく知られているところですが、歌舞伎との結びつきについては一時セシルのマネジャーを務めていたNYのヴェリバー・ペデヴスキがJazzTokyoへの投稿の中でも触れています。CDでは他に?
一噌:めぼしいものはだいたい持っていると思います。FMPから限定版で出たCD11枚組のボックス・セット『In Berlin ‘88』とか、これも限定版ですが、CD 10枚組の『cecil taylor feel trio』(Codanza)とかも。他、いろいろ多数です。

注:
『Cecil Taylor in Berlin ’88』(FMP)1989
『Cecil Taylor Feel Trio/2 Ts for A LOvely T』(Codanza)2002

JT:ライヴの方はどうですか?

一噌:90年から91年にかけての頃だったと思いますが、目黒のブルース・アレイ・ジャパンでセシルのカルテット1日2回ステージを一週間くらい聴き続けたことがあります。
ウィリアム・パーカー(b)とトニー・オックスレー(ds)のトリオに、もう一人若手のドラマーが加わったカルテットでした。最初の晩に出かけたら、巨匠セシル・テイラーが来ていて、こんな素晴らしい演奏なのに、客が4、5人しかいない。びっくりして私が宣伝しまくりました。それで、知り合いのミュージシャンや友達に電話をかけ続け、山下洋輔さん、渡辺香津美さん、坂田明さんにも声をかけました。だんだん客が増えていって、結局、お客さんは私の友達だらけでした。最後の晩は店がお礼だと言ってタダで聴かせてくれました。私は、セシルの演奏に本当に感動して、曲が終わった後、我を忘れステージに上がり、セシルの手を握りました。セシルは、ビクッとして驚いていた様子でしたが。

JT:僕はその頃、音楽業界から離れていてまったく知りませんでした。ブルース・アレイが90年に開店祝いにマイルスのバンドを呼んだことは伝え聞いていましたが。
それから、92年の白州、東京FMのレコーディングにつながるわけですね。

*ほぼ15年ぶりにセシルと再開した一噌幸弘@東京オペラシティコンサートホール

 

 

♪ オーネット、セシル亡きあと残るは一 噌幸弘の田楽散楽だけが...

JT:最近、“室町以前の音楽の再現と創造”というテーマで「田楽散楽/節会」という公演を持たれましたが(4月10日@新宿ピットイン)、田楽と散楽を含めてその意図を説明していただけますか?

一噌:田楽散楽というのは、室町時代以前の芸能なのですが、超絶技巧の名人芸を披露するとてもアクロバティックな芸能だったんです。当時のままの形では現存していないんですね。ところが、能楽の中にそれが残っているんです。
私は、それを取り出して、復活させること、それからその要素で新しい音楽を創ろうということですね。能管と私が想像力を働かせて考案した田楽笛、笙、尺八、尺八にも田楽用の田楽尺八というのがあったようですが、それにドラムという編成です。ドラムはチャッパ、ササラ、胴鼓、鼓とか幾つか入っていた打楽器を一人で全部の役を果たしてもらっています。3回目のコンサートのリハの時にセシルが亡くなったという知らせが入ったので、追悼曲として、能楽の要素でつくった拍子合わず、アシライから即興になり音取りで終わるという曲をやりました。

JT:今のオーディエンスにアピールしたいところはどこですか。
一噌:田楽散楽/節会からくる日本の音楽は、世界唯一無二の音楽だということと、日本人というのは今から1500年ぐらい前にコンテンポラリー音楽やヨーロッパのフリージャズが行き着いたような音楽をすでにやっていたということですね。1500年ぐらい前にプログレのような音楽が日本にあったんです。

JT:1500年前ですか...。
一噌:1500年前に唐から唐楽が伝わり、次いで高麗から高麗楽が伝わって、それに影響を受けて日本で田楽や散楽ができた。それの大イベントが節会(せちえ)ですね。

JT:この公演はシリーズでやって行く予定ですか。
一噌:そうです。もう3回やりました。能楽は出どころはすべてここですのでシリーズでやっていきます。オーネット・コールマンのプライム・タイムやセシルが『Dark to themselves』でやっている音楽は、この頃の音楽とすごく似たものを感じるんです。

JT:オーネットとセシルが亡くなった今、世界で残っているのは一噌さんの田楽散楽だけということになりますね。
一噌:しかし、日本で先鋭的な音楽をリスナーにアピールして行くというのは本当に難しいですね。つくづくそう感じます。

JT:JazzTokyoを設立した目的の一つはそういう活動をサポートすることにあるんですよ。
津軽三味線、和太鼓とトリオを組んだ「替えのしらせ」は何を狙っていますか?
一噌:これは日本の伝統楽器を中心に編成されるのですが、超絶技巧を繰り出して極めるという企画ですね。これは受けますよ。先ほどの田楽散楽にもそういう部分はあります。もともと田楽というのは名人芸をみせるものですから。それに、田楽散楽を元にしている猿楽の能には、超絶技巧という秘術を尽くすという部分があります。さらには、猿楽の能を元にしている現在の能楽には、各お役の流儀に秘術が残っています。例えば、笛方でしたら、私の流儀一噌流だけに残る特別な譜があります。超絶技巧や秘術というものは、いつの時代も人々を熱狂させますね。

JT:最近、一噌さんがフラメンコギターと組んだ『わらぶき』というCDを聴く機会がありました。<天城越え>や<こきりこ節><ふるさと>など、演歌から民謡、唱歌までいわゆる日本人の琴線に触れるレパートリーが並んでいました。笛も能管から田楽笛、リコーダー、角笛まで一噌さんの唖然とするほどの傑出した技量を堪能させていただきましたが...。
一噌:皆が知っている日本の曲が入っているCDを作ってほしいという声が多かったので、最初は冗談のつもりで作っていました。ですが、自分でいうの気が引けますがすごくいいCDができあがってしまいました。アレンジにとにかく凝ったのですが、「天城越え」の間奏部分と「竹田の子守唄」のフラメンコギターがブレリアになっているところはぜひ聴いてもらいたいですね。他の曲もいい仕上がりです。

JT:今年も新作CDを予定されているのですか?
一噌:ピアノの原田依幸さん、笙の石川高さん、鼓の望月太喜之丞さんとやったライヴ録音の完全即興です。それと、同じくピアノの原田依幸さんとドラムスの吉田達也さんとやった、これも完全インプロヴィゼーションで、2枚組です。この二つは、セシルの追悼アルバムとして出そうと思っています。

♪ 能楽師として100年後の伝統を今、創造している...

JT:能楽師としての公演活動はいかがですか?
一噌:能楽は基本的に年間を通じて土日に公演が多いのですが、とくに春と秋が公演数が多いですね。夏は野外の薪能があります。

JT:能楽にはいろいろ流派がありますが、流派を超えて演奏をするのですか。
一噌:はい、そうです。いわゆる「シテ方」には五流派あります。観世流、宝生流、金春流、金剛流、喜多流の五流派です。笛、小鼓、大鼓、太鼓の囃子方にもいろいろな流派があります。同じ演目でもシテ方の流派により音楽が異なるのが多いですし、また、囃子方もお相手する囃子方の流派によって音楽が変わってきます。

JT:順列組み合わせのようですね。一噌さんは、「重要無形文化財総合指定保持者」となっていますが、これはいわゆる「人間国宝」に当たりますか? 僕は「人間国宝」の山本邦山先生とは何度か仕事をさせていただいたことがあるのですが、邦山先生もジャズなどいろいろジャンルを超えて活動されていましたね。
一噌:人間国宝というのは、「重要無形文化財個人指定保持者」です。総合か個人かの違いです。能楽では、各流派に基本的に一人の人間国宝がいます。

JT:能楽師としての後継者の方は如何ですか?
一噌:私は、伝統を受け継ぐことはもちろん、100年後の伝統を今、創造することをしています。新しい能楽の曲を作っているんです。また、特別な譜は上演の機会が少ないのですが、昔行われていたけれども現在は風化されてしまった特別な笛の譜を復活させて吹いたりしています。循環呼吸奏法などの現代奏法も古典にも取り入れて吹いています。

JT:最後に一噌さんの夢を語っていただけますか?

一噌:たくさんありすぎて語りつくせないのですが、まずは、田楽散楽の再現・再構築、その要素で作曲と演奏をやっていくことです。それから、能楽の新作を作り続けること。能楽は戯曲の新作は多数あるのですが、音楽の新作は明治ころからほとんど作られていないんです。また、能管、田楽笛、篠笛など、日本の笛の可能性を拡大させていくこと。もちろん、私は西洋の音楽も大好きですし、バッハやヴィヴァルディなどのバロック音楽をリコーダーや日本の笛でも演奏しますが、日本では欧米の音楽が主流で、日本人は日本の音楽をほとんど知りません。なので、日本の音楽の魅力をまず日本の人々に知ってもらいたいし、世界中の人にも知ってもらいたいです。能楽の「猩々乱」「翁 三番叟」を知っていますか。「猩々乱」というのは、妖精が酒を飲んで祝う曲ですが、年末に上演される曲です。第九やクリスマスソングもよいですが、私は毎年これが出てくると今年も終わるのかと思います。「翁 三番叟」は、年の始めに必ず上演されますが、天下泰平・五穀豊穣を願う大変おめでたい演目です。これを見なきゃお正月がやってこない。そんな感じになるといいなと思います。

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稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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