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InterviewsNo. 244

INTERVIEW #175「望月由美」

望月由美 Yumi Mochizuki
東京生まれ。
FM番組の企画・構成・DJと並行し、1988年までスイングジャーナル誌、ジャズ・ワールド誌などにレギュラー執筆。 フォトグラファー、音楽プロデューサー。自己のレーベル「Yumi’s Alley」主宰。『渋谷毅/エッセンシャル・エリントン』でSJ誌のジャズ・ディスク大賞<日本ジャズ賞>受賞。現在、JazzTokyoにフォト・エッセイ「音の見える風景」を連載中。

Interviewed by Kenny Inaoka 稲岡邦彌  2018年7月
写真提供:望月由美


♪ 8月、キングレコードから「Yumi’s Alley Masterpiece Collection」リリース

Jazz Tokyo:望月さんの自主レーベル Yumi’s Alleyの7タイトルが今月キングレコードから「Yumi’s Alley Masterpiece Collection」としてまとめてリリースされますね。

望月由美:CDのリリースがとても厳しくなるなか、まとめて7タイトルをリリースしていただけるのは大変嬉しく思います。キングさんが注力しておられるハイレゾの配信も実現できるようでとても楽しみにしております。

JT:この7タイトルは今まで別々の会社からリリースされていましたね。

望月:そうです。個人でこつこつ制作していましたから原盤が上がるたびに発売元を探していました。そして2004年、ビデオアーツさんでYumi’s Alley を立ち上げそれまでの全タイトルをまとめて発表して頂きました。

JT:リスナーのなかにはこの7タイトルがすべて望月さんの手で制作されたことを知らなかったケースも考えられますね。

望月:そうかも知れません。Yumi’s Alleyの名の下にアーティストと私が丹精を込めて制作したものですので、この機会に改めてその存在を認識していただけたらとても嬉しく思います。若いリスナーにはジャズの新しい世界を発見していただけたらと思います。

JT:制作にあたってのいちばんのポイントは?

望月:まずは、美しい自分の音を持っているアーティストであることが大前提でした。

JT:そのアーティストの美しい音を美しく録音することにも細心の注意を払われたようですね。

望月:エンジニアは本誌でもおなじみの及川公生さんを筆頭に、鈴木“Cちゃん”浩二さん、篠笥 孝さんにお願いしました。“名エンジニア”といわれる彼らがナマ以上の音でリスナーの目の前に浮かぶような音で録ってくださいました。この美しい音をPAなしでアコースティックに聴ける機会なんてめったにありません。いつ聴いても新鮮に聴けますので、ぜひ自分の部屋で渋谷さん、峰さん、林さん、松風さんを独り占めにして下さい。

JT:そもそもご自分のレーベルを始めようとしたのはいつ頃、どのようなきっかけでしょうか?

望月:1970 ~80年代の日本のジャズ・シーンが活性化していたころ、輝く才能を持っていながら脚光を浴びることなく、「新宿ピットイン」や「アケタの店」「タロー」などで黙々と自己の音楽を探求しているミュージシャン達をスイングジャーナル誌のコラムに紹介したり、大手のレコード会社に企画を持ち込みアルバムのプロデュースをすることに喜びを感じていました。ところが、時とともにレコード会社が倒産したり、ジャズ・レーベルがなくなったりした結果、自分が制作したアルバムが再発されることなくマーケットから消えてしまうのがとても寂しく、自身で原盤制作をする決心をしたのです。

JT:当時、他社のために関わったアーティストにはどのような方々がいましたか?

望月:生活向上委員会大管弦楽団、梅津和時(reeds)、原田依幸(p)、森山威男(ds)、橋本一子(p)、松風紘一(sax)、大徳俊幸(p)、高橋知巳(sax)などのアルバムです。

♪ 1作目のジョセフ・ジャーマンは単身招聘から始める

JT:自主制作の最初のアルバムは何でしたか?

望月:1990年録音のジョセフ・ジャーマンの『ポエム・ソング』です。

JT:大変な人を選びましたね。またどうしてジョセフを?

望月:1980年代の後半に、ジョセフとAACMのダグラス・ユワート(reeds)、“Sabu” 豊住芳三郎(ds)のライヴを聴いてジョセフのアルト・フルート、バス・フルートに感銘したのです。また、音楽のみならず、宗教(真宗大谷派に帰依)、合気道など日本の文化、伝統に深い興味を抱く姿勢を見て従来のAACMのジョセフとは違った一面が引き出せるのではないかと直感したのです。

JT:ご苦労だったでしょう。

望月:日本にジョセフを単身招聘し、日本全国をライヴ・ツアーしながらメンバーとのコミュニケーションをとりました。

JT:箏とベースがふたりずつの異色の編成ですね。

望月:当時、AEC以外の活動ではよく在米のお箏の奏者の方と共演していたジョセフに、それなら本物のお箏の美しさを感じてもらおうとお箏に沢井流家元の沢井一惠さん、そして彼女のお弟子さんの栗林秀明さんを起用し、フォー・ビートからフリーまで何にでも対応できる吉野弘志さんとフリーが得意な斎藤徹さんの2ベースを加え、弦楽カルテットとしました。

JT:1曲だけトロンボーンの故・板谷博が参加していますね。

望月:板谷さんには、成田空港へのジョセフの送迎などドライバー役をお願いしていたのですが、レコーディングを見学しているうちにどうしてもという希望が出て参加してもらうことになりました。

JT:渋谷毅さんは4タイトルありますが、渋谷さんの魅力のポイントはどこにあるとお考えですか?

望月:音楽も人柄も野暮ったさがまったくなく、洗練されてセンスの良いところですね。

JT:なかでも『エッセンシャル・エリントン』は、当時のジャズ・ディスク大賞「日本ジャズ賞」を受けるなど、渋谷さんの代表作であるとともに望月さんの代表作とも思われます。これも、ピアノと3管という変わったカルテットですね。

望月:この企画を始めた1999年はデューク・エリントンの生誕100年にあたり、エリントンをリスペクトする渋谷さんの賛同を得られました。はじめ、渋谷さんはピアノとベースのデュオをやってみたいとおっしゃっていたのですが、私の希望で2管(峰厚介と松風鉱一)が入り、最後は渋谷さんの提案でチューバ(関島岳郎)が加わったのです。渋谷さんはこのカルテットがすっかり気に入り、すでに19年続くパーマネント・グループになっています。

JT:アルトの林栄一さんはトリオで『モンクス・ムード』を録音していますが、林さんの魅力は?

望月:音です。とにかく一音で部屋の空気を換えてしまうほどの強い音。加えて、流麗なフレーズ。また、ノン・ブレス奏法も完璧にマスターし、楽器を鳴らし切った林さんならではの世界を持っています。

 

JT:林さんのサーキュラー・ブリージング(循環呼吸)では、シュリッペンバッハと高瀬アキさんの「ベルリン・コンテンポラリー・ジャズ・オーケストラでのエヴァン・パーカーとの壮絶なバトルが強烈な印象として残っています。フィジカルではそのハンデが誰の目にも明らかなのに、小柄な林さんが巨躯のエヴァンに一歩も引けを取らなかった。エヴァンが本気になって襲いかかっていましたが..。

『峰厚介ミーツ渋谷毅&林栄一/ランデブー』は、Yumi’s Alleyレーベルのオールスターという感じですね。望月さんお気に入りの三者が勢ぞろいして。峰さんの魅力をひと言で表すと..。

望月:確かな技術に裏打ちされた美しいサウンドと繊細でユーモアのある温かい人ということです。

JT:Yumi’s Alleyは結果としてどのようなレーベルになったとお考えですか?

望月:ジャズは鮮度が一番です。ジャズの伝統を尊びながらいつ、何回聴いてもあきることなく、古さを感じさせないアルバムを揃えることができたと思っています。

 

♪ 高校時代、銀巴里のステージに立ったことも...

JT:音楽の好きなご家庭の生まれですか?

望月:はい、母が音楽が大好きでした。

JT:お母様はどんな音楽を聞いてらしたのですか?

望月:3歳か4歳のころの記憶ですが、父がおもちゃ代わりにハーモニカや木琴を買ってきてくれると母はハーモニカは上手に吹くし、木琴も4本のマレットですごく上手に弾いてくれる母を強烈に覚えています。
私が音楽に関わることもいつも理解してくれました。

JT:いつ頃、どのようなきっかけでジャズに興味を持ち始めましたのでしょう?

望月:まだ高校時代、銀巴里の昼の部で唄っていたころのことです。当時、なかにし礼さんが銀巴里を事務所代わりに使っていて毎日いらっしゃっていてよく顔を合わせていたのですが、ある日なかにしさんに呼ばれたのです。<まだ学生さんでしょ、こんなところで唄っていたら垢がついちゃうだけだからジャズ・ピアニストにでもついてジャズを勉強しなさい><ベコーもブレルもみんなジャズを勉強したんだから>と云われまして、その時生まれて初めてジャズを意識しました。

JT:高校生の頃、シャンソン歌手を目指してらしたのですか?きっかけは?

望月:シャンソン歌手になりたかったのではありません。
中学時代、いわゆる変声期の頃は発声の基礎とピアノを少しと日本の歌曲やドイツ・リートも習っていましたがクラシックに進む気はなかったみたいです。
ある日、ラジオでピアフの愛の賛歌を聴いて涙ぐんだのです。それで訪ねたのが銀巴里でした。その日のステージは現在の美輪明宏、当時は丸山明宏と云っていましたが、この世の人とは思えない美青年で大ファンになりました。銀巴里通いが始まったのです。
ある日、マネージャーさんから私に昼の部で唄ってみたらと云われて<パリ・カナイユ>などレパートリーは数曲しかないのに銀巴里のステージに立ったのでした。

JT:初めて日本のジャズを生で聴いたのはいつ、とこでですか?

望月:銀巴里時代、金曜日になると楽器を持ち寄って音を出す人たちがいて聴くともなく聴いていました。今思うと高柳昌行さん達の新世紀音楽研究所の人たちの音楽だったのです。
それから、1966年の7月、コルトレーン来日時に新宿歌舞伎町でコルトレーン一行と出会い、コルトレーンと握手、記念撮影をしてもらったあと、ラシード・アリ(ds)をピットインに案内し日本のミュージシャンとジャムをして頂いたときラシードの隣で聴いた音はいまだに耳に残っています。因みにその時の司会は相倉さんでした。
以来、ピットイン通いが始まり、日本人のジャズをはっきり意識したのは渡辺香津美や土岐英史、古沢良次郎、大徳俊之など当時の若手の俊英が集まって出来たSMCオーケストラでした。

JT:初めて来日ジャズ・バンドを聴いたのはいつですか?

望月:1963年の2月、サンケイホールでヘレン・メリルを聴きました。

JT:写真取材を始めたのはいつ、どのようなきっかけですか? 対象は?

望月:当時は取材という感覚はありませんでした。雑誌等でみるミュージシャンの顔ではなく、まさにそのミュージシャンが音を出す瞬間を切り取る喜びがありました。
はじめはご多聞にもれず来日ミュージシャンのステージ写真、そのあと日本のミュージシャンとは実際に接してフレンドリーな感覚で撮らせていただきました。

JT:FMとの関わりはいつどのようなきっかですか?

望月:DJ喫茶ブームだったころ、新宿にラジオ関東のサテライト・スタジオがあり、DJをやっていたのですがそこにコロムビアの今尾さん、キングの岡山さん、ビクターの下田さん、フォノグラムの伊藤八十八さんなどレコード会社の方が新譜をもって音源提供していただきレコード会社の方々とのお付き合いが始まりました。
毎晩、7時から8時までレコード会社の方と私とのダブル・ジョッキーで、私がゲストのレコード会社の方にインタヴューするという内容の番組でした。
そんな時、数人の方から放送局、特にこれからはFM局がいいですよ、とすすめられ、実際に紹介してくださる方もいまして当時のFM東京、現在のTFMの契約社員となり、「サントリー・ミュージック・スコープ」、「時にひとりで」、「マクセル・ページ・ワン」、特番でドキュメンタリー「ジャズにかける/高橋知巳」等の企画構成をしました。

JT:雑誌取材はいつどのようなきっかけで始めましたか?

望月:1969年にAM放送のTBSで放送していた児山紀芳さんのジャズ番組のブラインド・ホールド・テストで優勝し児山さんと知り合い、その数年後児山さんから「何でもいいから書いてよ」、とのご依頼があり、好きなことを書いていいのならと思いお受けし、スイング・ジャーナル誌のコラム「SJ CIA」で日本のジャズ・シーンを、「フォーカス」、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」そしてミュージシャンとのインタヴュー等々を書きました。

JT:ブラインドフォールド・テストで優勝された時のことをもう少し詳しく教えて下さい。

望月:TBSの番組で月一回のブラインドフォールド・テストを勝ち抜き、最後は北大の学生さんと決戦までいったのですが、すごく若い頃のアニタ・オ・デイを当てて私が残りました。当時、人の声には強かったみたいです。

JT:賞品は何が出ましたか?

望月:賞状と楯と賞金3万円、それにお好きなレコード10枚買えるチケットでした。

JT:当時としては、それはビッグ・プレゼントでしたね。
お話を伺っていますと、望月さんは今でいうキャリアウーマンのはしりとも思えるのですが、他にどのような仕事をされていたのですか?

望月:NHKの国際部学校放送の英会話番組の選曲とか、ラジ関(ラジオ関東。現「RFラジオ日本)で東宝レコード提供の番組でDJもやってました。他に、「ジャズワールド」という新聞形式のジャズ専門誌ではフォトエッセイも書いていました。当時は、徹夜もしょっちゅうでしたね。

JT:ところで、いちばん印象に残っている日本のライヴは何でしょう?

望月:山下トリオに同行して札幌ジャズ祭に行ったとき坂田さんが初めて<ゴースト>で赤とんぼを飛ばした時です。聴衆の男の人が涙をぬぐいながら号泣しているのです。
坂田さんの一心不乱の音に感動していた私もその光景をみてもらい泣きをしてしまいました。

JT:いちばん印象に残っている来日ジャズ・バンドは?

望月:ありきたりですが、やはりコルトレーンです。

JT:印象に残る特ダネを教えてください。

望月:先ほど申し上げたコルトレーン一行と歌舞伎町で出会ったことです。コルトレーンの優しいまなざしと温かい握手です。

ジョン&アリス・コルトレーン

JT:失敗談がありましたら.

望月:1974年、深夜の3:00~4:00という時間帯に放送する「J&Gミッドナイト・ジャズ」という番組で阿部克冶さんとのダブル・ジョッキーだったのですが、当時はフリー一辺倒だった私とメイン・ストリーム派の阿部さんと全くかみ合わなかったことは今思うと恥ずかしい限りです。

JT:インタヴューで心がけていることは?

望月:事前にインタヴューする人のパーソナリティーを勉強することと自分があまり喋りすぎないことを心がけています。

 

♪ ご自慢のアルバムは渋谷毅の『エッセンシャル・エリントン』

JT:レコードはいつ頃からコレクション始めましたか?

望月:DJを始めたころ、トニー・ベネットやサミー・デイヴィスJr、マヘリア・ジャクソン などヴォーカルから入りました。

JT:どのような傾向のコレクションですか?

望月:特に傾向はなくどちらかというと無節操、メイン・ストリームからフリーまで。心に共鳴したものを聴いています。

JT:よろしかったら再生システムを。

望月:JBLのユニットをベースに作ったカスタムのシステムで聴いています。

JT:お気に入りのアルバムは?

望月:MJQの『No Sun In Venice』は毎年お正月の元旦に聴いています。

JT:自慢のアルバムは?

望月:やはり、手前みそになりますが渋谷毅の『エッセンシャル・エリントン』です。

JT:ミュージシャンからサインをもらったりしますか?

望月:FM時代には生放送が多く、スタジオにやってくるミュージシャンに収録後モニター・ルームでコミュニケーションをとりサインも頂いております。
セシル・テイラーには『セシル・テイラー・ソロ』にお名前のほかに絵も描いていただきました。
ソニー・ロリンズは『A Night at  Village  Vanguard』に。ロリンズは几帳面で表ジャケットは汚さないように裏面に”Best  Wishes Always” という文言をそえてサインしてくださいました。
アンドリュー・ヒルはウォルト・デイッカーソンの『To My Queen』に気持ちよくサインしてくださいました。

JT:レコードとCDに対してはどのようにお考えですか?

望月:レコードの最大の特徴は表と裏、A面とB面があることではないかと思っています。
私の場合ですが聴覚の緊張はそう長く持続しないので片面20分、長くても30分程度のLPレコードは丁度良い時間の区切りです。
CDの70分強もの時間、緊張を強いるのは私にはちょっときついですね。
もっともジェームズ・カーターのように一曲70分吹ききる強者もいますので例外はありますが。
それから、アナログとディジタルでどうしても音の質、密度が違うように思います。個人的にはアナログが好きです。

JT:デジタル・カメラについて。いつ頃、移行しましたか? フィルムと比較してどうですか。

望月:稲岡さんが使っていらっしゃるのを拝見して私も始めました。それと、銀塩フィルムの現像が難しくなり自然とデジカメに移行しました。
フィルムとデジカメの違いですが、使っている機材によって評価は異なると思いますが、私の場合、月並みですがCDとLPの違いと同じ感覚でとらえています。
昔の紙焼きをスキャナーで取り込むととても綺麗なことに驚きます。

JT:僕はオリンパスで始めてその後リコーを買いました。どちらもアマチュア用の小型ですが。
ところで、好きなジャズ・カメラマンは?

望月:ウィリアム・クラクストンのタッチがスマートで格好よく、大好きです。

JT:最後に夢をお聞かせください。

望月:夢は毎晩見るのですが起きると忘れてしまいます。
現実の夢も忘れる主義です。

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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