INTERVIEW #176 「曽根麻央」
曽根麻央 Mao Sone
1991年、東京生まれ。
ジャズを基盤として日本の音やその他の民族音楽を融合させる、完成度の高い個性的なスタイルを持った日本人のトランペッター、ピアニスト、歌手、作曲家。また、トランペットとピアノの同時演奏という独特なスタイルでも知られている。
18歳で、バークリー音楽大学より全額奨学金を授与され渡米。 タイガー大越、ショーン・ジョーンズ、ハル・クルック等に師事。 在学中国際的に著名な様々な賞を受賞。2016年に同大学の修士(Master)課程の第1期生として首席卒業、NYを経て帰国。
2018年4月、2枚組CD『インフィニット・クリーチャー』(Pony Canyon) でメジャー・デビュー。
Interviewed by Kenny Inaoka 稲岡邦彌 via e-mails, 2018年7月。
♪ 異例の2枚組アルバム(アコースティック+エレクトリック)でデビュー
JT:2枚組アルバムでデビューというのは異例ですが、その意図は?
曽根:僕が今まで続けてきた2つの異なるバンド・サウンド、どちらも僕の音楽で、ファースト・アルバムに欠かせない要素だというところから始まりました。
2014年頃より日本に一時帰国するたびにアコースティックとエレクトリックの二つのバンドで活動していました。アコースティックは「Interplay Trio」、エレクトリックは「Brightness Of The Lives」というバンド名が付いています。
JT:レーベルを説得するのも容易ではなかったと思いますが。
曽根:そうですね。最初は一つのグループ、一つの楽器に集中して制作した方が良いのでは?と示唆して下さいましたが、2つのバンド、2つの楽器(トランペットとピアノ)それぞれのサウンドがどちらも自分の音楽だ、自分を表現するのに欠かせない要素だということを了承して、全面的に理解して下さいました。
そして今度はレーベル側から、2枚組にしてバンドを分けたらよりアルバムとして効果的ではないか、というありがたい提案をいただきました。
JT:アルバム・タイトルの「インフィニット・クリーチャー」にその意図が反映されていますか?
曽根:タイトルは今回の仕掛け人でCo-producerのポニー・キャニオン山下正博さんが名付けて下さいました。僕がスタジオで録音・制作に当たる姿を見て、「永遠の想像力」「無限の生物」という今回のタイトルを思いついたそうです。
JT:構想からレコーディングまでどれくらいの日数がかかりましたか?
曽根:最初にレーベルからお誘いを受けたのは2014年のことでした。しかし、まだ僕がアメリカに在住していたので一旦見送りました。
そして、2017年の1月に一時帰国した際に、僕が7月より日本に帰国することをレーベルに伝えたら、快く改めて話を進めて下さいました。録音が今年の1月10日&15日、発売が4月18日でした。
曲自体の構想は一番古いもので<SkyFloor>が2011年、新しいもので<George Washington Bridge Blues>が2017年です。なので7年間のバンド/音楽活動から得られたレパートリーのベスト版のような形になりました。
JT:メンバーに全員日本人を起用した意図は?
曽根:自分の本当に仲間と言えるミュージシャンを集めた結果です。たまたまそれが今回は日本人であったということです。音楽仲間は信頼関係を深めていった先に本当のコミュニケーションが生まれると信じています。メンバー一人一人との思い出は語りつくせません。
JT:帰国間もなくの録音でしたが、メンバーとはすでに信頼関係が構築されていたのですね。
曽根:エレクトリックは元々、2014年ワシントンDCでの全米桜祭りオープニング・セレモニーで日本人のリズム・セクションが必要なので、ボストンでバンドをまとめてDCまで来てほしいという依頼を日本大使館からバークリーを通して受けたところから始まりました。その時バークリーの学生だった最も身近で信頼の置ける仲間、井上銘gt、山本連bass、木村紘dsに依頼を受けたその場で電話して頼みました。今ではそれぞれ売れっ子になっていますが、当時はみんな学生だったので毎週8時間はリハをして色々とサウンドを試していました。
アコースティックは同じ千葉県出身で同い年のベースプレイヤー伊藤勇司に僕が2011年の一時帰国中に出会い、それ以降、毎回帰国するたびに違う内容の楽曲を合わせて演奏していました。2014年のNHKFMの公開録音番組[Session]の初出演が本格的なアコースティック・バンドのスタートだったかなと思います。ドラマーは度々変更があったものの、2013年にバークリーで全奨学金を獲て入学してきた中道みさきに、2017年の僕のNYブルーノート、DCブルースアレイ公演以降グループに参加してもらうことでサウンドの方向性が決まりました。
♪ ひとりでトランペットとピアノを演奏する
JT:ひとりでトランペットとピアノを同時演奏されていますがその意図は?
曽根:聞こえてくる音を表現するのに必要な音のチョイスが広がります。僕は作曲したり演奏する時、ハーモニーはただのコードではなく、内声の動きだとか(カウンターポイント)、ベースラインの細かな動きまで聞こえてきます。それはトランペットだけだとどうしても表現しにくいものでもあります。
また、トランペットとピアノの合わさった音色が好きなのです。
JT:両者のインタープレイについてはどのように考えていましたか?
曽根:僕にとってはただただ普通の表現で、小さい時からピアノで音を確かめながらトランペットでラインの練習をするのが当たり前だったので、自分の練習方法の延長線上にこの表現がたまたまあっただけです。
JT:5曲目<George Washington Bridge Blues>の解説で児山紀芳さんが「後半に聴かれる曽根麻央のスイングする一人2重奏は圧巻!」と絶賛されていますが、左手でトランペット、右手でピアノを弾いているのですね?
曽根:今回、スタジオで録音にあたり音質にもこだわりました。なるべくアコースティック・ピアノへのトランペットの被りを少なくするためにパズルのように録っていきました。ものによっては同時に録りましたし、トランペットを先に録ったテイクもありますし、その逆もあります。GWB Bluesはイントロのトランペットとドラムデュオが終わった瞬間からピアノに移行し、一旦最後まで録ったあと、再度トランペットをオーバーダブしました。
ライヴでは同時演奏が可能なシチュエーションでも、同時には録音しませんでした。僕はライヴとレコーディングは別物と考えています。
JT:それぞれ1曲ずつスタンダードが収録されていますが。
曽根:Isfahanは国際トランペット協会のコンペティションのファイナルで演奏して優勝した思い出のナンバーです。I Fall In Love Too Easilyも長い間演奏している曲です。この2曲は僕がどうしても演奏したいなと思って入れました。
JT:レコーディングでいちばん苦労した点は?
曽根:ライヴと違い、パズルのように録って行ったので、それが上手くいくかは録音スタジオに実際入るまではわかりませんでした。2日前に自分のレコーディング・システムを練習スタジオに持ち込んでプリ・レコーディング・セッションをして一番合理的な録音方法を前もって検証しました。
JT:リスナーにいちばんアピールしたいポイントは?
曽根:楽しんでほしいです。そして一緒に踊ってほしいです(笑)。
今回は新曲ばかりですが、メロディーはとてもシンプルで特徴的な曲が多い、しかもグルーヴを楽しめる曲が多いので、普段ジャズを聴かない層にこそ届いてほしいなと思います。ジャズを多く聴いてきている人たちには21世紀の僕らなりの表現方法に耳を傾けていただければなと思います。
♪ 全額奨学金を授与されてバークリー音大に留学する
JT:18歳で猪股猛のグループに参加していますが、きっかけと意図は?
曽根:元々小・中学生の頃より地元・流山を中心に活動をしていて、文化会館に猪俣猛、前田憲男、荒川康男トリオを呼んで、地元密着型コンサートとして僕をゲストにしてしまおうという企画が2009年にありました。この様子は「The Legend Of Jazz Trio Meets Mao」というRCC Record(猪俣さんのRCCドラムスクールのレーベル)の限定アルバムになりました。そこから僕のプロとしてのキャリアがスタートしました。
ちなみに、このコンサートがきっかけで始まった流山ジャズ・フェスティバルは今年で8年目になります。
JT:そのグループではバップ系の演奏をしていたのですか?
曽根:もっと前のものです。スウィング時代のものが多かったです。
JT:その年にバークリー音大へ全額奨学金を授与されて入学したようですが、きっかけは?
曽根:時系列が遡りますが、2008年(高校1年の時)に日本トランペット協会(JTA)の当時の理事長で僕のトランペットの師匠である杉木峯夫先生(現・東京藝術大学名誉教授)からタイガー大越さんのクリニックを同協会で主催するから受講してみませんかと打診がありました。それがタイガー大越との出会いです。タイガー先生はすぐ僕のことを札幌のご自身のキャンプへ連れて行って下さり、バークリーの夏期講習の奨学金を獲ることができました。
JT:バークリーでは3年間何を学びましたか?語学の苦労は?
曽根:実際には4年です。パフォーマンス(演奏)科と作曲科に在籍しました。結果、行けませんでしたが、高校受験で東京藝大付属高校を受ける準備をしていたので、楽典的なハーモニーやイヤートレーニング(ソルフェージュ)などの知識や経験は元々あったので、かなりテストアウト(飛び級のようなもの)をしました。個人レッスンをタイガー大越とショーン・ジョーンズという現在の名手に習いました。タイガーの独特なアプローチは僕の演奏に直に生きていますし、ショーンにはクラシカルなトランペットのテクニックを中心に習いました。ハル・クルックには論理的なジャズ・インプロヴィゼーションへのアプローチを習い、これは今の僕のバンド活動に欠かせない知識となっています。またジョージ・ガゾーンのトライアディック&クロマティック・アプローチのクラスは僕の演奏と作曲の両方に大きな影響を与えました。大きな編成についてもグレッグ・ホプキンスなどの名作曲家に指導を受けることができました。
言語については徐々によくなっていきました。アメリカには英語を第二言語とする人たちが履修しなければならないESL (English as a Second Language)というクラスがあり、これは必修です。しかも、よくできたプログラムで英語を英語で教わるので、日本語で英語を教わるやり方では獲得できない『英語脳』を作り上げてくれます。
JT:2014年に国際トランペット協会主催のジャズ・コンペティションで優勝していますが、この大会とは?
曽根:国際トランペット協会 (ITG)が主催するカンファレンスで毎年行われている国際コンペティションです。正確には “Jazz Improvisation Competition”という部門での優勝です。音源審査があり、選ばれたファイナリストがPhiladelphia 近くのKing Of Prussia という場所で競いました。僕は予選落ちしていたのですが、補欠繰り上がりしてファイナルに進むことができ、優勝できました。この時には “Wild Flower” “Isfahan” “Airegin” “Sandu”を演奏して、Sanduをピアノとトランペットの同時演奏で演奏しました。曲目は指定でしたが、アレンジは自由でしたので、かなり頑張って編曲して演奏したのを覚えています。
この時の審査員の一人、マーキス・ヒルとは同年のセロニアス・モンク・コンペティションで競うことになりました。
JT:同じ年に国際セロニアス・モンク・ジャズ・コンペティションのファイナリストに選出されていますが、これは作曲部門ですか?
曽根:トランペット部門です。こちらも音源審査で5曲のタイプ別(latin, fast swing, ballad等)に自由曲を録音して、レジュメと一緒にCDを投函。Latinの曲として送ったのがアコースティック1曲目Within The Momentでした。その後、セロニアス・モンク・インスティトゥートから合否通知が届き、フライトおよびホテルの手配をしてくれました。僕には師匠のタイガー先生がボストンから両親の代わりに同行して下さいました。世界中のジャズ・ミュージシャンが中継を見る上、ハーグローブやサンドバル、R. ブレッカーなどが審査する中、15分で自分のベスト尽くすという良い経験が得られました。プレッシャーは今まで経験した中で圧倒的に一番でした。やっぱりこのレベルのコンペまで来るとみんな上手い!
今までコンペを経験して分かったジャズ・コンペティションの審査テープを作る際の注意点は、なるべく他の人が出さないような独自のサウンドで挑んだ方がいいということです。普通のビバップやスタンダードだと審査員は300-500人で聴くわけですから、インパクトは残らないと思います。スタンダードも今までなかったアレンジをすることをお勧めします。あとは、スタジオでレコーディングする、ピアノの調律に気をつけるなどもあります。
♪ バークリー音大新設の大学院の一期生として首席で卒業する
JT:2016年にバークリーに新設された大学院の一期生として首席卒業されていますが、ここでは何を学ばれていましたか?
曽根:大学院の前にグローバル・ジャズ・インスティトゥートの説明をまずさせてください。Berklee Global Jazz Institute (以下BGJI) は21世紀のクリエイティヴな音楽家を育てるべく、Danilo Perezを音楽監督に迎えて2009年より始動したバークリーが併設した教育機関です。BGJIの大きな3つの柱は(1)創造力の拡大、(2)音楽を社会貢献の道具として扱う、(3)音楽と自然&文化とのコネクトです。
僕はまず、2013年に学士課程としてまだバークリーの普通の学生であった頃にオーディションを受けてBGJIに入りました。(1)を学習するにあたりBGJIでは毎週違ったアーティストが来ます。アーティストはDanilo Perez, John Patitucci, Terri Lyne Carrington, Joe Lovano, Kenny Werner, David Sanchez, Ben Street, Wayne Shorter, Brian Blade, Adam Cruzなどです。月、火、水曜日を中心に個人レッスン、アンサンブル、ワークショップが行われます。そのほかのクラスとしてはアフリカのパーカッションのクラス、ジャズの歴史のクラスなどがあります。また有名ジャズ・フェスティバルへの出演などもできます。(2)を学習するにあたり、生徒は慰問活動を老人ホーム、福祉施設、刑務所を中心に行います。また、ドミニカ共和国やパナマ共和国などの貧困層の多い国へ行き、現地の子供達に楽器を教えたり、一緒に舞台に立ったりなどの活動もします。
(3)を学習するにあたり、Danilo Perez Workshopが毎月4−8時間開催され、様々な自然にある音や言語から音楽を作る宿題や方法が紹介され、生徒はこれを提出します。
このプログラムの修士課程が2016年にできるということで、改めてオーディションを受けて全額奨学金をもらい修士課程を首席で卒業することができました。修士課程を1年で卒業できるのはなかなか魅力的です。上記のプログラムのほか、ジャズ教育(教育課程)のクラスや、ミュージック・ビジネスのクラス、レコーディング・エンジニアリングのクラスが必修科目になり、とても有意義な時間を過ごせました。特にスタジオにはJohn Patitucci などの一流スタジオ・ミュージシャンがアドバイスに来るので、楽器に対してのマイクのポジションや、ブースでの音の聴き方など貴重な意見を聞くことができました。
生徒は修士論文&卒業作品を発表しなければなりません。僕は「日本の伝統的な音を現在のジャズ・インプロヴィゼーションに活用する方法」と題した論文で、その具体的方法としてコキリコ節を使って自分の組曲を書いて録音しました。
また、卒業後はBerklee Newport Jazz Workshopという高校生対象のワークショップをダニーロとBGJIが立ち上げ、そのカリキュラム作成、トランペットとアンサンブル講師をテリ・リンやダニーロの下で務めるという貴重な経験をさせていただきました。
JT:2016年に優勝したオランダの”Keep An Eye” 国際ジャズ・アワードとは?
曽根:マンハッタン音楽大学やジュリアード、バークリーなどが学校単位でバンドを送り競わせるコンペティションでした。バークリーはBGJIの中のカルテットを送り、この中に僕もいました。その年はハービー・ハンコック・トリビュートで僕らはActual Proofを自分らなりにアレンジしたバージョンで優勝しました。多分どこまでが即興で、どこまでがアレンジか聴いている人にはわからなかったと思います。
ジャズ・コンペティションは自分のアレンジ、表現方法で勝負する方が圧倒的に有利だし、インパクトに残ると思います。
JT:NYではクラブなどでも演奏していましたか?
曽根:NY時代は1年間だけでしたがクラブで演奏だけでなく色々なことをしていました。アレンジャーとしてはDanilo Perezの新ユニットJazz 100のアレンジを担当したりもしていました。これはNYにいた人ならみんな経験しますが、毎週日曜日の朝には教会にオルガンでゴスペルを弾きに行っていました。バークリー時代からの仲間のリーダーバンドでNYのローカル・クラブなどでも演奏していました。自分のバンドでブルーノートに出演する貴重な機会もありました。
♪ 音楽を始めるきっかけはルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界」
JT:音楽一家に生まれましたか?
曽根:そもそも祖母が歌舞伎町に「てんとう虫」というジャズ喫茶を経営していたこともあって、LPがいっぱい家にありました。それでピアニスト・歌手である父が選んで聞かせてくれていました。その中の一曲が僕が音楽を始めるきっかけになったルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界」でした。
JT:ピアノとトランペットを始めたのはそれぞれ何歳の時にどのようなきっかけで?
曽根:Piano は生まれた時から身近にあったので気づいたら始めていた感じです。トランペットはルイ・アームストロングに憧れて8歳のクリスマス・プレゼントに買ってもらいました。
JT:9歳の時に地元流山市で音楽活動を始めたそうですが、内容は?
曽根:父母との地元密着型のボランティア活動を中心とした演奏活動でした。
JT:ジャズに興味を持ち始めたのは何歳ごろどのようなきっかけで?
曽根:家にあるLPの中からルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界」を聞いたのがきっかけでした。それまではクラシック・ピアノを普通の子供教室で習っていたこともあったのです、目が悪いせいもあり譜面が嫌いで、徐々に自分なりに和音というものを理解して(いわゆるコード)、それで弾く、いわゆるジャズの弾き方に変わっていました。
JT:好きなミュージシャンとアルバムをあげて下さい。
曽根:トランペットで尊敬するのはDizzy Gillespie、ピアノはThelonious MonkとBill Evans。
アルバムの興味は入れ替わるので、最近はまっているのは、Wayne Shorter – Without A Net、Herbie Hancock – The New Standard、Danilo Perez – Motherland、John Coltrane – Live at Newport Jazz Festival 1963、Herbie Hancock – Flood、Paul Simon – Still Crazy After All These Years、Elis Regina & Antonio Carlos Jobim – Elis & Tom、Tom Harrell – Passages、Willie Colon & Ruben Blades – Siembraなどです。あとはBuster WilliamsのSomething MoreというアルバムのI Didn’t Know What Time It Wasがとても好きです。
JT:最近のミュージシャンで興味のある人はいますか?
曽根:僕と同い年で友人のハーモニカ奏者Roni Eytan。彼はイスラエルや他の中東のアンダルシア音楽から派生した音楽とジャズの融合を試みていますが面白いです。僕自身も日本の音楽とコラボするのに自信をもらいました。
サックスの僕の心の兄弟Edmar Colonは演奏だけでなく作曲も素晴らしいです!Edmarは最近はエスペランザやダイアン・リーブス、テリ・リン・キャリントンなどとの共演とアレンジ、デトロイト・ジャズ・フェスのコミッション作品の作曲など、作曲家としても注目を集めて来ています。ベテラン・ミュージシャンからの信頼のあついミュージシャンの一人で今後名前を聞く機会が増えると思います。
♪ クラーベを理解することが世界の音楽との共通言語を習得する早道
JT:留学中、自分のアイデンティティを求めて苦労されたようですが?
曽根:ダニーロから自分の国の表現をもっと取り入れなさい。日本には日本の音から生ずるジャズを演奏するシーンがないから作りなさい、と言われました。でも、手本といいますか、成功しているリファレンスがないので、自分で創造しないといけない。
例えばラテンジャズならディジーの頃から成功例が存在するわけで、その流れで今David SanchezやMiguel Zenonがプエルトリコのボンバやプレナを取り入れて成功を収めている。Omar Avital なんかもイスラエルの音楽を取り入れて面白いことをしています。でも、それは周りのミュージシャンも同じレベルで自国の音楽について詳しいからできる表現でもあります。日本はもっと自分たちの音楽を評価して、ヨーロッパの音楽について詳しくなるのと同じレベルで日本の音楽について学ぶ機会があったらいいなと思います。
話が逸れましたが、そんなリファレンスを提供するために「こきりこ節」を用いたり、修士論文を書いたわけです。
JT:そういう流れで「日本のジャズ」を模索して民謡に注目、富山県の「こきりこ節」に題材をとった成果を発表されたのですね。
曽根:これにはすでに説明させていただいたことの他にもう一つ思惑があって、日本の音楽からリズム・パターンを探す、日本のクラーベを研究する目的があります。
例えば歴史的に考えて、アフリカのベル・パターンが奴隷貿易によってキューバに伝わり発展したのがルンバ、プエルトリコではボンバ、ブラジルではサルサ、パナマではタンボリートなどと変化し、北アメリカではセカンドラインとなり、どのリズムも「クラーベ」によってグルーブ・パターン、ベースラインやメロディー・ラインが支配されています。クラーベを理解することが世界の音楽との共通言語を習得する早道なのです。そこで、日本のクラーベとその種類を研究する最初の段階で「こきりこ節」に出会い、「こきりこ節」のクラーベからドラム・パターンを作り、そこから組曲を仕上げました。
JT:今後もこの方向を進めて行く考えですか?
曽根:クラーベを理解すると他の民族音楽とのコラボが容易になります。音楽の世界共通語を学んでいるようなものです。この研究はずっと時間が許す限り続けていきたいと思います。JT:ところで、オーケストレーションに興味はありますか?
曽根:とても興味があります。もっと大きな編成、あまり普段使われない音色の楽器などもとりあわせながら独自の編成で作品を仕上げていきたいと考えています。
JT: 曽根さんがピアノに徹したピアノ・トリオ・アルバム、あるいはトランペットに徹したカルテットなどのアルバムにいつか挑戦して見たい気持ちはありますか?
曽根:是非挑戦したいです。その時は僕自身の楽器の制約がある訳なので、既存の編成にはとらわれず、僕の脳内の音が表現できるように、より大きな編成のアンサンブルが必要になるかなとも思います。
JT:メンターとして私淑しているバークリー音大のタイガー大越教授は自身にとってどんな存在ですか?
曽根:音楽家の鏡、人としてのお手本のような人だと思います。例えば僕が日本に帰った後も「Maoどうしてる?」ってメールや電話をちょくちょくくれて、それで僕がメンタル的にも仕事的にも大丈夫かちゃんと定期的に検査してくれるわけです。少しでも雲行きが怪しいと電話越しにでもタイガーにはバレるので(笑)、そんなときは自然とそれを解決するアドバイスや示唆をくれます。本当に思いやりのある人で、こんな先生は他にいないと思います。
JT:最後に夢を語ってください。
曽根:先ほどオーケストレーションをより深め大きな編成で音楽をしていきたい希望は言いましたが、それとさらに映像作品とのコラボもしたいです。
21世紀はテクノロジーの発達から、音楽が目に見える形でも創造され配信されるべきだと思っています。僕がコラボしたいと思うビジュアル・アーティスト、ダンサー、アニメーション作品、映画をいつも探しています。いつかそんな機会に恵まれればいいなと思います。
また、自分の技術や音楽的創造力のみならず、人間としても成長して音楽で何かの役に立てるようになりたいと思っています。