Interview #29 ジョルジュ・グルンツ
Interviewed by Kenny Inaoka 稲岡邦彌 @新宿京王プラザホテル
2005年7月8日
George Gruntz ジョルジュ・グルンツ 1932年6月24日、スイス・バーゼル生まれ。
作編曲科。ピアニスト。フィル・ウッズ=ヨーロピアン・ジャズ・マシーンのピアニスト。
1972年、コンサート・ジャズ・バンドを立ち上げると同時にヨアヒム・ベーレントの跡を継いでベルリン・ジャズ・フェスティバルの音楽監督に就任。アルバムは『Theatre』(ECM)他。
*2013年1月10日、バーゼルで死去。
♪ベルリン・ジャズ・フェスの音楽監督を23年間務めた
Q:ベルリン・ジャズ・フェスティバルでの正式タイトルは?
グルンツ:音楽監督だ。プログラム・ディレクターとも呼ばれたけれど。94年まで23年間務めた。前任のヨアヒム・ベーレントから電話があってね。彼はラジオ、TV、レコーディング、フェスティバルと何から何まで手掛けて反感を買い出したのだ。僕はミュージシャンだし、作曲もしたかったけど、断りきれずにとりあえず1年間つなぐ、ということで引受けた。ところが僕は受けた仕事は徹底的にやる方で、いつのまにかのめり込んでしまった。当時ドイツは東西に分断されていてベルリンは微妙な状況にあった。僕がスイス人であることが彼らにとっては有利に作用していたようだ。僕は世界中のジャズ・ミュージシャンに出演の機会が与えられれば良いと思っていた。辞めた理由は長くやり過ぎたこともあるけど、予算が付かなくなってやりたいことができなくなったからだ。プレゼンテーションも不完全になってしまったし。
Q:西ドイツが東ドイツを抱え込むことになって経済的に落ち込んだから?
グルンツ:そうじゃない。ベルリンの壁が崩壊した結果、東西ベルリンが一緒になってベルリンが特別な意味を持たなくなったのだ。いわゆる西ベルリンはコミュニストに囲まれて不憫な存在だったのだ。レスキューを求めるとすぐに救いの手が差し伸べられた。行政も、TVもラジオも。ベルリンもいい気になってつねに過保護を求めていた。予算を申請するとすぐに許可が下りた。ところが壁の崩壊で甘えが一切通用しなくなった。
Q:すごいパラドックスですね。
グルンツ:100%政治的な理由で予算が徹底的にカットされた。僕も潮時だと思って手を引くことにした。でも在任中はずいぶん貢献したよ。何といってもベルリンを象徴するフェスティバルだったからね。世界各国をまわって良いミュージシャンを発掘した。日本からも日野兄弟や高瀬アキを招待したし。
Q:23年間でもっともエキサイティングだったことは?
グルンツ:最後の年に僕のコンサート・ジャズ・バンド(GG-CJB)に特別の機会を与えてもらったこと(笑)。予算は出なかったけど。ニューヨークからエルヴィン・ジョーンズやジョー・ヘンダーソン、フィル・ウッズ、ジョン・スコフィールドなどを呼んだのだ。僕のバンドで演奏してた仲間だよ。今じゃスターだけど。声を掛けたら皆、駆け付けてくれた。そして、フェスティバルの前夜祭をやったのだ。感謝してるよ。
Q:もっとも苦労したことは?
グルンツ:ダラー・ブランド(アブドゥラ・イブラヒム)とミリアム・マケバのコンサート。
Q:何があったのですか?
グルンツ:もう時効だろう。友人のダラーと相談してミリアム・マケバとデュオで南アフリカのスペシャル・コンサートを企画した。会場はフィルハーモニーだ。それぞれが単独のコンサートを1回ずつやって最後にデュオ・コンサートをやる。マケバとも正式に契約を交わした。チケットは発売即ソールド・アウト。ところが彼女はリハに現れなかったのだ。パスポートを盗まれた、という口実を使われたけど。真実は闇の中だ。ところが彼女は10分間歌っただけでステージを下りてしまった。契約は1時間のパフォーマンスになっている。満員の聴衆からブーイングの嵐だ。やっとステージに上げたら1曲歌っただけで帰ってしまった。聴衆はほとんど暴徒と化しつつある。そのうち僕の名前をコールし始めたのだ。警官が200人位鎮圧に駆け付けた。警官に取り囲まれた数百人の暴徒に説明をしてやっと事なきを得た。あれほど恐ろしい体験は初めてだよ。特番を組んでいたTVからは吊るし上げられたけど。
Q:他に何かエピソードはありますか?
グルンツ:ベーレントの時代に女性ヴォーカル特集をやったのだ。サラ・ヴォーンやアニタ・オデイらが出演して。皆が競ってクラブ歌手のような派手な衣装になってしまった。僕の時代になって、セシル・テイラーの勧めでベティ・カーターのコンサートを組んだ。リハの時にベティに近付いて「ところで、今夜の衣装は?」って聞いたら「あたしの自由よ!」と取りつくしまもない。どうやらセクハラと取られたらしい。このコンサートは大成功に終わって、お祝いに駆け寄ったら「プイ!」と顔を背けられた。
Q:女性は難しいですね。
グルンツ:モントルーで彼女に会ったので、ジャック・ディジョネットに仲介を頼んだ。ジャックは事の顛末に大笑いさ。真相を知ったベティも大笑いで、頬っぺにチュ!で一件落着さ。音楽監督も楽じゃない...。
♪ GG-CJBの来日コンサートが最優秀賞に選出された

Q:88年のジョルジュ・グルンツ・コンサート・ジャズ・バンド(GG-CJB)の来日コンサートが音楽執筆者協議会のベスト・コンサートに選出されましたね。
グルンツ:あのツアーはいろいろ思い出深いね。トラムスが急病になってあのポール・モーシャンがビッグバンドのスコアを叩いたんだ。
Q:彼はリハの後ぐったりして食事もとらずにベッドに倒れ込みましたよ。
グルンツ:頼みの日野元彦も旅に出てね。
Q:昭和天皇が崩御されて歌舞音曲は自粛。行政系のコンサートが2ケ所ドタキャンになった。プロモーターとして胆を冷やしましたよ。
グルンツ:でも東京と大阪のコンサートが大成功で高い評価をもらった。帰国してすぐに記念のアルバムを制作、『First Prize』(ENJA)として発表した。
Q:東ドイツのサックス奏者ペトロウスキーとキューバのトランペッター、アルトゥール・サンドヴァルのビザがなかなか下りなくて。結局、彼らは香港のビザが下りずに東京のホテルで待機でしたね。
グルンツ:僕は世界中からメンバーを選りすぐっているから。だけど、政治的な問題は対処の仕様がない。
Q:バンドネオンのディノ・サルーシはあなたがアルゼンチンで発掘した。
グルンツ:1982年に南米に出掛けてブエノスアイレスの大学でレクチャーしたことがある。ディナーの後、地元のジャズクラブに出掛けたのだ。オーナーに面白いプレーヤーはいないかたずねたところ、ジャズではないが変わったのがいるという。ガレージでリハを聞いた。それがディノだった。そのときはタンゴではなく、カンドンブレを演っていた。
Q:アフロ・ブラジリアン系の強烈なやつですね。
グルンツ:そうだ。サンバ系のね。ディノはアンデス山麓の寒村の出なのだよ。もちろん、生活のために観光客向けのタンゴも演奏していたようだが。インプロヴィゼーションもどこまでも行けた。そういう意味ではピアソラとは違う流れだ。ピアソラは即興は得意ではなかった。音楽学校を出ているから譜面も読める。とにかくディノの演奏にノックアウトされてすぐに渡欧の手筈を整えた。そしてGG-CJBでヨーロッパ・デビュー。賞讃の嵐を得て、あとはECMが引受けてくれた。
Q:最近、日本のレコード・レーベルから『トリオ・ターゲ』を出されましたね。ディノとスイスのピアニスト、ティエリー・ラングとのトリオで。
グルンツ:あれは、僕とティエリーのデュオ・プロジェクトにディノがゲスト参加した形だ。ティエリーはビル・エヴァンス系で僕の持ち味とは違う。そこにディノが入って三者三様なのだが、ジグソーのようにうまくひとつの音楽にまとまった。
♪ 死の数ヶ月間のマイルスとモントゥルーで共演した
Q:GG-CJBでギル・エヴァンスのスコアを演奏し、マイルスと共演しましたね。
グルンツ:91年7月のモントルーだね。モントルーの25周年企画だった。プロデューサーのクロード・ノブスから電話があってどうしてもマイルスを担ぎ出したい、ということだった。マイルスとは知らない仲ではなかったので何とか協力したいと思った。だけどギル(・エヴァンス)のスコアの再演はないだろう。40年も昔の作品だ。『マイルス・アヘッド』も『スケッチズ・オブ・スペイン』も素晴らしい作品だ。だけどあの内容以上のものを再演するのは不可能だ。マイルスの健康上の問題もあるし。第一、絶対に後ろを振り向かないマイルスに失礼だし、ギルだって生きていたら40年前のスコアをそのままは使わなかっただろう。僕は反対した。だけど、クロードとクインシー(・ジョーンズ)が再演を決定した。
Q:マイルスはどうだったのですか?
グルンツ:残念ながらマイルスにはもうモチヴェーションが充分残ってなかった。
白人嫌いのマイルスだったけど僕のことは信用していた。ニューヨークでは同じホテルでね。僕が詩人のアミリ・バラカ(リロイ・ジョーンズ)と打ち合せている現場にも来て、僕がレイシスト(人種差別主義者)でないことは知っている。イタリアのラジオ番組のインタヴューで「ジョージ・グルンツのバンドのトランペッターは白人だけど “吹けるよ”」なんて答えていたらしい。
Q:フランコ・アンブロゼッティですね。
グルンツ:マイルスはフランコがイタリア人だと思ってたらしいのだが、彼はスイス人なのだよ。
Q:ところで、マイルスの体調の問題でウォレス・ルーニーがサポートに入ったのですか。
グルンツ:そうじゃないのだ。これははっきりしておきたい。世界中のマスコミが、マイルスがウォレスを影武者に雇ったと書いた。それは違う。事実はこうだ。リハの時間になってもマイルスが出てこない。僕が自分のバンドのウォレスにマイルスのパートを吹くように指示したのだ。オケのリハが必要だったからね。ウォレスが吹いている時にマイルスが現れて、ウォレスにそのまま残るように命じたのだ。
Q:マイルスは何をしていたのですか?
グルンツ:クロードにギャラを上げるように掛け合っていたらしい。
Q:ウォレスが抜けたGG-CJBのトランペット・セクションはどうしたのですか?
グルンツ:クインシーが知り合いのベニー・ベイリーを見つけて急遽トラを頼んだのだ。ウォレスが影武者用に雇われていたのではなく僕のバンドから抜かれたのが事実だ。GG-CJBはニューヨークで新作を録音してツアーに出たのだ。その足でモントルーに入ったから、CDをチェックしてもらえば分かることだ。
Q:僕はモントルーのライブ・アルバムにはネガティヴな評価を下したのですが。
グルンツ:その通りだよ。マイルスを讃えるイベントとしては評価できるけど音楽的には重要な作品ではない。コンサートが終わってメンバーは皆パーティに出掛けてしまって、気が付いたら控え室に残ったのはマイルスと僕だけだった。マイルスはほとんど口もきけないほど憔悴しきっていた。
Q:マイルスはそれから80日後に絶命するのですよね。
グルンツ:彼は本当に魅力的な人間だった。誰にでも愛想が良かったわけではないけどね。
♪ ジャズ・オペラ『魔笛』で忙しい
Q:去年発表されたジャズ・オペラ『魔笛』の2枚組CDの反応はどうですか?
グルンツ:とにかく大きなプロジェクトに一区切り付けられたことが何より嬉しい。すでに来年、ピッツバーグのカレッジバンドを使った公演の話をすすめているところだ。
Q:このプロジェクトはそもそも1972年にスタートしたとか。
グルンツ:そうなんだ。ドイツの脚本家ペーター・O・チョチェヴィッツがオペラハウスの監督ロルフ・リーバーマンからエマヌエル・シカネーダーの原作に基づいた新作を委嘱されてね。モーツァルトの『魔笛』の台本だ。僕のアイディアでアメリカの10人の詩人にアリア用の歌詞を書いてもらうことにした。ただし、彼らにはストーリーボードを渡しただけで、モーツァルトの『魔笛』については一切伏せたままにした。そして僕がそれに曲を付けたわけだ。ジャズ・オペラだから、ジャズ歌手やジャズ奏者が演奏することを想定してね。
Q:完成までには相当時間がかかったと思いますが。
グルンツ:台本は1973年には完成したのだけどね。じつは、リーバーマンと僕のコンビでもう1本ジャズ・オペラの委嘱を受けていた。これは、アレン・ギンズバーグの台本で『コスモポリタン・グリーティングス』というのだが。こちらが先に進行して1988年にロバート・ウィルソンの演出でハンブルグ国立歌劇場で上演されたのだ。これはライヴ収録されてCDにもなった。
Q:『魔笛』の方はどうしたのですか?
グルンツ:『コスモポリタン・グリーティングス』の成功でジャズ・オペラが認められて、今度は、スイスの「メニューイン・フェスティヴァル」から正式に委嘱を受けることになった。
Q:それがモチヴェーションになったわけですね。
グルンツ:その通り。プレミア上演は2003年の夏。ハンブルグのNDR(北ドイツ放送局)のビッグバンドにダニー・ゴットリーブがゲスト・ドラマーとして参加した。その公演を収録したのがCDになった。去年は、自分のバンドGG-CJBにシンガーを4人立ててツアー・ヴァージョンを組織したんだ。
Q:それにしても、バンド16人、ヴォーカル4人、大部隊ですね。
グルンツ:今年は、ショーケース用に8人編成のオクテット・ヴァーションも結成した。シンガー4人とカルテットだ。スインギーなカルテットの演奏とアリアでコンサートを構成し、ショーケースとして機能させるのだ。大好きな日本でもぜひ公演したいと思ってスイス大使館にも働きかけている。
Q:公演は大部隊になりますね。
グルンツ:フル・ヴァージョンは大部隊だね。それで、ミドル・ヴァージョンと8人編成のオクテット・ヴァージョンを編成することにした。
Q:それぞれどういう編成になりますか?
グルンツ:フル・ヴァージョンの場合は、8人のインプロ・シンガーとジャズのビッグバンド(GG-CJB)、ミドル・ヴァージョンはヴォーカルが4人。バンドは、どちらも16人編成だ。
Q:最後に夢を聞かせて下さい。
グルンツ:僕もいろいろなプロジェクトを手掛けてきたけど、本命はGG-CJBなんだ。世界中から優れたプレーヤーを集めてオリジナルを演奏してもらう。これ以上のぜいたくがあるかい?来年はこのバンドの35周年なのだ。ところがビッグバンドの経営ほど難しいことはない。なにしろ22人でツアーするのだ。夢を叶えてもらえるのなら、アラビアの王侯貴族にツアーをサポートしてもらいたい。なにしろ彼らは自家用にジャンボ機を持ってるのだよ。彼らの宮殿で演奏して欲しかったらいつでも飛んで行くよ。
*2005年10月23日 JazzTokyo #33 初出。