Interview #232 Laurie Verchomin (Part 2)
ローリー・ヴァホーミン (第二部)
第2回 2009年8月18日 インタヴュア:マーク・マイヤース Marc Myers(JazzWax)
ローリー・ヴァホーミンは、ビル・エヴァンスの人生最期の18ヶ月(1年半)を共に過ごした愛人だった。付き合いを通したローリーの悩みはビルの慢性的なコカイン中毒と健康状態の悪化だった。しかし一方では、ニュージャージーの自宅や、アメリカや海外での過酷な演奏旅行に同行しながら目の当たりにするエヴァンスの創作活動に敬意を払っていた。ローリーにとって、これらのツアーは必ずしもロマンチックな音楽の冒険ではなかった。それは、ストレスや大きな心配と恐怖が伴う休む間もなく続く演奏活動だった。エヴァンスは、創造性に富む一方で自己破壊的であり、美しいものとと醜いものを表裏一体のものとして捉えていたとローリーは言う。
インタビューをしているとたくさんの質問が浮かんできて、その中には批判的なものや、今思い返してみると愚かなものもあった。例えば、「なぜ、あなたはエヴァンスにもっと強く薬物を止めさせようとしなかったのか?なぜ、彼にもっと自分を大切にするように働きかけなかったのか?あなたは彼を助ける存在だったのか?」などなど。私が「愚かな」と言ったのは、ローリーの答えが常に完全に合理的で論理的だったからだ。例えば、「あなたは私にどうさせたかったのか?生涯続いた悪い習慣を止めさせることはできなかった。ビルはとても創造的な存在だったので、私がそこへ割り込むことはできなかった。私が到着したときには、彼の状態は悪化しており、救いようがなかった。自分にできることは、彼が快適に過ごせるようにしてあげることと、心のケアをしてあげることだけだった」。
ローリーへのインタビューのパート2では、よく知られているエヴァンスが彼女のために書いた曲、たった一度の大喧嘩、エヴァンスが仲直りした経緯、極めて自己破壊的な人間からなぜこれほどまでに美しいものが生まれて来るのかを理解しようとしたこと、そしてローリーが知り合ってからずっとビルが決してしなかったことについて語っている。
JazzWax:ビル・エヴァンスの<ローリー>は、あなたのために作曲されました。この曲はどのようにして作られていったのでしょう?
ローリー・ヴァホーミン:ビルがこの曲を書いたのは1979年5月31日で、私が初めてニューヨークを訪れたときの終わりでした。彼はその後の手紙で、この曲のいくつかのバージョンを送ってきました。全部で5通の手紙に、5つのバージョンの曲が書かれていました。最終バージョンは、1979年7月29日の日付になっています。
JW:当時、あなたは楽譜が読めたのですか?
LV:はい、ビルが作った曲がどんな音なのかを知ることができました。私の両親は二人とも音楽家でした。父はウクライナ正教だったので、私たちは教会で憂いを含んだ音楽を聴きながら育ちました。ビルも同じ背景がありました。つまり、彼の母親はロシア正教に属していたのです。ですから、私たちはその伝統を共有していました。ビルの音楽の雰囲気の多くは、ロシア正教から来ているのです。
JW:エヴァンスから送られてきた音楽を聴いてみて、楽しかったですか?
LV:とても楽しかったです。実は、(ジャズ教育者でピアニストの)アンディ・ラヴァーンは、5つのバージョンすべてを見ています。彼は、ビルの曲作りの和声分析を書きたいと思っているのです。
JW:<ローリー>の中で、エヴァンスはあなたに何を伝えているのでしょう?
LV:上昇についてです。彼は、上へ、上へと転調していきます。彼が私に言ったことは、「努力に努力を重ね、自分の人生から何かを生み出さなければならない」。彼の死後、私の人生はその上昇の歌になりました。すべては、彼の死のトラウマから生まれたものなのです。
JW:伴侶としてのエヴァンスはどうでしたか?
LV:彼は完璧でした。彼は私に多くのスペースを与えてくれました。その結果、自分の考えを持つことができました。議論も生まれます。若いときは何でも知りたいものです。私は何に対してもオープンでした。彼はそのことにとても興味を示していました。
JW:喧嘩をしたことはありましたか?
LV:いえ、一度もありません。いや、今の話は取り消します。一度だけ彼が私にとても腹を立てていた時がありました。
LV:私が彼の頼み事を断ったのです・
JW:何を頼まれたのですか?
LV:ビルにコカインを買いに行ってくれと頼まれたのです。私は断りました。それはやらないと言ったんです。それで、彼は声を荒げて本当に怒ったんです。でも数時間後、彼はレナード・ニモイのメッセージ入りのホールマークカード(写真)を持ってきてくれたんです。そこにビルの謝罪の言葉が書いてありました[下]。彼は、自分の感情をとてもうまくコントロールできていたのですね。
JW:エヴァンスはそれをどのように管理していたのでしょう?
LV:彼はいつも自分の気持ちをどう表現するかを事前に考えていました。それは、観察を作り出すということです。自分の気持を表現する前に、自分の気持を観察することができるようになれば、自分の気持を客観的に考えることができる空間、バッファーゾーン(緩衝地帯)を作ることができます。それはまるでアートのようなものです。[画像をクリックするとメモを拡大することができます]
JW:エヴァンズを薬物中毒から救い出せなかったのは悔しかったですか?
LV:年齢差があったので、私は彼の人生に影響を与えたり、コントロールしようと考えたことはありませんでした。私が彼にしてあげられることは、心のケアをしてあげること、彼がコントロールできないことがあれば、それを観察して助けてあげることだけだと思っていました。私は彼を援護するために存在していたのです。
JW:それは、少し距離があって、離れているように見えますね。
LV:いいですか、末期がんで死にかけている人に出会ったとき、あなたのエネルギーはその人を救うために使われるのではありません。その人を慰めるために自分ができることに時間を使うのです。
JW:エヴァンスは、あなたのためにコカインの常習をやめる努力をしてくれると言ったことはありますか?
LV:常習をやめたいと言えたでしょう。でも、彼がやめようとしないのは明らかでした。私はその力に対抗するためにそこにいたわけではありません。そんなことに私が耐えられるはずがありません。私の仕事は、受け入れることでした。私にできることは、彼が日々の苦労をできる限り楽にしてあげることでした。
JW:エバンスのように才能があり、自分をコントロールできる人が、なぜ明らかに破壊的なものに絶望的にまで依存していたのだと思いますか?
LV:それは分かりませんでした。彼のその部分は本当に深いところにあったのです。ビルのような人がなぜあんなに執拗に自己破壊的になるのか、私には分かりません。それはとても難解なことです。謎ですね。私にとっては、いまだに謎のままです。ビルを理解するには、破壊と創造が同時に存在することを理解するしかなかったと言えます。ビルは強烈な創造性を持っていたからこそ、強烈な破壊的側面をも持っていたのです。彼は私に、「何事も中途半端にはできない。すべてが極端でなければならない」と言っていました。依存症についても同じように考えていました。
LV:いいえ、彼の依存症については話し合ったことはありませんでした。彼が私と話し合いたいと思っていたことではないのです。私には、この問題が真剣に議論されることも、完全に解決されることもないことは明らかに思えました。
JW:1979年と1980年のエヴァンスの演奏旅行は、一緒に旅をすることは刺激的でしたか?
LV:神経を使う旅でした。常に緊張を強いられていました。旅をしながら演奏をするのは、肉体的にもストレスでした。彼は大量のドラッグを持って空港を移動していました。数日ごとに新しい街に行き、(ドラッグの)コネクションを作り、クラブに行き、ギグをして、ホテルに戻って休む。そして、次の都市へと向かうのです。
JW:1979年11月には、彼と一緒にパリに行ったのですか?
LV:いいえ、2週間のロニー・スコット・クラブ出演のためロンドンでは彼と一緒に過ごしましたが。パリ旅行には招待されませんでした。しかし、彼が去った後すぐに、彼の健康状態があまり良くないと電話がありました。彼はひどく病んでいたのです。音楽が彼を支えていました。私が何かを足しても、彼が音楽から受けるエネルギーにはかなわなかったのです。
JW:エヴァンスは最後の1年半の間、ツアーで休息を取ることはありましたか?
LV:ビルは、私が知っている限り、ほとんど寝ていませんでした。ビルのようにコカインを摂取していると様々な疲労状態に陥り、本当の意味で休むことができませんでした。彼は一度も睡眠を取ったことがなかったのです。
明日は、ビル・エヴァンスとマイルス・デイヴィスについて、エヴァンスがデイヴィスをどう思っていたか、デイヴィスのエヴァンスに対する残酷さについてビルが語ったこと、エヴァンスのマネージャーであるヘレン・キーンが彼の自滅的な性格にどう対処したか、などについてローリーが語る。
1979年当時のローリーの写真(上)とホールマークカードは、ローリー・ヴァホーミンの提供による。ローリーは、ビル・エヴァンスとの関係や経験についての本を執筆中。
*https://jazztokyo.org/news/post-70363/
JazzWax tracks:ビルは1979年8月から1980年9月までの間に、<ローリー>を12回録音している。僕のお気に入りのバージョンのひとつは、エヴァンズの最後の演奏として知られているもので、エヴァンズが亡くなる11日前の9月6日にサンフランシスコのキーストン・コーナーで知らずに録音されたものである。この曲は『The Brilliance』に収録されており、iTunesやAmazonでダウンロードすることが可能。この曲の裏話を知ると、その夜クラブにいたローリーの耳には、絶望と安堵の音楽的な手紙のように聞こえている。(訳責:稲岡)
Reprinted with the permission by Marc Myers/JazzWax.
JazzWax: https://www.jazzwax.com