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InterviewsNo. 286

Interview #235 ローリー・ヴァホーミン Part 3

 

先週の日曜日、ローリー・ヴァホーミンは、ビル・エヴァンスの80歳の誕生日を地元のゴルフ練習場で過ごした。彼女の娘にとって、初めてのゴルフ体験だった。ローリーによると、”ビルはニュージャージーにある父親のゴルフ練習場で、夕方の静かな時間に兄のハリーと一緒にゴルフボールを拾いながら多くの時間を過ごしていました”。 1979年5月から1980年9月にかけて、ローリーはビル・エヴァンスの愛人だった。当時、ビルより25歳以上若かったローリーは、二人の関係の初期に、エヴァンスの余命が長くはないこと、彼が必要としているのは看護婦でも口うるさい人でもなく、感情的、精神的な伴侶であることに気付いていた。[1980年、カナダのパスポートのために撮影されたローリーの写真] 。

個人的なことだが、エヴァンスについてのローリーへのインタビューは、この2年間で最も難しいものだった。ローリーは、完璧なまでに率直であった。しかし、エヴァンスは私にとって長年のジャズ・ヒーローである。1970年代にはボストンとニューヨークで彼の演奏を何度か見たことがあり、1970年代初めにはいくつかのピアノ・トランスクリプションを苦労して手に入れたこともあった。これらのトランスクリプションを弾いたことのある者なら誰でも分かっているように、彼の創造的な考え方をより身近に感じられるようになる。ローリーが、エヴァンスが人生の終わりに向かって芸術と悪魔とに耐えてきた生々しい闘いを語るのを聞くのは、衝撃的であり魅力的だった。正直というのは、そういうことなのだろう。

ローリー・ヴァホーミンへのインタビュー・シリーズの第3回は、エヴァンスの繊細さと自己破壊の謎めいた混在、マイルス・デイヴィスによるエヴァンスに対する不当な対応とエヴァンスの反応、エヴァンス自身のエゴの捉え方、マネージャーのヘレン・キーンが終末期にビルとの連絡を絶った理由などについて語ってもらった。

ビル・エヴァンスは自分を維持するために薬物を使っていた

JazzWax: あなたがビル・エヴァンスと付き合っている期間、彼の音楽は苦痛から来るものだったのでしょうか?

ローリー・ヴァホーミン:精神的な苦痛はあったかもしれませんが、肉体的な痛みはありませんでした。彼は本来的な肉体的苦痛を経験していたわけではないのです。ドラッグのおかげで肉体的な痛みを経験しないことを選択したのです。彼は自分を維持するために薬物を使っていたのです。

JW:どうしてでしょう。

ローリー:ビルは医者から余命宣告を受けるまでもなかったのです。彼にはそれが明らかだったからです。理性的な人なら誰でも分かるはずです。彼はとても恍惚とした状態にありました。ドラッグを使い、もうすぐこの世を去ることを知ると、一瞬一瞬からできる限りのことを得ようとするため、恍惚状態になるのです。

JW: エヴァンスには、極端な美しさと繊細さ、そして醜さと自己嫌悪が同時に存在していると思ったことはありませんか?

ローリー: コントラストが非常に極端でした。そこがとても衝撃的でした。人間関係には本当に醜い部分と、本当に美しい部分があったんです。それはまるでニューヨークのようでした。私がニューヨークでいつも惹かれるのは、不潔で汚れた緊張感を生み出す場所に、膨大な量のハイ・カルチャーがあることです。しかし、それこそが特別なのです。そのコントラスト。パズル。

JW: エヴァンスにはふたりの人間が共存していたのか?あるいは、ひとりの人間だったのか?

ローリー: ビルの場合は、ふたつの人格に分かれているような感じではありませんでした。そうではなく、彼から創造性と破壊がひとつのものであることを学びました。 彼の芸術の美しさと、依存症や身体的な状態の醜(みにく)さを切り離すことはできませんでした。それらは同じものであり、互いに影響し合っているのです。

JW: エヴァンスの最大の恐怖は何だったのでしょうか?

ローリー: ビルは演奏することを恐れてはいませんでした。彼はプロフェッショナルだった。彼が私の目を見たとき、彼がどんな恐怖心を抱いていたとしても、それを私に差し出しているように感じました。不思議な体験でした。

JW: エヴァンスはマイルス・デイヴィスとの時代について色々語ってくれましたか?

ローリー:マイルスとビルは、私がビルと一緒にいた頃も連絡を取り合っていました。ある日、ビルから「マイルスに会いたくないか?」と聞かれたんです。でも、彼から聞かされた話では、私には到底無理でした。その頃のマイルスは異常な状態だったんです。隠遁して、おかしな生活を送っていたのです。女装家とつるんでいたり、変態の側近が出入りしていた。かなり破天荒な生活でビルのさらに上を行ってましたね。ビルとのことを考えると、マイルスのところに行くのは、私には無理でした。あまりにシュールで圧倒されたでしょうね。

マイルスにからかわれたり侮辱されたりしていた

JW: ビル自身はどう思っていたのでしょう?

ローリー:私は、マイルスはまともな人ではないという気がしました。ビルの話では、マイルスは意図的にあれこれ彼をからかったり、彼を連れ出して仕事を中断させたりしていたそうです。なぜマイルスがそんなことをしたのかわかりませんが、残酷ですよね。(1958年の)ツアー先では、マイルスに言葉で追い詰められたそうです。ビルは無邪気で、傷つきやすい人でしたからね。予期していなかったことでもあり。マイルスに(1958年当時)冗談で性的なことを言われたとも言ってました。「バンドに入るなら、俺とセックスしろ」というようなことを言われたとも。ビルはマイルスの言葉をまともに受け止め、いつも弄ばされていたので動揺を隠せませんでした。

JW:どうしてだろう?

ローリー:ビルは本当にいい人でした。本当にいい人たちと一緒にいるのが好きだったんです。自分が善良な人間で、いい人と一緒にいれば、そんなことは言わないものです。マイルスはそういう意味で、あまり尊敬できる人ではありませんでした。ビルほど精神的に進化していなかったのだと思います。

JW:ビルは自己中心的だったのですか?

ローリー:いいえ、まったく。彼は若い頃、自分のエゴを見つめたことがありました。こんな図を描いてくれのですよ。超自我と再構築された自我というユング派の視点からの図です。自我をこのように見ることができれば、一歩下がって自我を見つめ、幼少期の経験による条件付けを分析し、自我を再構築するために何が必要かを理解して、主体的に活動することができます。それが、ビルが一緒にいて素晴らしい人である理由です。彼は東洋哲学や(心理学者のカール・グスタフ)ユングの著作をたくさん読んでいました。ビルはスピリチュアルな面で非常に発達していたんです。

JW:いくつかの本に書かれているように、エヴァンスはマイルス・デイヴィスのグループでヘロインにはまったのでしょうか?

ローリー: そのことは聞いておりません。でも、マイルスのセクステットに入る前から中毒が始まっていたとは言っていました。自分からヘロインに手を出したと言ってました。マイルスのバンドに参加した頃だったけど、マイルスを通してではなかった。ニューヨークで、仲の良かったミュージシャンたちと一緒だったようです。当時はミュージシャンにとって、とても受け入れやすい行動形態だったのかもしれません。ビルには他にもミュージシャンの友達がいました。何人かは手を出し始めていたんですね。彼はそれに参加したんです。

JW:親しくしていたミュージシャンは誰だったんですか?

ローリー:それは言えないわ。ビル以外の人から聞いたので、その名前を口外するのはフェアではないでしょう。

晩年のエヴァンスに対しヘレン・キーンの態度は素っ気なかった

JW:エヴァンスのマネージャー兼プロデューサーだったヘレン・キーンは、彼の破壊的な面についてどう考えていたので?

ローリー: ヘレンは最後の数年は、そっけない態度をとっていましたね。 全体の状況が制御不能になっていたこともあり。彼女は私をロードマネージャーに仕立てて、クラブから現金を集める役を担わせていました。ビルの家賃やその他の請求書の支払いは、会計士に引き継いでいました。IRS(国税庁)との問題もありましたね。すべてが超現実的でした。[写真:ヘレン・キーンとビル・エヴァンス]

JW:ヘレンは対応しきれなかったのでしょうか?

ローリー:ヘレンは能力を最大限に発揮していたと思います。ビルとは長い付き合いで、いろいろなことを乗り越えてきた。でも、最後の方は、ふたりのコミュニケーションに耐え切れなくなったのです。

JW:どうしてだろう?

ローリー:ヘレンは、ビルの行く末というストレスに耐えられなかったんです。ビルも余計な経済的ストレスは必要なかったし、欲しくもなかった。最後の方は、もうこれ以上、彼と個人的に親しく接したくないと思っていたのです。[写真:キーンとエバンス】

明日は、ニュージャージーのアパートでエヴァンスがどのように作曲していたか、エヴァンスのコカイン中毒との格闘、エヴァンスからピアノを習ったときのこと、エヴァンスが競馬場での付き合いを楽しんでいた理由などについてローリーが語る。

JazzWax Tracks:
ビル・エヴァンスがローリーと付き合い始めてから最初のアルバムは、1979年8月録音の亡くなった兄ハリーに捧げられた、見過ごされているようでどこか予言的な『We Will Meet Again』(Warner Brotehrs)。これが最後のスタジオ録音。その後、エヴァンスは1980年9月上旬までライブ録音を行うことになる。

マーク・ジョンソン(b)とジョー・ラバーベラ(ds)のトリオ録音で終始するだけではなく、トランペット奏者のトム・ハレルとサックス奏者のラリー・シュナイダーが参加したトラックもある。また、2曲はソロで録音した。『We Will Meet Again』は、1981年にグラミー賞の「ベスト・インストゥルメンタル・ジャズ・パフォーマンス賞」を受賞している。

♫ローリー・ヴァホーミン著『ビル・エヴァンスと過ごした最期の18ヶ月』
https://jazztokyo.org/news/post-70363
♫ Interview Part1
https://jazztokyo.org/interviews/post-71330/
♫ Interview Part2
https://jazztokyo.org/interviews/post-72218/

Reprinted with the permission by Marc Myers/JazzWaxx;
https://www.jazzwax.com/2009/08/interview-laurie-verchomin-pt-3.html

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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