Interview #268 松井節子
Text and photos by Akira Saito 齊藤聡
Interview:2023年7月30日(日) 市川市の介護施設にて
「Hot House」は、平岡正明が「地下鉄東西線の南行徳と行徳のちょうど中間、埋立地の道路横に一軒だけ、ルート66沿いのモーテルでもはめこんだようなネオンが出ているところが、郷間和緒・松井節子のホームグラウンドだ」(*1)と評した、千葉県のジャズ磁場だ。松井節子は、開店以来ここでピアノを弾き続けてきた。今回のインタビューでも「バドを聴いたら他のは聴けない」と断言するほどの筋金入りのバッパーである。
現在は介護施設で生活する松井だが、ときおりは施設内のピアノを弾いているという。今後ふたたび松井の音を聴く機会が増えることを願ってやまない。
クラシックからジャズへ、そしてプロへ
松井節子は1937年3月20日、中国の大連に生まれた。三井物産に勤務する父親の駐在先だった。幸か不幸か、敗戦前の3歳のときに家族で日本に帰国した。そのような背景が影響していたのかどうか、松井は8歳のころからクラシックピアノを習わせてもらった。
ジャズに惹かれたのは、高校生のころ、ラジオだったかレコードだったか、穐吉敏子のピアノ演奏を耳にしたからだ。穐吉は松井の7歳ほど上で、すでに来日した名ピアニストのオスカー・ピーターソンに見出されてデビュー盤を出していたほどの存在だった。松井が憧れたのは、穐吉が女性だったからでもある。彼女は高校の音楽室や街の「貸しピアノ」で練習をした。
松井は「日本ジャズ学校」でジャズピアノを学んだ。ロサンゼルス生まれ・日系アメリカ人二世のジャズ歌手ティーブ・釜萢(歌手のかまやつひろしは息子にあたる)が開いた、日本ではじめてのジャズ専門学校である(*2)。松井は学校の勉強も優秀であり、台東区の都立白鷗高校ではつねに成績トップだった。青山学院大学に合格したが、その頃には家計が苦しくなっており、松井は進学を諦めた。そして八木正生に1年間ほど師事し、八木に「仕事をしろ」と言われたこともあって、プロのピアニストとして立った。なにしろ当時はピアニストが少なかったのだ。
米軍基地
二十代のころは米軍基地の中で演奏することが多く、キャバレーには入らなかった。もっとも長かったのが横田基地(福生市)、それから横須賀、立川など。基地の中でもヒエラルキーがあり、将校クラブでも下士官クラブでも演ったし(黒人兵は入れなかった)、もちろん普通のクラブでも。反応もギャラも悪くなかった。日本人のミュージシャンとピアノトリオを組んでスタンダードを弾くことが多かったが、ベトナム戦争の時代であり、腕利きの黒人米兵がバンドに参加したこともある。米軍基地での演奏は10年くらい続けた。そんなわけで、松井はいまもハンバーガーやコーラが好きだ。
並行して、松井は「与田輝雄とシックス・レモンズ」、「渡辺辰郎クインテット」にも在籍した。実は、テナーサックス奏者の与田輝雄がシックス・レモンズを結成したときのメンバーには穐吉敏子もいた(*3、*4)。出会うことはなかったものの、かつて憧れた存在との間には間接的な縁があったというわけだ。余談だが、のちに俳優やタレントとしても活躍したフランキー堺(ドラムス)もシックス・レモンズの結成時メンバーであり、女癖が悪いというのか、松井にもちょっかいを出してきたという。
郷間和緒
一方で、北海道から東京に移り住んできた2歳上のサックス奏者・郷間和緒も松井のリーダーバンドに参加することになる。金井英人(ベース)、武田和命(サックス)らとも共演した。そして松井が25歳の1962年にふたりは結婚する。余談だが、郷間は松井が米軍キャンプからバナナを持ってきてくれるから付き合ったんだと冗談を言っていたという(*5)。
郷間は宇都宮で生まれ育ち、兄・郷間道雄(ドラムス)の影響で早くから音楽をはじめた。最初はギターだったが、兄が同郷の渡辺貞夫と交際があったことからアルトサックスを勧めた。渡辺貞夫の弟・文男(ドラムス)は高校生のとき、道雄に教わったりもしている。たまたま「もっさん」ことベーシストの橋本静雄が自宅前に引っ越してきて、ベースの音が聴こえてくるほうに歩いてゆくと橋本の家だった。そして橋本が郷間兄弟を文男に紹介した(*6)。東京での郷間は大橋巨泉(ジャズ評論家でもあった)の眼に止まり、のちに「宮間利之とニューハード」や「原信夫とシャープス・アンド・フラッツ」にも在籍した中山進治(サックス)らと並んで「まだ荒けずりだが、素質は多いにある」と評価されるほどに成長していた。その後、北海道に流れ着き2、3年間活躍したが、仕事が無くなったことを機に東京にふたたび戻った。松井と出会ったのはその直後のことだ。(*7、*8)
松井にとって、郷間の音は唯一無二の特別なものであり続けた。それは郷間が亡くなってから15年が経とうとしているいまでも変わらない。他のサックスはと訊くと、松井の返事は「ガーンとくるのがなかった」。それでも、サックス奏者のなかでは澤田一範のことを「いちばん良い」と気に入っている。なにも付き合いが長いからではない。ミュージシャンの年齢によるちがいは「ないですね」と即答する。
さまざまな場所で
松井はさまざまな場所での演奏を行ってきた。
70年代には、テレビ番組「23時ショー」での中尾ミエやザ・ピーナッツの歌伴。赤坂、六本木、銀座のライヴハウス。神楽坂の「オ・シャンゼリゼ」では高英男の歌うシャンソンの伴奏。蛇を使うようなマジックショーにも出演した。クラブに石原慎太郎と裕次郎の兄弟がやってきたこともある。華やかで客の羽振りがよい時代であり、編成もゴージャスにホーンが入っているほうが好まれた。
ホテルニューオータニのラウンジでも演ったし、郷間が縁のある北海道にも行った。鹿児島や福島には松井ひとりで行き、しばらく滞在した。
1986年に開店した湯島の「カスター」では、10年くらいの間、毎週火曜日に郷間とのデュオ(いまの場所と異なり、当時は地下にあった)。ときどきは紙上理(ベース)や渡辺文男(ドラムス)を入れたりもした。
行徳を拠点に決めた
やがて、松井の活動は行徳近辺に落ち着いてくる。郷間と松井は新宿三丁目にあった「バードランド」に頻繁に通っていた。オーナーの「つやさん」はクスリのやりすぎで歯がすべて無くなっていた人で、彼女が行徳に「ジャズ屋えん」を開いた。
80年代のなかば、郷間はすっかりやる気をなくして4年ほど演奏を休止していた。松井は郷間の刺激になるようにとニューヨークに連れていったりもしたが、即効薬とはならなかった(なお、松井は二十代の頃にアパートを借りてニューヨークに数か月滞在し、ビル・エヴァンスの演奏を観てもいる。勝手知ったる街だったわけだ)。
行徳には「Carrot」という店もあり、演奏をしていない時期にも、毎朝、犬の散歩の途中でコーヒーを飲みに立ち寄っていた。とはいえ郷間のことだ。朝から閉店の23時まで店で飲み続け、冷蔵庫のビールはすべてなくなり、松井が郷間の耳を引っ張って帰ることもあった(*5)。そんなとき、郷間のことをミュージシャンだと知らなかったマスターの巴美輝男がジャズライヴを観に来るよう誘ったところ、かれは、出演したバンドに「汚い音」だと言い放った。
なにがきっかけになるかわからないものだ。これを機に郷間は演奏活動に復帰した。郷間が連れてきた仲間は、渡辺文男(ドラムス)、橋本静雄(ベース)、それにピアノが上野輝明(松井はこのとき入らなかった)。最初にチンドン屋の真似をしてふざけたあと、かれらが放った音にマスターはぶっ飛んだ。長いブランクがあったにも関わらずリハなしで音を出して3秒後には「ピタっと合い」、会場にいた者たちはみな鳥肌を立てたという。そして月に1度、「Carrot」に出演するようになった。
10年ほどが経った1990年代半ば、ふたりの隣に住む大井充江が「Hot House」を開いた。もうあちこちに移動したくないという松井の思いがあってのことだ。「カスター」での火曜日の演奏もそれを機に辞めた。松井は「Hot House」の専任ピアニストになり、ピアノソロも、土曜日の郷間とのデュオや他のメンバーを加えたバンドでも、ジャムセッションもこなしてきた。
2008年に郷間が肺気腫で逝去したあとも中村誠一(サックス)や渡辺文男ら大御所を呼び、個性的な演奏を続けてきた。ベースは紙上理、それにいちばん好きだった橋本静雄、小杉敏ら。だが松井は2021年末に高熱を出して寝込み、店に出てくることができなくなってしまった。
松井は音楽活動やニューヨーク滞在に加え、大井とともに毎月のように海外を旅してまわった。あらゆることをやりつくしたようだが、本人曰く、「唯一やっていないのは乗馬」。入所した介護施設でもときおり元気にピアノを弾いているし、外出して演奏する企画もある。
松井節子はずっと現役なのだ。
(文中敬称略)
(*1)平岡正明「『つわものども』の夢のあと」(『男の隠れ家別冊・ジャズを巡る旅』、三栄、2008年)
(*2)『新撰 芸能人物事典 明治~平成』(日外アソシエーツ、2010年)
(*3)青木深『めぐりあうものたちの群像 戦後日本の米軍基地と音楽 1945-1958』(大月書店、2013年)
(*4)穐吉敏子『ジャズと生きる』(岩波新書、1996年)
(*5)Carrotのマスターだった巴美輝男の証言(2023/8/18)
(*6)小川隆夫『証言で綴る日本のジャズ2』(駒草出版、2016年)
(*7)平岡正明『日本ジャズ者伝説』(平凡社、2006年)
(*8)平岡正明『毒血と薔薇 コルトレーンに捧ぐ』(国書刊行会、2007年)