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No. 219R.I.P. ジェレミー・スタイグ

ジェレミー・スタイグの思い出

ヴィレッジのスプリング・ストリート、リッチー・バイラークのロフトに着くとルーム・ナンバーの横のブザーの下に小さな張り紙がしてある。「レコーディング中につき、ブザーお断り」。録音の真っ最中なのだ...。しばらく様子を伺っていたが、意を決してブザーを押す!万一、ベスト・テイクが進行中にブザーを鳴らしてしまい、テイクがボツになってしまったら...。いやいや、「東京から録音の立会いに来たのだから...」と、自ら納得させつつ...。

エレベーターのドアが開くと、笑みを浮かべたリッチーがハグをしてくる、次いで、エンジニアのデイヴィッド・ベイカーが...。歩を進めて部屋の中に入るとジェレミー・スタイグがシリアスな顔をやや下に向けながらくぐもった声で「ハイ」と挨拶しながら手を差し出してくる。もしかしたらブザーでセッションを中断させてしまったので不機嫌なのか、と懸念したが、後々、それがジェレミーのスタイルだと分かる。プレイバックを聴かせようか?と気を使うデイヴィッドを制して、リッチーの「ブレイクにしよう」に乗り、近くのレストランに出かける。
リッチーとは1973年来日のスタン・ゲッツ・カルテット以来。この時のゲッツは不調でハイチェアに腰を掛けての演奏に終始。レコード会社の注目は、リッチー、ホランド、ディジョネットからなるリズム隊に注目が集中した。各社競合の結果、プロモーターの裁定でトリオでのレコーディングは取りやめ。われわれは、リッチー抜きのデイヴ・ホランドとジャック・ディジョネットのデュオ・アルバム(『タイム&スペース』)を制作することにしたのだった(ちなみに、このトリオでは20年後の1993年にNYでついに宿願を果たすことになる『Trust』Transheart)。その後、リッチーとのコンタクトが続き、やっとランディ・ブレッカーまたはジェレミー・スタイグとのデュオの腹案が届いたのだ。

すでに3年が経過していた。ビジネス的にはランディのフリューゲルホーンとのデュオに食指が動くところだが、ビル・エヴァンス・トリオとの衝撃的な『What’s New』(Verve) の残像が強く、あっさりジェレミーとのデュオを選択してしまったのだ。市場性よりも嗜好性を優先しがちなジャズ・ディレクターが陥りやすい陥穽の典型だろうか。

デュオということもあり、このレコーディングでのジェレミーの音楽性はよりピュアでアーティスティックな側面が強く反映されており、ジェレミーの精神的な成長をうかがわせるに充分だった。ジェレミーから送られてきたドローイングを見て驚いた。コンテンポラリー性の強いそのアブストラクトなドローイングはジェレミーの複雑な心象風景以外のなにものでもなかったからだ。
今から十数年前のことだ。何気なく見ていた神奈川TVのニュースにジェレミーが登場したのだ!来日中のジェレミーが横浜の書店のギャラリーで演奏するという。信じられぬ気持ちで駆けつけたそこにたしかにジェレミーはいた。昔と変わらぬやや神経質そうな面持ちを見せながら。ギターのヴィック・ジュリスとの会話を嗜むジェレミーが...。
本誌が創刊されて間もない頃で、ドレッシング・ルームに引きあげるジェレミーを追ってインタヴューを申し込む。創刊5号か6号に掲載されたライヴ・レポートとインタヴューは、サーバーを移行する際にウェブ・デザイナーの不手際でデータを消失、手元のハードディスクにも残念ながらアーカイヴは保存されていない。唯一、鮮明に覚えていることは『What’s New』に関する質問への答え。「あの、セッションは計画されたものではなかったんだよ。録音の前の晩、エディ(ゴメス)に呼ばれて、トリオのライヴを聴きに出かけたんだ。エディがビル(エヴァンス)に紹介してくれて、フルート吹きだ、と言ったら、明日、録音があるからスタジオに来い、ということになって...」。
ジャズらしい傑作誕生にまつわるエピソードだと思う。

稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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