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R.I.P. 小杉武久No. 247

追悼:小杉武久

text by Takeo Suetomi 末冨健夫

 photo by高嶋清俊@国立国際美術館  2009年6月13日

1938年3月24日生まれの小杉武久氏が、10月12日食道ガンで惜しくも死去されました。70年代までの歩みをざっと見て行きましょう。東京藝術大学在学中の60年に即興音楽グループ「グループ・音楽」(小杉武久、塩見千枝子、柘植元一、戸島実喜夫、刀根康尚、水野修孝)を結成。翌年、「即興音楽と音響オブジェのコンサート」を草月会館で開催。この時、一柳慧と出会い、フルクサスを紹介されて、イヴェント音楽を作り始めた。63年「読売アンデパンダン展」に作品を出品し、風倉匠とパフォーマンスを行った。64年武満徹、一柳慧と共に「Collective Music」を結成。同年「マース・カニングハム・ダンス・カンパニー」が初来日し、ジョン・ケージ、デヴィッド・テュードアらと共演している。65年渡米し、「ニューヨーク・アヴァンギャルド・フェスティヴァル」に出演。2年間ニューヨークを中心に活動を行った。67年渡欧し、各地のフルクサスと接触を持ち、コンサートを行っている。69年塩見千枝子、刀根康尚と「インターメディア・アート・フェスティヴァル」を開催。同年末、小池龍、土屋幸雄、木村道弘、永井清治、長谷川時夫、林勤嗣と共にマルチメディアの即興グループ「タージ・マハル旅行団」を結成。ステーション‘70で第一回公演。70年12月大磯海岸で夜明けから日没までコンサートを行った。71年ストックホルム現代美術館で開催された「ユートピア&ヴィジョンズ展」に招かれた。ヨーロッパ各地でコンサートを行った後、翌年5月、中近東~インド・タージ・マハルの旅をした後帰国した。その模様は近年DVDとなっている。その後グループは、76年まで続いている。77年ニューヨークに移住。ジョン・ケージが音楽監督を務めたマース・カニングハム・ダンス・カンパニーの専属音楽家となった。1970年代末からは音を基点としたオブジェやインスタレーションなども発表している。2017年12月9日~芦屋市立美術博物館で「小杉武久 音楽のピクニック」と題された個展が開催された。

小杉さんは、世間一般では「現代音楽の作曲家」と分類されるかもしれない。「作曲家」の作品の分類と言えば管弦楽曲、器楽曲、声楽云々と振り分けられることだろうが、小杉さんの場合はそれは不可能だ。「現代音楽」の主流からは大きく離れた存在と言ってもいい。だが、その存在の大きさ、重みはそんな「作曲家」で分類出来る人達のスケールを大きく超えている (はみ出している?)。

 

私が「小杉武久」を強く意識しだしたのは、1975年録音の『Improvisation sep.1975』というLPからだった。当時、私は田舎の高校生。すでにジャズ、ロック、民族音楽、現代音楽を聴いていた。LPを買うお金はせいぜいひと月に1枚分。その他の音楽を聴く手段はラジオだった。当時は、今と違ってFMでは音楽番組が多種多様にあった。ジャズ然り。クラシック然り。ポピュラー音楽然り。その中でも、上浪渡の「現代の音楽」と小泉文夫(小杉さんは藝大時代に習っている)の「民族音楽」は、エアチェックもしていた。『Improvisation sep 1975』は、小杉さんと一柳慧、マイケル・ランタによる即興演奏で、リリースしたのは「ミュージック・リベレーション・センター・イスクラ」という小原悟さんが主宰する小さなサークルだった。私は、上京後にこの「イスクラ」に参加することになった。当時頻繁に行っていた新宿のジャズ喫茶DIGでメンバー募集の小さなチラシを見付けて、このLPをリリースしたところとは気付かずに電話をしたのだった。参加して、LPを希望するもとっくに完売していたが、かろうじて小原さんが持っていたLPを1枚譲ってもらったのでした。即興・Improvisationで浮かんでくる演奏とはまるで違っていた。Free Jazzはすでにどっぷりと馴染んでいたが、今まで聴いたことのない「即興演奏」に一気にはまり込んでしまった。当時、すでにタージ・マハル旅行団のレコードは店頭には無くて、聴こうにも聴けないでいた。Catch Waveはすぐに手に入れた。そしてなんとかタージ・マハル旅行団の音源はカセットテープにダビングしてもらって聴くことが出来るようになった。もう、むさぼるように聴いたものだった。小杉武久の文字を見付けると、本、雑誌をとにかく買っては何度も読みまくった。私の感性の原点は、この時形成されたと言ってよい。

そんな私の周りがいつの間にか小杉さんに関係のある人達に取り囲まれるのも時間の問題だった。今いっしょに本の出版やらCDのプロデュースをしている河合孝治さんとは、当時からの付き合いになる。河合さんに紹介されたのが、なんと元タージ・マハル旅行団のメンバーだった永井清治さんだった。当時の永井さんは永井邦治と名乗ってシタールを演奏されていた。私もシタールを持っていたので、少し教えてもらったこともあった。小杉さんの音楽教場に参加されていたイースト・バイオニック・シンフォニア、そしてGAPの多田正美さんには、カフェ・アモレスでパフォーマンスをしてもらっている。カフェ・アモレス時代は、吉沢元治さんのライヴを頻繁に行っていたが、吉沢さんが金大煥さんと「友惠しづねと白桃房」の大阪公演に出演されるので、大阪まで見に行くことになった折り、吉沢さんが大阪在住だった小杉さんを私に紹介すると言うので嬉しかったのだった。ただ会うのではなくて、防府まで来ていただきカフェ・アモレスで吉沢さんとのデュオ・ライヴをしていただくための交渉だった。同じ即興演奏とは言え、吉沢さんと小杉さんとでは向いている方向が相当違っていることもあって、共演は断られてしまった。無理だろうとは思ってはいたが残念だった。しかし、この時一緒に甘味処でところてんを食べたこと(ところてんに黒蜜をかけるのには驚いた。酢醤油が当たり前かと..)、いっしょに地下鉄に揺られて色々な話が出来たことは、一生忘れられない思い出になっている。もちろん、小杉さんのライヴはイチ聴衆として何度も見ている。大阪から帰った後も、お付き合いさせていただき、直接会うことはなかったけれど、本を送っていただいたり、電話をいただいたり、こちらからもちゃぷちゃぷレコードでリリースしたCDを送ったりと亡くなるまで交流をさせていただけたことは光栄でした。最後の個展「音楽のピクニック」では、ささやかなれど出品の協力も出来た。ガンだったことを公表はされなかったけれど、私は聞いていたし、結構プライヴェートな話も耳にしていたので、亡くなられたニュースが飛び交った時は、とうとうこの時が来たかと体の力が抜けたものでした。今頃は、あの世で、ケージやテュードア、吉沢さん、阿部薫らと楽しそうにされていることでしょう。ご冥福をお祈りいたします。(末冨健夫:Chap Chap Records オーナー/プロデューサー)

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