ミッシェル・ルグランとマイルス
多大な功績を残したミッシェル・ルグランが86歳で他界した。今月26日(2019年1月26日)のことだ。3年前、2016年11月にインタビューがダウンビート誌に掲載された。この記事を書くにあたり、参考・引用したのはそのインタビューである。また、カバー写真はダウンビート誌の記事から拝借した。
「ぼくの最初のアルバムはマイルスとで、マイルスの最後のアルバムはぼくとだったんだ」。ルグランはダウンビート誌のインタビューで語った。グラミーを5つ受賞した作曲家、ピアニスト、歌手としても成功を納めたルグランがここで言っているのは、前者は1958年発表の『ルグラン・ジャズ』、後者はマイルスの1990年録音の、映画「ディンゴ」のサウンドトラックだ。ただし実際には1991年初頭録音の『Doo-Bop』の方が「ディンゴ」より後だ。
アメリカの依頼で1954年に制作した低予算アルバム、『I Love Paris』の大ヒットの後、コロンビアレコードはルグランに完全サポートでアルバム制作のオファーを出した。それに対しルグランはマイルスとコルトレーンを筆頭に、ベン・ウエブスター、アート・ファーマー、ハービー・マン、ジミー・クリーブランド、アーニー・ロイヤル、フィル・ウッズ、ハンク・ジョーンズ等のお気に入りの大物ミュージシャンを並べ立てて要求したところ二つ返事で受け入れられ、彼は1958年にニューヨークに飛んだ。
「マイルスは難しいヤツだから気をつけろ、とミュージシャン仲間から警告されていた。マイルスからスタジオ予定日より前に会いたいと申し出があり、ピアノで収録曲を弾かされた」。マイルスは “Fine, OK, good.” と言ったそうだ。この言い方は言わば許しが出た程度で、賞賛された訳ではないだろう。マイルスはわざと15分遅れてスタジオに到着し、入り口に佇んで様子をうかがっている。もしバンドのサウンドを気に入れば入って来てトランペットを出す。もし気に入らなければ出て行き、二度と戻って来ない。26歳のルグランには恐怖さえ感じたであろう。結果は、当時のマイルス・バンドのメンバーであるコルトレーン、ポール・チェンバース、ビル・エヴァンスを引き連れて来たマイルスは様子を吟味した後、スタジオに入り楽器を出していきなり吹き始めたそうだ。レコーディングセッションが終わるとマイルスはルグランの耳元で「オレの曲の解釈はどうだ?」と問い、それに対してルグランは、「マイルス!あなたにどう演奏してくれなんてこと言うわけないでしょう。ぼくの最初のジャズアルバムに参加してくれてるだけで天にも昇る気持ちですよ。あなたは天才で空をも開く人だ」と応えたそうだ。
このアルバム、実はマイルスとマイルスバンドが参加しているのは4曲だけだ。トラック1<The Jitterbug Waltz>、トラック6<Django>、トラック7<Wild Man Blues>、そしてトラック9<’Round Midnight>だ。実は筆者はこのアルバムをかなり昔から所有しているものの、それほど聴き込んではいない。ルグランのアレンジはやはり映画音楽の手法が織込められ、どの曲も筆者の頭に架空の映像が浮かんでしまう。いや、それだけにもちろんルグランは偉大な映画音楽作曲家であったことの証明なのだが、どうしてもギル・エヴァンスとマイルスのコラボと比べてしまうのだ。
さて、『ルグラン・ジャズ』の録音が終わると、マイルスは自分のニューポート・ジャズ・フェスティバルのギグに付いて来いとルグランに言った。主催者のジョージ・ウェインとの晩餐の席のことだ。ウェインがマイルスに、デューク・エリントンの曲を演奏するのを忘れないでくれと言うと、「オレはエリントンの曲は大嫌いだ。絶対一生エリントンの曲なんて演奏なんてするもんか」と言ったらしい。もちろんこれはマイルスの本心ではないだろう。マイルスの1974年のアルバム、『Get Up with It』に収録されている<He Loved Him Madly>で知られているようにマイルスはエリントンを深く敬愛していた。だがこれに対しウェインは「演奏してもらわなくては困る。契約書にちゃんと書いてあるだろう」と念を押した。結果マイルスはステージに上がったものの最後までトランペットを口にさえ当てなかったらしい。完璧ボイコットだ。ルグランはこういうマイルスに魅せられたのだと語る。契約違反をしたマイルスは訴えられたのだろうか、興味深いところだ。この1958年の後は8年後の1966年まで出演していないので、確執はあったのかも知れない。
1990年の初頭、マイルスはいきなりルグランに電話を入れ、“Michel, you need to bring your fucking ass to Los Angeles.” と告げた。あまりにもキツいスラング(筆者はどうしてもF-wordに慣れない)で訳せないが、すぐにロスに来いという意味だ。ルグランは全て投げ打ってそれに応じた。再会すると、談笑に暮れ、プールで泳ぎまくり、おおいに飲みまくったそれは土曜で、その次の水曜にはスタジオ入りだ。「マイルス、そろそろ一緒に曲を書き始めなくちゃいけないよ」とルグランが言うと「あんな映画なんてクソクラエだ」とマイルスは悪態をついたそうだ。この映画は音楽が先に出来ている必要があったので遅らせることが出来ない。そこでルグランはホテルに戻り、全てを書き上げ、水曜にスタジオに入って全てをマイルス抜きで録音し終え、木曜にマイルスを招いて録音した。マイルスは「ミッシェル、おまえが天才だってことはわかってたぜ。」とルグランを賞賛した。「ぼくはマイルスが大好きさ。彼は天才で、強力で、そしてオープンな人間だ」とルグランは語る。
だが筆者はこのアルバム、『Dingo』を聴くのがつらい。1958年の『ルグラン・ジャズ』と違いこれは正式な映画音楽で、まさにルグランの手法が冴え渡り、映画を観てから21年も経っているのにそれぞれの曲がマイルスの登場シーンを思い出させてくれるのはすごいことだし、それを嫌っているのではない。実は筆者はこの頃のプロジェクト全てがマイルスを死に導いたと信じているのだ(1991年初頭の『Doo-Bop』だけは例外)。1990年に録音された『Dingo』、翌1991年の夏に行われたクインシー・ジョーンズとのモントルー、パリでの旧メンバーたちとの同窓会コンサートだ。少なくとも5年先を先導し、「オレは博物館に展示されている音楽なんぞ演奏しない」と言ってあれだけ忌み嫌っていた古いレパートリーを、マイルスは演奏したのだ。ライブアルバムはまだリリースされていなかったが、テレビでコンサートの模様を観て、ああマイルスが死んでしまうのではないか、と胸が苦しくなったのを鮮明に覚えている。だからこの『Dingo』3曲目、映画ではかなり重要な砂漠に飛行機が降り立ってマイルスが演奏するあのシーンの<Concert On The Runway>で、60年代に演奏していたことをマイルスに演らせたルグランを恨んでしまうのだ。加えて、このアルバムでマイルスが吹くべきトラック、例えば<Club Entrance>などはチャック・フィンドリー(Chuck Findley)が吹き、反対にマイルスが吹くべきでないトラックをマイルスが吹いているところがどうにも解せないのが、筆者がこのアルバムを受け入れられない理由なのだ。