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R.I.P. リー・コニッツNo. 265

カメラマン 米田泰久氏が語る素顔のリー・コニッツ

2020年4月20日 via iPhones

聴き手:稲岡邦彌 (Jazz Tokyo)

JT:米田さんは日本人でいちばんコニッツと会っていると思いますが、今日は米田さんが知るコニッツの素顔を語っていただきたいと思います。最初に会ったのはいつですか?

米田:1972年、NYのセントラル・パーク・ウェストのコニッツの自宅でした。カメラの先輩の阿部克自さん(故人)とピアノのディック・カッツの紹介で。カッツは、コニッツのトリオでアルバムを残していますね(註:『The Lee Konitz Trio/Oleo』Sonet 1975)。

JT:コニッツはひとりでしたか?

米田:いや、奥さんのタビアと愛犬のジンゴがいました。奥さんは女優でとても美しく、発音がきれいでしたのでシカゴ訛りの聞き取りにくいコニッツの話を通訳してくれました。ジンゴは大きなセントバーナードでコニッツは彼の名前をとったアルバムを創っていますよね(註:『Lee Konitz & His West Coast Friends/High Jingo』Atlas 1982)。

JT:相当可愛がっていたんですね。

米田:あるとき、コニッツとジンゴの散歩に出かけたんです。近所の小さな公園でコニッツがジンゴのリードを離したんです。違反なのでポリスが来て調書を取られた。名前を聞かれたコニッツは「フィル・ウッズだ」と答えるんですよ。真面目な顔して。僕が Phil Woodsと書いて、コニッツがサインした。あとでヴィーナス・レコードの原さんがコニッツからこの話を聞かされて僕に「コニッツから面白い話を聞いたよ!」って言うから、「それは俺だよ!」って大笑いになりました。

JT:警官がジャズファンだったら大変なことになっていた。彼は、1927年、オーストリアとロシア系のユダヤ系の両親の間にシカゴで生まれていますね。

米田:そうです。だから、シカゴのクラブで仕事が入ったときは嬉しさのあまり40分くらいジョークを言ってたらしいですね。なかなか演奏を始めなかった。そうしたら客が怒って半分以上帰ってしまった。そんなことを面白そうに話していました。

JT : よほどシカゴが好きなんですね。

米田:シカゴではもうひとつ面白い話があって、ギグの前の晩に大雪が降ってクラブが雪で埋まってしまった。ギグは中止になったのだけどクラブに出かけてみたら本当に1階部分が雪に埋まってしまって、2階の窓から入ったんだって子供みたいなことを言ってましたね。

JT:コニッツの家でミシェル・ペトルチアーニに出会ったそうですね。

米田:僕はNYへ着いたらまずはコニッツに電話を入れて着いたことを知らせるのですが、75年だったか、電話をしたらすぐ来い、と言うんです。玄関を開けたらコニッツが眼鏡をかけた小さな男性を抱きかかえて出てきたんですね。ミシェル・ペトルチアーニと紹介されて彼も今日NYに着いたばかりでした。コニッツに写真を撮ってくれと言われて何枚か撮ってすぐ焼いたんですね。見せにいったら奥さんのタビアに全部取り上げられてしまって手元には一枚も残っていないんです。彼らはのちにデュオでアルバムを制作していますね。(註:『Lee Konitz & Michel Petrucciani/Toot Sweet』OWL 1982)。

JT:何年頃でしたか?

米田:1975年の6月だったと思います。

JT:70年代は時々米田さんとNYで出会いましたね。米田さんは雑誌の取材で僕はレコーディングで。

米田:そうでしたね。75,6年だったかな。NYに到着した日の晩に自宅の近くのクラブに出ている、というので評論家の岩浪洋三さん(故人)と出かけたんです。ホテル・カーライルの近くの10数人でいっぱいになる地元のファン向けのクラブでした。そうしたら、岩浪さんが演奏の途中で眠ってしまった。終演後に、岩浪さんはコニッツから「僕の音楽はゆりかごかね?」と言われてました。

JT:時差ボケで?

米田:いや、当時はNY直行便というのはなくて、ホノルルからサンフランシスコ経由で丸1日かけてNY入りしたんですね。機中では一睡もしてなかったんです。

JT:ブラックアウト(大停電)を経験しているんですよね。

米田:77年の7月でしたね。コニッツから「不自由しているだろうから家においで」と声をかけられて...。さすがに不安だったのですぐ出かけました。ジム・ホールも呼ぼうって連絡したけど応答がない。別荘に避難してたそうです。本当に優しくて気の付く人なんですよ。

JT:コニッツと音楽の話はしましたか?

米田:スタン・ゲッツのことで叱られたことがあります。エイブリー・フィッシャー・ホールのスタン・ゲッツに誘われた時です。「ゲッツは興味がないから」と断ったんです。そうしたら、「何を言ってるんだ。白人のテナーではゲッツは最高だ。聴かないとだめだよ!」と叱られて。

JT:ゲッツは嫌いでしたか?

米田:ボサノヴァのゲッツはね。コニッツに言われて古いゲッツを聴き直しました。

JT:他には?

米田:復帰したマイルスをやはりエイブリー・フィッシャー・ホールに聴きに行きましたね。僕は取材だったから席は別でしたけど。マイルスは1セット、40分くらいしか演らなかった。終わってからコニッツを探しに行ったらハービー・マンと立ち話をしてました。

JT:コニッツとハービー・マンの取り合わせは意外ですね。ところで、米田さんは相当なレコード・コレクターですが、もちろん、コニッツのレコードは多いんでしょうね。

米田:EPから10インチ、12インチ(LP)含めてほとんど持ってます。アメリカの中古店で買ったのもありますが、コニッツの自宅に出かけるたびに日本盤とオリジナル盤をすり替えてました(笑)。

JT:EPまで?

米田:たとえば、リー・コニッツ名義の最初のPrestigeのEP盤 (1950) 。PrestigeのEP盤はサンフランシスコの中古盤店で入手したのですがコニッツも驚いていました。早速、サインをもらいました。

JT:10インチはどうですか?

米田:Roost盤は貴重でしょうね。知られているのでは、ジョージ・ウェインのStoryville盤ですね。EP、10インチ、12インチと揃えています。

JT:ストーリーヴィルの3点は僕もよく覚えています。ファンの間では「海」、「ハーバード・スクエア」、「ライヴ」の名前で呼ばれています。ジョージ・ウェインのStoryvilleをロンドンのアラン・ベイツが買い取って、旧トリオレコードでリリースしました。コレクターからは恨まれましたね。とくに売り物にしていたジャズ喫茶からはね。でも、門前仲町の高野さんなどはオリジナル・ジャケットを快く貸してくれましたよ。近々、ミューザックからこの3枚にアウトテイクを加えたコンプリートがCD二枚組でリリースされるようですね。
来日コンサートはどうでしたか?

米田:最初に聴いたのは「ニューポート・ジャズ・フェスティバル・イン・ジャパン」。1976年だったかな、厚生年金会館。正直なところ、あまり印象に残ってません。

JT:僕も聴きに行ったけど、むしろアーチー・シェップの方に興味がいってたかな。ガトー・バルビエリもいたしね。最後はどうですか?

米田:東京JAZZの2回ですね。自分のカルテットで出演した時。

JT:トーマス・モーガン(b) を連れて来た時ですね。

米田:終わって、楽屋に挨拶に行ったけど、僕のことを思い出せなかった。とっさにジンゴの名前を出したけど、あれほど可愛がっていた愛犬の名前も知らなかった。認知症が始まっているなと、とても寂しくなりました。

JT:最後は2017年の「ジャズ100年」プロジェクトですね。

米田:そう、挟間美帆のね。この時は、演奏の途中でステージを降りようとして、慌ててマネジャーが引き止めた。それから2曲かな、吹きましたけど。

JT:生誕90周年でしたからね。本当に長い間ご苦労様でした、という感じでしたね。最後に、米田さんのトークに共通するようなリーのユーモラスな側面を捉えたビデオをリンクしておきましょう。


稲岡邦彌

稲岡邦彌 Kenny Inaoka 兵庫県伊丹市生まれ。1967年早大政経卒。2004年創刊以来Jazz Tokyo編集長。音楽プロデューサーとして「Nadja 21」レーベル主宰。著書に『新版 ECMの真実』(カンパニー社)、編著に『増補改訂版 ECM catalog』(東京キララ社)『及川公生のサウンド・レシピ』(ユニコム)、共著に『ジャズCDの名盤』(文春新書)。2021年度「日本ジャズ音楽協会」会長賞受賞。

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