「ゲイリー・ピーコックを探せ」〜半世紀前のラジオ番組より〜 musical director 河内 紀
text by Kaname Kawachi 河内 紀
1969年10月20日と10月27日の2回、TBSラジオからゲイリー・ピーコックについてのドキュメンタリーが放送された。毎週日曜の深夜に放送されていた30分のレギュラー番組『ドキュメント日本』の枠で、一本目が「ゲイリー・ピーコックを探せ」、2本目が「私の名前はゲイリー・ピーコック」というタイトルだった。
当時、私はこの番組を含め複数の番組を担当しており、その中にはモダンジャズ専門の番組もあった。深夜放送開始直前でラジオ局内の状況は錯綜しており、音楽・ドラマ・報道などに分かれていた組織が解体され、ミキサー・音響効果班などとも融合した“ラジオグループ” が「合理化」の名のもとに作られつつあった。
これは、そんな時期だからこそ生まれた番組だったのかもしれない。モダンジャズやラジオドラマのディレクターだった私が、組織の枠を越えてドキュメンタリーも手がけることにほとんど抵抗はなかったからだ。
ジャズ・ピアニストの菊地雅章に「ゲイリーが日本に来てるらしいよ...」
と聞いたのも、ジャズ番組の収録の合間だった。収録のときだけではなく、深夜のスタジオを練習場所として、毎晩のように“遊びに” 来る若手のミュージシャン(同世代の富樫雅彦、日野皓正などなど...)がいた。
「ピットインにも来たってさ」。「そう、ジャンクで演奏したらしいぜ!」。
ゲイリーが住んで居るのは、どうも、山手線の目白駅近くではないかと教えてくれたのは当時菊地カルテットのメンバーのひとりだった、ベーシストの池田芳夫君だった。
こうして、まず、ゲイリー探しの取材が始められた。目白駅近くにあった「ピーコックストア」のレジでの聞き込みから始まり、法務省入国管理局、交番、銀行、不動産さんなど、次々に訪ねて廻った。それが「ゲイリー・ピーコックを探せ」としてまとめられ、2本目が、やっとのことで探し当てたゲイリーとのインタビューと、彼の音楽を重ねた「私の名前はゲイリー・ピーコック」となった。
ゲイリーの住んでいたのは新宿区西落合一丁目の二階建て木造アパート「小鳩荘」。長身の身体を折るようにして彼はドアを開けた...。
(放送では、ナレーションや音楽を加えて構成されているが、ここでは、インタビュー部分のみを抜き出して再録した)
《ゲイリー・ピーコック/インタビュー》
■ ゲイリーさん、あなたが日本にいらっしゃると聞いて、ずいぶん長い間あなたを捜していたんです。
G(ゲイリー・ピーコック)(日本語で)アア、そうですか...、はじめまして、どうかよろしく。
■ 日本の若いジャズメンたちも、噂を聞いて、あなたに会いたがってます。
G アア、そうですか...。
(以下、英語)私が日本へ来たのは、別に日本のジャズを聴こうと思って来たのではありません。また、特別ジャズを演奏するつもりもありません。私は日本語を習いたかっただけです。だから、日本人と話しをしたい。私は日本にいるのだから、日本人になるべきです。とにかく、日本語を習おうと決心したので、外に出て人々と話をするようにしています。難しくてなかなか覚えられませんが。
■ 一番はじめに覚えた日本語は、なんでしょう?
G (日本語で)ミゾ..? ミソ、ミソ汁と、玄米と野菜...。
N (ゲイリーと同居中の女性/ナンシー・ブラウン)(日本語で)毎日それで食べてます。
■ これが、玄米の..
N ..ええと、これはゴマバターと、この黒いのも、ゴマバターです。
G(以下、英語)アメリカ人は長い間、肉と砂糖ばかり食べてきたから、野菜が足りないし、化学的な薬を使ったりして食べ物の質が悪いから病気になるんです。多くのアメリカ人がクレイジーなのはそのためです。正しい食事を知らないからなんです。アメリカでは現在たくさんの人々が、玄米とミソ汁という食事法をとっています。
■ ところで、なぜ、そんなに日本語を習いたいんですか?
G ..うん..、英語でいいですか? どうもスイマセン。“I’m general to study culture, Zendoと、Kendo と、Aikido と..”
■(うなずく)ああ、禅と合気道と...
G(以下、英語)それから、つまり、日本の伝統的な文化を学びたいからです。西洋と東洋の...精神は、相反するものです。私は、日本の精神の中からたくさん学ぶことがあると思っています。人間は食べ物をとらなくては生きられません。食べるものが悪いとその人も悪くなります。アメリカ人は長い間、肉と砂糖を食べてきました。それで怒りっぽいのです。
東洋の人は、野菜と穀物を食べて、とてもとても心が静かです。だから、日本に来て、もっと良く見たかったのです。東洋の精神と西洋の精神は混ざらなければいけない。でないと、また、新しい戦争が起こったりする世界が続くことになってしまいます。
■ ジャズプレイヤーのゲイリーさんと玄米という取り合わせは奇妙な感じがするんですが...?
G アー..(日本語でしゃべろうとするがうまく行かず、英語になり)私が、初めて日本に興味をもったのは5年前です。5年前、私はジャズを演奏していました。それまで10年間も毎晩演奏していたのです。でも、ジャズをやっているとき、いつも...ほとんど、いつもと言っていいくらい、決して幸せではありませんでした。時々、自分が判らなくなるのです。突然、自分がどこかへ行ってしまう...、見失ってしまうんです。そこで、またジャズをやるんです。この自覚、意識の仕方はとても非人間的だと思います。だって、そこでは、もはや自分の考えも、音楽までも無くなってしまうように思えるからです。
それに、今とは違う食べ物、砂糖とかドラッグです。LSDとか、そうしたものを使って、それで5年前にバタッと倒れてしまったんです。
そのとき友人のひとりが、玄米とミソ汁のことを書いたオオサワ先生の本を私に読ませたんです。その頃、私の身体は弱り切っていたので、この方法に従ってみることにしました。そうしたら、ほとんどすぐに身体の調子が良くなり、気持もイライラしなくなりました。その代わり、音楽への興味も無くなってしまったようでした。
(日本語で)ワカリマシタカ?(小さく笑う)
G 私のジャズ仲間たちは、なぜ演奏しないのかと怒りはしましたけれど、この5年間は、ときたまレコードの録音とか、TVショーとか、クラブに出演したりはしましたが、普段は演奏しませんでした。音楽を毎日毎晩演奏したいと思わなくなったんですね、
■ 確かに、ゲイリーさんにとって、東洋の思想を学ぶことが大切なことはわかりますが、私達も実はあなたの仲間たちと同じ意見なんです。
ぜひ、あなたの演奏を聴きたいのです。なぜ、演奏しないのでしょうか?
G とてもおもしろいことなんですが、5年前、私が玄米に興味を持った時、私はジャズをやめたつもりなど全くありませんでした。
今から10年程まえ、1960年当時、私がロサンゼルスで演奏していた頃一緒に演奏していた仲間と調子が合わなくなって、ジャズがつまらなくなって、止めてしまったことがあります。その時は、なにか、寂しくつまらない気持になったものです。しかし、今度はそんなことは全くありませんでした。
■ それでも、あなたがこの5年間、時々録音したというレコード、また、アルバート・アイラーと一緒に演奏したレコードなどは、日本のジャズフアンに大変な感銘を与えています。ゲイリー・ピーコックは、今でも偉大なジャズ・ミュージシャンなのです!
G(恥ずかしそうに笑いがら日本語で)アア、そうですか。ワカリマセン!
(英語で)人によっては立派だとも言うし、違うという人もいます。私自身は偉大だなんて思ってもいません。私よりも素晴らしい人はたくさんいます。
...アメリカのジャズメンたちの話をしましょうか。ジャズ・ミュージシャンの多くは、貧しいし、ドラッグを使ってるし、長い時間働く。夜の9時から朝の4時まで毎晩ですよ。その生活が今のアメリカのジャズプレイヤーの現状を象徴しているように思うんです。
アメリカのジャズプレイヤーのほとんどは、一流音楽家になれる優れた才能を持っているのに、みんなこうやって才能をすり減らしてしまうのです。
人間として優れた才能を持っていても、いったん、プレイヤーになってしまうと、プレイヤーであること、それだけになってしまうんです。人間的なもの、その全てを含めた演奏が出来なくなってしまうんです。
とにかく、私はアメリカにいて、「幸福だ」というジャズ・ミュージシャンに会ったことはありません。わずらわしさ、欲求不満、あせり、いらだち...、私の知っているジャズ・ミュージシャンは、一人として幸福とはいえません。
音楽の目的とは、いったい、何なのでしょう...?
音楽には、いったい、どんな役割があるのでしょうか...?
アメリカで現在演奏されているジャズは、単なる娯楽なんです。考え方としても、テクニックの面でも、人々を強く惹きつけるというのではなく、おざなりの、その場限りの演奏に終始してしまうんです。
世界中の誰もが幸福になりたいと思っているはずです。誰だって、幸福を求めている。求めようとしない人がいるなら、その人は死んでいるか、もう幸福なんでしょう...。全ての人が幸福を求めている、そんなときに、もし、音楽がセンチメンタルなだけのものとして留まっていたら、そこには何の進歩もないでしょう。
演奏をやめてから5年間、私はアメリカのジャズをずっと聴いてきたけれど、何の刺激もうけませんでした。殆どの演奏者が気分だけでやっているからです。
もし、音楽をやるとするなら、新しい生き方がなければなりません。それがなくては、どんな音楽も演奏出来ないのです。それは、何かしら人々の心を高め、そして人々を幸福にするような、そんなものなのです。
...でも、これは難しい。なぜって、音楽は基本的に感情的なものであり、フィーリングに頼らざるを得ないものだからです。...でも、それだけのものでしかないのなら、もういいじゃないか。
5年前までは、私はただ優れたテクニックを持った音楽家になろうと思っていた。...夢が小さすぎたんですね...。
■ ご自身のことを、もう少し話していただけますか? あなたはどうして音楽家になったのでしょう?
G 私はアメリカ北西部の小さな町で生まれ、森を走り廻ったり、魚釣りをしながら大きくなりました。
11歳になったとき、乾物屋をしていた両親に勧められ、ピアノを練習し始めました。しばらくして、学校のバンドに入り、たまたまトランペッターがいないので、トランペットを吹くことになったのですが、あまりひどい音を出すので、ドラムをやれと言われてしまいました(苦笑)。
高校に入ってもドラマーとして演奏を続けていましたが、高校3年になったとき、このまま音楽を続けるか、それとも、好きだった科学や数学の知識を活かして建築家になろうか、ひどく迷っていました。そしてそのとき、とても興味深い経験をしたんです。校長先生に勧められて、卒業生のクラスと一緒に演奏したんです。その演奏の最中に...、どう言ったらいいのか...、演奏をしていたら、ちょうど幻のようなもの...、とにかく、光、異様な光、太陽の輝きのような、とても強烈な光が見えたんです。自分のあらゆる感情が沸き立つような不思議な光が私を貫いたんです。
その瞬間、音楽家の私が誕生したんです。
(番組ではここで、シタール奏者・ラビ・シャンカールの「炎の夜」を聞かせている)
■ ラビ・シャンカールとの共演以来、あなたの東洋に対する興味がますます強まったということですが、東洋の思想とあなたの音楽との関係について話していただけますか?
G はっきり判っていないんですが、私が今まで、「これがジャズだ」と思い込んでしまっているものを、東洋の考え方は変えてくれるという気がしてます。
ただ、東洋の考え方が直ちに「音楽の表現とは何か」を明らかにしてくれるかどうか、それは判りません。難しいですね。とても難しいです。
(もう一度繰り返す)難しいですね、とても難しいです・・・。
■ 日本での経験を元にして、あなたが新しい音楽を創造されることを楽しみに待っています。お会い出来てよかったです。
G こちらこそ、お会い出来てほんとうにうれしかったです。アリガトウゴザイマシタ。
(この番組では、放送内容を音声テープから文字におこして、印刷・保存するようにしていた。放送から50年後、すでに筆者の手元にも残ってなかった、この保存台本を提供してくれたのは、当時の制作スタッフだった伊東喜雄さんである。どうもありがとう!)
河内 紀(かわち・かなめ)
1940年、東京生まれ。62年東京放送入社。74年退社後、鈴木清順監督作品『ツィゴイネルワイゼン』『陽炎座』の音楽監督。キース・ジャレットのコンサート・ヴィデオ全作品の演出。88年テレビ・ドキュメンタリー『いま甦る・幻の東京オリンピック』でギャラクシー大賞。著書『ベニヤの学校(晶文社)』『ひとつ弘前のヨネばあさん(音楽之友社)』『ラジオの学校(筑摩書房)』など。